大統領代行と日本大使の面会「ひとまず保留」 欠礼に不快感=韓国

【ソウル聯合ニュース】韓国政府は約3か月ぶりに帰任した長嶺安政・駐韓日本大使が要請した黄教安(ファン・ギョアン)大統領権限代行首相らとの面会について、「ひとまず保留」の方針を決めた。

 長嶺大使が帰任直後、両国の間で調整ができていない黄首相との面会を発表した「外交的欠礼」に対し、不快感を示したものとみられる。

 日本政府は釜山の日本総領事館前に旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、1月9日に長嶺大使を一時帰国させたが、今月4日に帰任させた。

 韓国外交部の趙俊赫(チョ・ジュンヒョク)報道官はこの日の定例会見で、「(長嶺大使から)黄首相との面会要請が外交部にあった」として、「外交慣例、面会の必要性などを総合的に検討し、わが政府が自主的に判断する」との方針を明らかにした。

 その上で、長嶺大使が黄首相と面会する方針を一方的に公表したことについて、「外交首脳との面会と関連した事項を双方の調整ができていない状況で対外的に言及したのは適切ではないと思う」と述べた。

 韓国政府は旧日本軍の慰安婦問題を巡り、加害者である日本の高圧的な態度を勘案し、日本大使の面会要請に直ちに応じるのは国民感情から適切ではないと判断し、検討を進めた上で首相らとの面会を受け入れるかどうかを決める方針だ。首相ではなく、尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部長官が面会に応じる方向でまとめる可能性もある。

 一方、長嶺大使が洪容杓(ホン・ヨンピョ)統一部長官と韓民求(ハン・ミング)国防部長官との面会も要請したことについて、両部は直ちには応じない方針だ。

 統一部当局者は6日の会見で、「在韓日本大使館がきのう午前、長嶺大使と洪長官の面会を要請した」とし、「日程などいろいろな事項のため、面会は難しいという立場をきのう午後(日本大使館側に)伝えた」と述べた。

 国防部も長嶺大使の面会要請について、「きょう午前、面会は難しいとの立場を日本側に伝えた」と明らかにした。

 統一部長官、国防部長官との面会も韓国政府の総合的な判断によって、実現の可否や時期が決まるとみられる。

 長嶺大使は帰任のためソウルの金浦空港に到着後、記者団に対し、「早速にも黄教安大統領職務代行らの要人に直接会い、(慰安婦問題を巡る)日韓合意の実施について強く求めていく考え」と表明していた。

・・・ 2017/4/6(木)、 聯合ニュース 16:22配信 より

私のコメント :   平成29年4月6日、 韓国外交部の趙俊赫 報道官はこの日の定例会見で、「(長嶺大使から)黄首相との面会要請が外交部にあった」として、「外交慣例、面会の必要性などを総合的に検討し、わが政府が自主的に判断する」との方針を明らかにした。長嶺大使は帰任のためソウルの金浦空港に到着後、記者団に対し、「早速にも黄教安大統領職務代行らの要人に直接会い、日韓合意の実施について強く求めていく考え」と表明していた。

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米で発見の短刀、やはり吉田松陰の形見 前橋市が確認

 前橋市は、吉田松陰の形見として伝わり、市に寄託された短刀が、「総合的に判断して松陰のものと確認した」と発表した。日本で初めて生糸の直輸出を実現した群馬県出身の実業家新井領一郎が、販路の開拓で1876年に渡米する際、松陰の妹の寿(ひさ)(初代県令の楫取素彦の妻)が新井に贈ったものだという。短刀は5月7日まで前橋文学館で一般公開されている。

 市によると、短刀は柄(つか)と鞘(さや)を合わせて全長42センチ、刀身が31センチ。もともとは室町時代に作られた槍(やり)で、後に短刀に改造されたとみられる。新井のひ孫で、米カリフォルニア州在住のティム新井さん(57)が受け継いでいた。

 短刀の存在は、新井の孫でティムさんのおばのハル・ライシャワー松方さん(元駐日米国大使夫人・故人)が1987年に出版した著書「絹と武士」の中に記述があったが、どこにあるのかはっきりとせず、市が関係者にあたるなどして調べていた。

 2015年、著書に出てくる短刀に似たものが、ティムさん宅の地下室で見つかり、昨年8月、市に寄託された。市が専門家らの協力をもとに調べたところ、著書に「15、16世紀に作られたもの」「長さ35センチくらい」などと記された部分がこの短刀とほぼ合致した。

 ただ、刀には「□州住人国○作…

上田学

・・・ 2017年4月2日、 朝日新聞デジタル  記事 05時36分 配信より
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「吉田松陰の短刀」140年経て米国から帰還 新井家が寄託、前橋市が「本物」と認定 前橋文学館で公開

