寺田屋事件は、薩長同盟を取り持った龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃。負傷した龍馬は材木小屋に身を隠し、薩摩藩が救出、屋敷に運び込んだ。幕府側が龍馬を引き渡せと迫ったが、薩摩藩が拒否、両者の亀裂が決定的になったという。
城南宮などによると、絵図は江戸中期の1786年、改築工事などのために作られたとみられ、縦約1メートル、横約1.3メートル。敷地は南北99メートル、東西64メートルで、間取りや配置はほぼそのままだった可能性が高い。
今年4月、城南宮の宮司が古書店で発見、購入した。絵図は4日から城南宮で、7月25日から同博物館で公開する。〔共同〕
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龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく
有料会員記事
高木智也、佐藤達弥
龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく:朝日新聞デジタル (asahi.com)
配信より
坂本龍馬(1836~67)が兄・権平の家族に宛てた手紙が新たに6枚見つかった。高知県が15日、明らかにした。龍馬が幕府側に襲撃された寺田屋事件や、幕府と長州の戦争を生々しく記述。文中には西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀、高杉晋作など維新の志士たちの名前も登場する。
県などによると、6枚の手紙はいずれも縦25センチで、幅は30センチ前後。龍馬が慶応2年12月4日(1867年1月)に記した。手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたが、この6枚は初めて原本が確認された。6枚は手紙全体の4割に相当する部分だという。
手紙の1枚目は寺田屋事件について記述。
66年に京都の寺田屋にいた龍馬が幕府側に襲撃された事件で、龍馬は負傷しながら薩摩藩邸に逃れたとされる。手紙には薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛と語り合い、笑ったことなどが書かれている。
手紙の3枚目は、寺田屋事件と同じ年にあった幕府と長州の戦争を描写している。
長州藩の高杉晋作が錦ののぼり旗を振って指示を出したり、味方に酒を振る舞って戦意高揚を図ったりする様子などが書かれている。
手紙は現在、北海道の男性が…
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明治維新150周年【いざなう維新】
甲突川編3 薩摩藩支えた水の力
朝日新聞デジタル:甲突川編3 薩摩藩支えた水の力 - 鹿児島 - 地域 (asahi.com)
配信より
甲突川が流域の人たちにもたらしているのは、飲み水や生活用水だけではない。1898(明治31)年に鹿児島市小山田町の甲突川沿いにつくられたのは水力発電所。九州で最も古いが、現在も現役で電力を供給している。水力は、近代化を目指した薩摩藩にとっても重要なエネルギーだった。
小山田発電所は九州電力の前身の鹿児島電気会社が建設し、現在は九電が管理している。九電鹿児島水力事業所の簗川(やながわ)晃治副長に発電所を案内してもらった。
国道3号から細い脇道に入り、林を抜けて急な坂道を下りたところに、小さい倉庫のような切り妻屋根の建物があった。簗川さんが基礎部分の石を指さし、「明治当時のものが一部残っています。石にのみの跡があります」と教えてくれた。
すぐそばを流れる甲突川の川幅は20メートルほど。水をためたダムがあるわけでもない。水力発電所といっても、現代のそれとは雰囲気が大きく異なる。
発電所の中は、うなり声のような低い音が響く。会話もできないほどだ。その音の源が、発電所の心臓部である水車発電室。巨大なドーナツ状の装置が轟音(ごうおん)を上げていた。「この中で水車が水を受けて回り、隣の発電機を動かしています」と簗川さん。川の水は発電所の上部にあるプール(上部水槽)にいったんためられた後、約25メートル下に流される。この水の勢いで水車を回し、最大240キロワットの電力を発電する。「甲突川の自然エネルギーをうまく取り出しています。小さい発電所だが、ここだけで住宅約80軒分の電気をまかなっています」と説明する。
九電の記録によると、建設当時の小山田発電所は米国製の水車を使い、出力は60キロワット。10ワットの電灯約830個をともしていた。主に鹿児島市伊敷に置かれていた旧陸軍の連隊などに送電されていたらしい。
