三田文学に関係し「夫の宿題」 遠藤順子 著作 PHP 研究所 発行について。。。

私のコメント : 令和4年7月29日、三田文学 「夫の宿題」 遠藤順子 著作 PHP 研究所 発行を読み始める。・・・
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原爆症認定訴訟とその中で明らかになった事実

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https://www.hankaku-j.org/data/06/090730.html  配信より

内藤 雅義
1.始めに
  原爆症とは、原爆の放射線により引き起こされる病気です。
  2003年に始まった原爆症認定をめぐる集団訴訟は、全国307人の被爆者によって全国の15の地方裁判所に提訴され、その内の11の地方裁判所で13の判決がありました。この内12の判決について控訴がなされて6つの高等裁判所に係属し、その内の3つの高等裁判所で5つの判決が言い渡されました。これら18(地裁13,高裁5)の判決は実質全て原告の勝訴でした。そして、これまでに判決が言い渡された原告194名の内、179名が勝訴となっているのです。

  この訴訟は、訴訟を通じて個々の原告の救済にとどまらず、日本政府に対して原爆症認定制度の改善を求めるものです。同時に被爆の実態を明らかにすることによって、核兵器の廃絶につなげたいという日本被団協を中心とする被爆者の想いに支えられています。
  307名の原告の内、既に約70名がなくなっており、原告らに残された時間はありません。今年の8月6日、7日のヒロシマ・ナガサキデーまでに訴訟の全体的解決と原爆症認定基準の抜本的改善を図るために今、訴訟は大詰めを迎えています。

  そこでこの訴訟の意味と、この訴訟で明らかになった事実を中心に報告します。

2.被爆者に対する日本の法制度と原爆症認定
(1)被爆者に対する日本の法制度
  第2次世界大戦の末期の1945年8月6日と9日、広島市と長崎市にアメリカ軍による原子爆弾が投下されました。原爆は、二つの町を一瞬にして壊滅させ、広島市民14万長崎市民7万人をその年の内に殺しました。更に日本が敗戦後、1952年までアメリカ軍の占領下に置かれたことから、占領下はもちろん、独立後も被爆者は国から放置され、この間に多くの被爆者が死亡しました。

  しかし、1954年3月のビキニ被災事件(ブラボーショットによる被曝)を契機に盛り上がった原水爆禁止運動(1年のうちに有権者の半分以上が原水爆禁止の署名をしました)に押され、1955年には日本被団協が結成され、翌1956年に原爆被爆者に対する法制度が制定されました。その後、何度が法改正が行われていますが、現在の法制度では、被爆時爆心地から一定範囲にいた人(ほぼ、爆心から4km~5km位)、爆心地から2km以内に2週間以内に入った事実等が認められた人が、被爆者健康手帳が交付され、これらの人々が法的な意味の被爆者となります。この法的な意味での被爆者には、医療費について、健康保険の自己負担分が公費で支給されます。

  ただ、日本では、軍人以外の一般戦災者に対する戦争被害補償をしておらず(このことは、日本が戦後日本の侵略戦争の被害国に戦争責任をとらないこととも結びついています。)、その均衡から、被爆者に対する援護制度も放射線被害のみに限定され、原爆死没者に対する補償もありません。その意味では、日本の被爆者制度は、生存者に対する放射線被害に特化した法制度となっています。

(2)原爆症認定制度と立ち上がった被爆者
  原爆症認定制度は、この法的な被爆者に対するものです。法的な被爆者が病気に罹った場合、それが原爆放射線の影響によるものであり、かつ、治療が必要と認められた場合、原爆症と認定されます。そして、原爆症と認定された被爆者には、医療特別手当として月額13万円余が国から支払われます。

  ところが、長い間、原爆症と認定された被爆者は、法的な被爆者全体の0.9%程度に過ぎませんでした(ちなみに、2008年4月当時の法的な被爆者数は、約25万人ですが、原爆症と認定された被爆者は2200人程度に過ぎません)。