明治9年、群馬産生糸の直輸出ルート開拓のため渡米する新井領一郎に初代県令・楫取素彦の妻、寿(ひさ)が贈った吉田松陰形見の短刀。「渡米を果たせなかった兄・松陰と思い一緒に」と告げた有名なエピソードの証拠の品が、子孫から前橋市に寄託され、市が鑑定し「松陰の短刀」と認定した。米国で4世代にわたって受け継がれた“松陰の魂”は140年を経て日本に戻り、31日から前橋文学館(前橋市千代田町)で一般公開される。(住谷早紀)

■知られていなかったエピソード
 水沼村(現・群馬県桐生市黒保根町)出身の領一郎は、東京商法講習所(現一橋大学)で学び、水沼製糸場創始者の実兄・星野長太郎の命で群馬の生糸を海外商社を介さず直輸出するために渡米した。その後、生糸貿易で成功し、日米貿易の基礎を築き、生涯で90回太平洋を渡ったとされる。

 「松陰の短刀」は最初の旅立ちの際に受け取った記念の品だが、実は渡した楫取家でも、受け取った新井家でも、このエピソードは詳しく語り継がれておらず、知らない子孫の方が多かった。

■松陰の妹・寿が贈った短刀
 世に発表したのが領一郎の孫、ハル・ライシャワー(1915~98)。駐日米大使エドウィン・ライシャワーの妻としても知られるハルが、1986年に家族史として出版した「絹と武士」の中で、学生時代、米国留学中にコネティカット州の祖母(領一郎の妻、田鶴)から聞いた話として紹介している。

 田鶴はハルに短刀を見せ、寿の語った「この品には兄の魂が込められ、その魂は兄の夢だった太平洋を越えることによってのみ安らかに眠ることができる」との言葉を伝えた。

その後、このエピソードは広まり、楫取素彦の子孫・楫取能彦氏は「20年前に初めて知った。非常に感動的な話だ」と語った。

■ハルの記述とほぼ一致
 「絹と武士」で紹介された短刀は、約35センチ、15~16世紀のもので鞘(さや)は金細工を施された漆塗り。刀身には「国富(くにとみ)」の銘があり、「現在は私の従兄(いとこ)、新井領に受け継がれている」とハルは記している。
 昨年8月、短刀を前橋市に寄託したのは、新井領の息子で米カリフォルニア州在住のティム新井氏。領一郎の曾孫にあたる。市は昨年12月から、寄託された短刀とハルが記述した短刀を照合し、長さや鞘の細工、黒漆塗りの特徴などが一致し、「松陰の短刀」と認定した。
 一部専門家は短刀の銘がハルの伝える「国富」ではなく室町時代、九州・四国にいた刀工「国益(くにます)」ではないかと指摘したが、ハルが短刀を見たのは執筆の約50年前であることから、市は銘は「国益」の可能性が高いとしている。
 銘の考証を行った籾木(もみき)郁郎・宮崎県総合博物館学芸課長は、「銘の鑑定がなかなか難しく、確定とまではいかないが『国益』と読めた。室町時代の日向国(現宮崎県)に同名の刀工がいたと確認されている。短刀は吉田松陰の遺品ということで、歴史的、希少価値が相当高いと思う」と語った。

■宮部鼎蔵と交換か
 松陰は「回顧録」の中で黒船に乗り込む直前、勤王の志士、宮部鼎蔵(ていぞう)と刀を交換していたことを書き残している。形状や銘など詳細は不明だが、前橋市文化スポーツ観光部の手島仁参事は「短刀が宮部と交換した刀と断定はできない。だが、可能性を否定することもできない」と語った。
 寄託された短刀は室町時代の槍(やり)を改造したもので、柄に獅子を施しているが質素な造り。ティム氏は「宮部は槍の名産地・熊本の出身。短刀が宮部と交換した刀というのは十分あり得ると思う。祖父や父からは元が槍なので、女性用と聞いていた。短刀は代々保管しており、1度も持ち出しはしていません」と語った。

■4年にわたる捜索
 前橋市は、楫取素彦没後100年に当たる平成24年、記念の目玉にと「絹と武士」に登場する短刀の捜索を始めた。米国の新井家に保管されていた4振りのうち3振りを鑑定したが、銘が無く、1度は諦めた。最後の1振りとなったのが寄託された短刀だった。ただ、当初は槍を改造し一見短刀に見えなかったため除外していた。一昨年、調べたところ「国益」の銘があらわれ、日の目を見ることになった。

鑑定で時代考証を担当した三宅紹宣(つぐのぶ)広島大名誉教授(専門は幕末期長州藩)は「蟄居(ちっきょ)中だった松陰は上級武士でもなく、手紙を書くときは安い紙の裏にも文字をびっしりと書き詰めるような質素倹約の人で、華美を好まなかった。寄託された短刀が質素で素朴なのは大きなポイントで、松陰の形見にふさわしく、市の判断には納得がいく」と語った。また、短刀の来歴のにも触れ、「来歴は正しく由緒もあり、手渡された経緯もはっきりしている。140年にわたって新井家という然るべき場所にも保管されていた。その点も市が短刀を松陰の形見と認定したポイントになったのではないか」と指摘した。
     
