秋篠宮ご夫妻、ベトナム到着 友好親善目的で公式訪問
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秋篠宮ご夫妻、ベトナム到着 友好親善目的で公式訪問(共同通信) - Yahoo!ニュース
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ハノイの日本大使公邸で、国際協力機構(JICA)隊員らと懇談される秋篠宮ご夫妻=20日(共同)
【ハノイ共同】秋篠宮ご夫妻は20日午後(日本時間同)、
ベトナムの首都ハノイのノイバイ国際空港に政府専用機で到着された。
ベトナムとの外交関係樹立50周年に当たり、友好親善目的の公式訪問。
21日に国家副主席主催の歓迎式典に臨むほか、
第2次大戦で駐留した元日本兵が戦後、現地に残してきた家族らと面会する。
ご夫妻は20日午後1時ごろ到着し、民族衣装アオザイを着た女性から花束を受け取った。
出迎えたベトナム政府関係者とにこやかに言葉を交わした。
その後、日本大使公邸で在留邦人や国際協力機構(JICA)隊員ら約50人と懇談した。
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陸軍元帥 寺内寿一 明治12年~昭和21年〔山口〕
-昭和18年8月7日、インパール作戦準備を命令、南方軍総司令官-
主要略歴
明治32年11月陸軍士官学校卒業(11期)、
42年12月陸軍大学校卒業(21期)、
大正8年7月大佐・近衛歩兵第3連隊長、
11年1月近衛師団参謀長、
13年2月少将・歩兵第19旅団長、
昭和2年8月朝鮮軍参謀長、
昭和4年8月中将・独立守備隊司令官、
昭和5年8月第5師団長、
昭和7年1月第4師団長、
昭和9年8月台湾軍司令官、
昭和10年10月大将、
昭和10年12月軍事参議官、
昭和11年3月陸軍大臣、
昭和12年2月軍事参議官・教育総監、
昭和12年8月北支那方面軍司令官、
昭和13年12月軍事参議官、
昭和14年7~11月ドイツ・イタリア出張、
昭和16年11月南方軍総司令官、
昭和18年6月元帥、
昭和20年11月予備役・南方軍総司令官、
昭和21年6月病死
人物解説
寺内は、父寺内正毅とともに、元帥、陸軍大臣となりましたが、極めて清潔、恬淡とした、政治的野心など毛頭ない純軍人肌の人物であったといわれます。昭和10年大将となった寺内は、二・二六事件の後、11年3月、陸軍大臣となります。寺内の大きな仕事は、粛軍のための人事刷新と陸軍省官制の改正でしたが、その中で軍部大臣現役武官制復活は大きなものでした。これによって後に軍部が政治に関与し、しばしば内閣の運命を左右することとなります。太平洋戦争間は、南方軍総司令官として広大な戦域で百万を超える将兵を指揮します。司令官としては、大綱の決心、隷下軍からの意見上申の裁決などのほかは総参謀長以下に任せていたようです。18年2月のガダルカナル島撤退以降、太平洋正面の戦局は悪化しますが、南方軍正面のビルマにおける第1次アキャブ作戦は進展が望めました。そうして大本営、政府は、ビルマを8月1日に独立させ、寺内は、8月7日、ビルマ方面軍に、ビルマの現防衛態勢を強化するために反撃作戦(インパール作戦)準備を命じます(下掲史料)。しかし、19年7月、インパール作戦は失敗、さらに20年4月にはラングーンが陥落し、脳溢血の病体だった寺内は、「自分の力及ばずしてして今日に至ったことを深くお詫びし・・・」と昭和天皇に宛てて打電し、済まない済まないと繰り返し口にしていたといわれますが、21年6月にマレーシア(レンガム)で亡くなります。