  それは、政府は、以下で述べる放射線影響研究所のデータに基づいて、爆心地から2km以内にいた近距離被爆者の特定の悪性腫瘍と、白内障といった特定の非がん疾患についてのみ原爆症認定が限定されてきました。

  ところが、被爆者の手元にデータはありませんでしたし、原爆症は非特異的疾患であり、現在の科学では病理から放射線の影響によるものであることは立証できません。そのため、被爆者自身、距離で区分され、病名が狭いことに納得できなかったものの、長い間、原爆症認定実務に異議が出されないままだったのです。

  ところが、2000年長崎の被爆者松谷英子さんが2.45kmという比較的遠距離で被爆しながら、最高裁判所まで争い、原爆症と認定されました。それにも関わらず、国が原爆症認定実務を改めなかったことから、集団訴訟が提起されるようになったのです。
  それは同時に、戦後60年以上たって、被爆者は「死ぬ前に何としても原爆被害の残酷な実態を告発したい」との想いからでもありした。

  そこで、次いで原爆について説明するとともに、原爆症認定訴訟で明らかになったこと、そしてその背景について述べます。

3.原爆と都市壊滅
  今から64年前の1945年7月16日、アメリカニューメキシコ州アラゴモードの砂漠で、地球誕生以来、最初の核分裂反応である原爆実験が行われました。それから3週間後の8月6日には広島、その3日後の8月9日には長崎と、人々の住む都市の上空で原爆が炸裂したのです。

  原子爆弾が起爆され、核分裂による連鎖反応が始まると、炸裂の中心に数百万度,数百万気圧にも達する高温高圧状態のプラズマ,即ち火球が形成されました。爆発から1秒後、この火球は爆発地点を中心に半径約150mの大きさになり,表面温度は約5000度となりました。頭上数百メートルのところに人工の太陽が出現したのです。

  この人工の太陽である火球は、超高圧の大気の膨張となり,音速を遙かに超えて伝わる衝撃波を生み出し,瞬時に建物を破壊しました。それを追うように爆風が吹き、その風速は,爆心地から500m地点で秒速280mという強烈なものでした。その結果、広島と長崎の街は、10秒で壊滅したと言われます。

  超高温の熱線は,人々の皮膚の奥まで焼き,皮膚を肉体から剥離させました。強烈な衝撃波と爆風は,眼球を眼窩から押し出し,人を木の葉のように吹き飛ばし,たたきつけました。人は,血と体液をしたたらせた皮膚を垂れ下げ,あるものは眼球を眼窩から垂れ下げながら,幽霊のように歩き彷徨い、救いを求めたのです。広島と長崎の川は,無数の死体で埋まりました。その瞬間,人々はその瞬間、何が起こったのか分かりませんでした。熱線によって発生した火災は,破壊された建物に生きたまま下敷きになった人々を襲いました。人はわれがちに死体を踏みながら逃げ惑い,子が親を捨て,場合によって親が子を捨てることさえ起こりました。

  原爆は、街を壊滅させ、焼き尽くしただけではありませんでした。人々が原爆の光を見る前に、火球の中心部から放出された放射線が人々を射抜き、街を放射能に変え、放射能に充ちた巨大なキノコ雲が街を覆い、黒い雨が人々の上に降り注いだのです。人々は、何も知らないまま、焼かれ傷ついた人々を救うために、放射能に汚染された街に入りました。被爆時に傷つかなかった人、人々を救いに入った人の中からも体に異変が生ずるようになりました。人々は、得体の知れない現象におそれを抱き、それを「ガス」と呼びました。

4.原爆症認定訴訟で明らかになった事実
(1)原爆放射線の残虐な特質
  日本では、上記のように原爆が街を壊滅させ、焼き尽くし、そして急性放射線症状で多くの人々が死亡したことは比較的良く知られています。しかし、原爆症認定訴訟は、これにとどまらない原爆放射線の影響を明らかにしました。

  日本でも、被爆後の長期的な放射線影響については、爆心地から近距離(2km以内)で被爆した人が、特定のガンや白内障に罹るだけだとされてきたのです。これに対して、原爆症認定訴訟で明らかになったのは、広い範囲で何時までも人間を苦しめ続ける原爆放射線の残虐な特質でした。