建設当時は人気の観光スポットだったという。発電機は屋内にあって外からは建屋しか見えないにもかかわらず、大勢の見物客が周りにござを敷き、建屋を眺めていた。電球の明かりを見て、近所のお年寄りたちが手を合わせて拝んだとも伝えられている。
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薩摩藩は軍備や産業の近代化を急いだ。しかし、エネルギーの確保に苦労した。領内で石炭が埋蔵されていないか調べたが見つからず、11代藩主の島津斉彬は3基の炭焼き窯を作って木炭を量産した。
もう一つ、藩は水力を江戸時代後期から活用し、ものづくりを支える重要なエネルギー源にした。集成館事業では、現在の仙巌園の中を流れる稲荷川から引いた水で水車を動かし、様々な形で利用した。尚古集成館の山内勇輝学芸員によると、溶鉱炉のふいごや火薬の原料の硫黄を砕く装置、大砲の砲口を削る設備などの動力に利用していたという。山内さんは「薩摩藩はいち早く水力に着目し、上手に利用したことで、他藩よりいち早く近代的な工業化を進めることができた」とみる。
(神崎卓征)
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岐阜、鹿児島が姉妹県50周年 薩摩義士が結んだ縁
高木文子
岐阜、鹿児島が姉妹県50周年 薩摩義士が結んだ縁:朝日新聞デジタル (asahi.com)
配信より
木曽三川の「宝暦治水」の縁で始まった岐阜、鹿児島両県の姉妹県盟約が50周年を迎え、記念式典が24日、岐阜県関ケ原町で開かれた。両県知事は今後、両県民に限定した観光割引などを実施して交流を深める方針を確認した。
盟約が結ばれたのは1971年。記念式典はコロナ禍で1年遅れで催された。
鹿児島県の塩田康一知事と岐阜県の古田肇知事は今後、両県民に限定した観光割引キャンペーンを実施する方針で合意。岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(岐阜県各務原市)と種子島宇宙センター(鹿児島県南種子町)が連携して子ども向けのプログラムを実施し、岐阜関ケ原古戦場記念館(関ケ原町)では島津家ゆかりの企画展などを開く方針だ。
記者会見で、塩田知事は「薩摩の先人の苦労をしのび、岐阜県民が長く語り継いでいることに感謝している」、古田知事も「宝暦治水の薩摩義士やそのご縁を守り続けた先人に感謝し、未来志向で関係を発展させていく」と話した。
記念式典には関係者約230人が参加。宝暦治水の地元・海津市立大江小学校の5、6年生が「子ども狂言」を熱演した。鹿児島では、鶴丸城跡の御楼(ごろう)門(鹿児島市)の復元時に岐阜から贈られたケヤキを使い、薩摩琵琶も二つ作成。その一つを記念式典で塩田知事が古田知事に手渡し、友好を深めた。
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宝暦治水ゆかりの交流は、約700キロ離れた岐阜と鹿児島をつないできた。
岐阜県海津市の揖斐川と長良川を分ける堤防は、宝暦治水で最大の難工事とされた。薩摩義士は故郷から取り寄せた松を堤防に植えたという。現在は国の史跡「油島千本松締切堤(しめきりづつみ)」(千本松原)となり、近くに薩摩義士をまつる治水神社もある。松枯れが深刻だった2000年代、千本松原には鹿児島から害虫に強い松の苗木が贈られた。
NPO法人「木曽三川千本松原を愛する会」は、松原で夏場の草刈りに励み、これまでに育てた苗木約60本を鹿児島へ贈ってきた。松田良弘理事長(75)は「姉妹県の交流が100年、200年と続くように、象徴の一つとして千本松原を残したい」と話す。
木曽川と長良川に面した岐阜県羽島市にも薩摩義士や工事に携わった幕臣の墓がある。市内の竹鼻別院では7年前、有志が樹齢300年以上とされるフジの古木の苗木を鹿児島市などへ贈った。現地で昨年、本格的に咲き始めたといい、「竹鼻別院の藤を守る会」の後藤博美会長(72)は「花が取り持つ縁が続いていけば」と願う。
両県の青少年ふれあい事業では、若者が隔年で互いの県を訪れて交流。1972年から半世紀の歴史があり、計3362人が参加した。教員の相互派遣も72年に始まり、小中高校で計305人の教員が赴任した。
遠く離れていて同時に被災するリスクが低いとして、2011年に両県は災害時の相互応援協定も締結。鹿児島・桜島の防災訓練には岐阜の職員も加わり、火山防災の知識を深めている。(高木文子)
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〈宝暦治水〉 江戸中期に木曽三川で実施された治水工事。幕府が1753年に薩摩藩に命じ、家老の平田靱負(ゆきえ)ら約950人が派遣された。工事は難航し、病気や自害で80人以上が犠牲になったと伝わる。