真珠湾攻撃の軍神、岩佐直治中佐の追悼式 郷里・前橋で

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真珠湾攻撃の軍神、岩佐直治中佐の追悼式 郷里・前橋で(産経新聞) - Yahoo!ニュース

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追悼式を主催した岩佐良夫さん。昨春、墓前に中佐の写真つき石碑(左)をつくると墓参者が増えたという=8日、前橋市の松竹院(風間正人撮影)

 

昭和16年12月8日(日本時間)、日米大戦の口火を切った真珠湾攻撃で、特殊潜航艇に乗り込み、26歳で戦死した前橋市出身の岩佐直治中佐(出撃時大尉、死後2階級特進)に対する追悼式典が8日、同市本町にある岩佐家の菩提寺、松竹院で開催され、約40人が参列、御霊を慰めた。主催者によると、遺族による慰霊とは別に有志発案による追悼式は戦後初という。 岩佐中佐は真珠湾内に部下と特殊潜航艇で侵入、米駆逐艦と交戦となり撃沈された。同様な潜航艇はほかに4隻あり、岩佐隊の2人を含め10人のうち9人が亡くなり、九軍神として翌年春、東京で海軍合同葬が行われた。中でも岩佐中佐は有名で、当時の東条英機首相が前橋市の実家を弔問したほか、「軍神岩佐中佐」という楽曲もつくられた。 ただ、戦後は忘れられ、前橋市民の間でも存在は薄れつつあった。 追悼式発起人の岩佐良夫さん(83)は岩佐中佐の遠縁にあたる。今年1月、たまたま墓を掃除していた、もう1人の発起人、狩野嗣男さん(66)と知り合い、岩瀬中佐らが生前、密かに攻撃訓練を重ねた愛媛県三机村(現伊方町)では現在も九軍神の追悼式が行われていると聞き、郷里での追悼式実施を決意したという。 良夫さんによると、檀家の中にも岩佐中佐を知らない家も出てきていた。「だから当初は誰に連絡したらいいのか分からず、大変でした」。式自体は良夫さんらの挨拶と読経、焼香に続き、「海ゆかば」などの邦楽演奏があり、約40分で終了した。 良夫さんに中佐の記憶はないが、真珠湾への出撃前、呉から郷里に戻り当時1歳の良夫さんに「頬ずりしてくれたことは母から聞きました。親戚や友人宅を回って最後の別れに戻ってきたのだと思います」。 墓には、中佐の辞世の句を記した石碑がある。 《桜花(さくらばな) 散るべき時に散りてこそ 大和の花と賞(ほ)めらるるらん》 《身はたとえ異境の海に果つるとも 護らでやまじ 大和皇国(みくに)を》 発起人の狩野さんは「式典は来年以降も続け、もっと大きくしていきたい」と語った。

 

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私のコメント :  令和5年12月8日、昭和16年12月8日(日本時間)、日米大戦の口火を切った真珠湾攻撃で、特殊潜航艇に乗り込み、26歳で戦死した前橋市出身の岩佐直治中佐(出撃時大尉、死後2階級特進)に対する追悼式典が8日、同市本町にある岩佐家の菩提寺、松竹院で開催され、約40人が参列、御霊を慰めた。
 
《桜花(さくらばな) 散るべき時に散りてこそ 大和の花と賞(ほ)めらるるらん》
 
《身はたとえ異境の海に果つるとも 護らでやまじ 大和皇国(みくに)を》