1873年に当時の宇都宮県と栃木県が合併し、現在の本県が誕生してから今年で150年。節目の年に各市町の変遷をたどる。
わがまちの変遷 上三川・日産栃木工場 町の発展支え半世紀
9/15 5:00

1970年代の日産自動車栃木工場(日産自動車提供)
セドリック、シーマ、パルサー、グロリア、スカイライン、インフィニティ-。
高級車から大衆車まで、日産自動車の顔といえる車を生産している栃木工場は上三川町上蒲生で1968年に生産を開始した。
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約292万2千平方メートルの工場内には73年、車両の開発や性能実験などを行うテストコース(6・5キロメートル)がある栃木試験場(TPG)も完成。フェアレディZやGT-Rといった日本を代表するスポーツカーも生まれた。同工場によると、71~90年のピーク時には年間26万台の出荷台数を誇り、従業員は1万人を超えたという。
工場の進出で75年の町の人口は2万5千人に迫った。鬼怒川沿いなどには新築の住宅やアパート、社員寮が立ち並び、新しい街ができた。工場の発展が町の発展を支えたと言っても過言ではない。
町広報誌には80年の「栃の葉国体」で、日産が全国各地の選手団の宿泊に社員寮を提供し、国体を盛り上げたとの記録も残る。
車両検査に携わった人事総務部総務課伊藤和彦(いとうかずひこ)さん(66)は「先輩が後輩に仕事や社会を教え、苦楽を共にして高度経済成長を支えた。各部署で親睦会や運動会なども盛んで、社員一丸となり愛社精神も培った」と振り返る。
その後、栃木工場はリーマンショックや円高、東日本大震災など相次ぐ難局も乗り越えた。進出から50年たった2018年時点で約5200人が働く。
19年発行の栃木工場50周年記念誌には「世界のどこにも負けない栃木工場従業員が徹底的に品質にこだわり車造りに励みます」と記されている。