(2)広汎な持続的影響
  第1に、原爆放射線が、被爆直後の急性症状だけではなく、被爆後64年もたった今日に至るまで被爆者を絶えず苦しめ続けた事実、そして、特定のガンや白内障だけではなく多くの病気の原因となっている事実があげられます。

  すなわち、被爆者は、脱毛、下痢といった急性症状から回復した後にも、疲れやすい、化膿しやすい、風邪を引きやすい、根気が無くなったといった「ブラブラ病」と呼ばれる症状に苦しめられ続けました。当時の研究者は、「慢性原子爆弾症」と名付けて被爆者に一種の体質の変化があったことを指摘し、被爆者を診療する一部の医療関係者にもこのような体質変化が知られていました。しかし、当時の検査データに現れないこともあって医学界で広く認知されることはなく、国による原爆症認定の基礎となることもなかったのです。

  これに対して、原爆症認定集団訴訟では、このような体質変化が被爆者に広く存在すること、その体質変化が様々な病気の基礎をなしていることを明らかになりました。判決も原爆症に至る経緯を総合的に判断することを重視し、また、原爆症と認定するがんの種類が拡大され、心筋梗塞、甲状腺機能低下症、肝機能障害といった非がん疾患も広く原爆症と認定されるに至ったのです。

(3)残留放射能と町の汚染
  第2に、原爆症認定集団訴訟は、原爆が広島、長崎の街を放射能で汚染した事実を明らかにしました。

  これまで近距離で原爆に被爆した人だけが原爆症と認定されてきました。炸裂した原爆から飛び出した放射線、つまり、初期放射線の線量だけに焦点を当て、その線量からのみ放射線の影響を見ようとしたからです。

  ところが、原爆症認定訴訟の中で明らかになったのは、爆心地から2km以遠にいた遠距離被爆者や原爆投下後広島、長崎市街に入った入市被爆者にも、脱毛、下痢、紫斑といった放射線による急性症状が現れている事実でした。同時に、遠距離、入市被爆者が急性症状を起こした根拠の一端も明らかになりました。原爆が街を放射能で汚染させたこと、原爆のキノコ雲には放射能が充満しておりそこから放射能が黒い雨等になって被爆者に降り注いだこと、遠距離被爆者や入市被爆者が放射能に汚染された物を吸い込んだり、飲んだり食べたりして、体内に取り込んで持続的に内部被曝したこと等です。

  各地の判決はこれらを踏まえ、急性症状等の被爆の実態に基づいてこれまで切り捨てられてきた遠距離被爆者や、入市被爆者にも放射線の影響を認めたのです。

5.これまで原爆放射線の残虐な特質が明らかにならなかった理由
  それでは、何故、これらの点が明らかにならず、また、原爆症認定が厳しく制限されてきたのでしょうか。

(1)アメリカによる隠蔽
  まず、原爆症認定の基礎となる被爆者の調査がアメリカによる軍事目的で開始されたものであること、被爆の実相が隠蔽されたことが、背景にあります。

  原爆症認定は、アメリカにより、1947年に設立された原爆傷害調査委員会(ABCC)と、その後これを引き継いだ日米合同の研究機関である放射線影響研究所による50年以上にわたる被爆者調査のデータに基づいています。しかし、ABCCは元々アメリカが軍事目的で設立したものであり、被爆者はモルモットであり、データに過ぎませんでした。ABCCでは、被爆者の調査はしても治療はしなかったのです。そのため、日本の医師達が向き合った被爆者の苦しみを全体で見ることはありませんでした。しかも、米占領軍は、原爆被害の残虐性が世界に知られることを恐れ、日本の医師達の研究を禁じ、あるいは、そのデータをアメリカに持ち去りました。その結果、被爆者の持続する苦しみは医学界で公に認知されないままになったのです。

  また、ABCCの調査目的は、原爆の初期放射線による殺傷能力を調べることでした。しかも、アメリカには、原爆の残留放射能が広島、長崎を汚染した事実を否定したい意向が働いていました。そのため、行われた調査は、原爆炸裂時に浴びた初期放射線の影響だけでした。放影研では、初期放射線と胃、肝臓、甲状腺といった個別の臓器へ統計的な関連性を調べることに終始し、被爆者の苦しみを全体として捉えることはなく、残留放射能の影響も無視されたのです。

(2)日本政府による隠蔽への荷担と被爆者の放置
  他方、日本政府も占領下でアメリカに追随して被爆の実相の隠蔽に荷担し、被爆者を放置して治療や独自の調査をすることもありませんでした。その結果、占領が終了するまでに多くの命が失われ、被爆の実相調査の機会をも失ったのです。のみならず、現在の集団訴訟においても、放射線の広汎な持続的影響を否定し、残留放射線の影響を否定する主張を続けています。そこには、単に認定制度の問題にとどまらず、日本政府の現在の核政策、原子力政策にとって好ましくないとする考えを反映していると見られます。

  これに対し、原爆症認定集団訴訟の中で、被爆者側は、過去の被爆者の調査、日本の医師達の努力、医学的、物理学的問題を含むABCC・放影研の調査の問題点を明らかにしました。これらを踏まえて、裁判所は、積み上げられた被爆者の苦しみの実態に沿って原爆症認定を行ったのです。同時に、科学の進歩により抵抗力の低下や体内の過剰反応といった被爆者の体内で起こっている様々な放射線の持続的影響のメカニズムが徐々に明らかになってきたことも認定疾病の拡大を導く根拠となっています。被爆者の体質変化が科学的データからも裏付けられつつあるのです。それは、かろうじて生き延びた被爆者が、明らかにしつつある事実です。

6.原爆症認定をめぐる現在の状況
  2006年5月12日の大阪地方裁判所における最初の判決(9人全員勝訴)から、2009年5月28日の東京高裁判決(30人中29人勝訴)まで、これまで上述したように18の判決が言い渡され、全て原告の勝訴判決となっています。

  裁判所における勝訴判決を受けて、政府は、2008年4月から、国は原爆症認定基準を大幅に改善しました。従前、最大限2kmの初期放射線を浴びた被爆者の制限された悪性腫瘍と極めて近距離の白内障に限定されていた原爆症認定について、被曝の範囲も、疾病の範囲も拡大したのです。

  まず、被曝の範囲については、被爆当時爆心地から3.5kmに居た者にまで被曝距離を拡大したのみならず、一定範囲の残留放射線の影響を受けた人々にまで拡大しました。また、疾病の範囲も、非がん疾患と白内障に加えて心筋梗塞を含むようになりました。しかし、被曝の範囲についても、疾病の範囲についても未だ被爆者の受けた被害に見合ったものとはなっていません。そこで、その後も訴訟が係属しているわけです。

  原爆症認定については、訴訟の経過の中で、原告弁護団は、政治家にも働きかけ、政治家からも様々な協力を得てきました。それが2008年4月の認定制度の改善につながっています。そして、現在政府の官房長官である河村健夫衆議院議員は、従前与党の被爆者対策の責任者をしていたこともあり、2008年9月の官房長官就任時に東京高等裁判所の判決を受けて原爆症認定問題全体の解決を図りたいと述べていました。そして、被爆者側はこれまでの判決の集大成とも言える去る5月28日の判決を受けて政府に対する攻勢を強めています。これを受けて官房長官も8月6日、9日の原爆の日の前に首相と被爆者代表が会い、そこで解決施策を示したいと述べるに至っています。

  原爆症認定を扱う厚生労働省の官僚からの強い抵抗もあり、予断を許しませんが、何とか原爆の日までに解決すべく訴訟と運動を進めているところです。

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故・遠藤周作氏の妻、遠藤順子さん帰天
2021.03.13

http://christianpress.jp/endou-junko/
配信より

作家の故・遠藤周作氏の妻、遠藤順子(えんどう・じゅんこ)さんが1月17日、心不全のため東京都内の病院で帰天していたことが11日、分かった。93歳。追悼ミサ・告別式は近親者で行った。喪主はフジテレビ社長の長男・龍之介(りゅうのすけ)氏。

1927年、東京生まれ。慶応義塾大学仏文科卒。55年、大学在学中に仏文科の先輩後輩として出会った周作氏と結婚。周作氏が『白い人』で芥川賞をとった直後だった。以後、入退院を繰り返す病弱な夫の作家活動を陰で支え続けた。

結婚の翌年、長男の龍之介氏が誕生し、幼児洗礼を受けたことがきっかけで順子さんもカトリックの洗礼を受けた。2005年放送の「こころの時代」(NHKEテレビ)でその当時のことを順子さんは次のように語っている。

子どもが洗礼を受けてから1年ぐらい、それでも(クリスチャンになるまいと)頑張っていました。「とにかく広島や長崎に原爆なんかを落とすようなクリスチャンは大嫌い。私は絶対そういう者にはならないからね」と言って頑張っていましたね。そうしたら主人はとても困ったような顔をして、「お前はバカだな。キリスト教とクリスチャンとは全然違うんだ」とよく申していました。それでも、「どうしても(洗礼を)受けろ」ということは1回も言わなかったんです。……ほんとに自分がやっぱり苦しんでみないと、人の苦しみというのは頭で分かっているだけなんです。……神さまがそういうような苦しいことを与えるのは、決して主人のためでも、意地悪でも何でもなくて、それは「人間としての愛を深めなさい」ということなんだなあと今は思うようになりました。

96年に周作氏が死去した後に執筆活動を開始。周作氏との思い出をつづったエッセー『夫の宿題』(PHP研究所刊)はベストセラーとなった。ほかに、夫の闘病生活や『沈黙』執筆秘話など、知られざるエピソードを語った『夫・遠藤周作を語る』(聞き手・鈴木秀子、文藝春秋)や『再会 夫の宿題それから』(PHP研究所刊)がある。

2000年に開館した長崎市遠藤周作文学館(東出津町)の建設にも尽力した。当時の長崎県知事が周作氏の通夜に訪れ、文学館を長崎にと順子さんに提案したことがきっかけ。複数の候補地の中から、紆余曲折の末、周作氏の代表作『沈黙』の舞台であり隠れキリシタンの里として知られる西彼杵郡外海町(にしそのぎぐんそとめちょう、現長崎市)に文学館を建設することが決定。遺品や草稿など約3万点の貴重な資料を寄託・寄贈した。文学館には頻繁に足を運んで、運営について助言したり、講演したりするなど、館の発展に力を注いだ。

妊娠に悩んでいる女性を支援し、胎児の命を守ろうと活動しているNPO法人「円ブリオ基金センター」(東京)の理事長も務めた。エンブリオとは8週までの胎児の学術名。1円の「円」とエンブリオの「エン」をかけて「円ブリオ基金」と命名され、赤ちゃん誕生を喜ぶ社会を目指している。

「円ブリオ基金」は、ノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサの再来日(1982年)を契機として84年に設立された「生命尊重センター」を母体として始まった。93年から、ひと口1円の拠金を募り、それを原資として「円ブリオ基金」を設立し、困窮している妊婦の出産費用の援助を行っている。2003年には「NPO法人 円ブリオ基金センター」となり、電話相談も開始した。設立以来、センターの支援で841人(2021年2月8日現在)の赤ちゃんが誕生したという。

2019年にフジテレビ社長に就任した遠藤龍之介氏は一人息子で、1956年生まれ。両親と同じ慶應義塾大学に学んだ。また、俳優の岡田英次の従妹にあたる。

雑賀 信行
カトリック八王子教会(東京都八王子市)会員。日本同盟基督教団・西大寺キリスト教会(岡山市)で受洗。1965年、兵庫県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。90年代、いのちのことば社で「いのちのことば」「百万人の福音」の編集責任者を務め、新教出版社を経て、雜賀編集工房として独立。