 前橋市は3月下旬、松陰の墓がある松陰神社(東京都世田谷区)で短刀の奉告式を行った。前橋文学館での一般公開は、5月7日まで。松陰ゆかりの地・山口県萩市などでも展示を予定している。

・・・2017.3.31、産経新聞  07:23更新 配信より

私のコメント :  山口県 萩市 国重要文化財 民家 森田家 (吉田松陰 養母の実家) においては、ハル・ライシャワー松方さんの夫 ライシャワー駐日米国大使との間においても、学術、文化、歴史における国際交流があり、その当時より、森田家の当家よりは、群馬産生糸の直輸出ルート開拓のため渡米する新井領一郎に初代県令・楫取素彦の妻、寿が 贈った吉田松陰形見の短刀、その「吉田松陰の短刀」のゆくえについて、ライシャワー駐日米国大使へお尋ねを入れていた。
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出光興産徳山事業所  「還暦」を祝う 操業60周年で記念植樹 /山口

出光興産徳山事業所は17日、1957年の徳山製油所操業開始から60周年を迎え、周南市新宮町の事業所本館前にソメイヨシノの若木を植樹して「還暦」を祝った。

   「還暦」を祝う 操業60周年で記念植樹 /山口

月岡隆社長と八山光秀事業所長らが、社員や地元自治会の代表らが見守る中、記念の植樹。八山所長は、徳山製油所が約10カ月で完成したエピソードなどを引き「国内に石油を安定供給しようとした創業者の出光佐三の使命感、努力する社員の姿が地元の人々の共感を得て難事業が達成できた」と述べ「今後も地域社会に貢献できる事業を見いだして果敢に挑戦しましょう」とあいさつ。月岡社長は「ベトナムで手掛ける製油所が今年、運転を始める。我々が60年間、この地で培った知見を生かしアジアの国々に貢献していきましょう」と呼びかけた。 事業所は、出光興産初の製油所として57年3月17日、操業を開始。64年には徳山工場を建設し、エチレンなどの石油化学製品の製造も始めた。2014年に製油所は原油処理を停止して石油化学製品製造と燃料油物流を担う徳山事業所となったが、主力のエチレンの累計生産量が今年1月に2000万トンに達するなど、周南コンビナートの中核を担っている。【大山典男】  〔山口東版〕 ・・・ 2017年3月18日、毎日新聞 地方版より

私のコメント :   平成29年3月17日、出光興産徳山事業所は、1957年の徳山製油所操業開始から60周年を迎えた。平成28年7月11日、出光経営側と創業家、平行線。平成28年4月5日 表千家 同門会 全国大会 萩市 国重要文化財 民家 熊谷家 茶室 茶会ヘ 代議士 来席、花燃ゆ、・・・
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「四代」襲名 色彩で新風 <石川>

県在住の九谷焼作家の徳田八十吉さん(53)。2010年に人間国宝だった父の跡を継ぎ、四代徳田八十吉を襲名した。英国の大英博物館に作品が常設展示されるなど、活躍の舞台を海外へ広げている。エキゾチックな色合いは国外にも根強いファンを生み出しつつある。明治期から続く九谷焼の名門の長女として生まれた。父は独自色のグラデーションを生み出して新たな境地を開拓した三代徳田八十吉。幼い頃から父の背中を見て育ったが、「九谷焼作家になるとは思っていなかった」。普通に結婚し、家庭に入ることが漠然とした将来像だった。しかし、20歳代半ばで旅をした米国の美術館で中国・景徳鎮のつぼに出会い、自身のルーツを再確認。1990年に能美市の九谷焼技術研修所を卒業し、作家として歩み始めた。転機は2007年頃だった。脳梗塞で入退院を繰り返す父が、初代から受け継いだ釉薬の調合について教え始めた。2009年、日本伝統工芸展に入選。父は病床で「おめでとう、おめでとう、すごいね」と繰り返し、亡くなった。翌年、四代目を襲名し、戸籍名も順子から八十吉に改めた。しかし、父亡き陶房では、経営者としての力も求められ、「出品作が落選することもあり、落ち込みました。経営者の資質もなく、職人のみんなに、『辞めようと思う』と伝えたこともあった」と振り返る。2011年3月、東日本大震災が発生。世相が暗くなる中、落ち込んだ気分を引きずりながら、陶房の前に広がる田んぼで雨にぬれた稲穂を眺めていた。震災で苦しむ人たちのことを考えると、「悲しいことや苦しいことがあっても、この稲の1粒のように頑張らなければいけないんだ」と不思議と気持ちが前向きになった。改めて作陶に向き合い、目にした稲の実りを表現しようと、深い緑と輝く黄のグラデーションを壺(つぼ)に施した。(2015/1/3 石川県版の記事より。年齢・肩書きは、新聞掲載日のものです)・・・読売新聞 配信 北陸新幹線 沿線の景色より

私のコメント :  石川県 九谷焼作家 徳田八十吉さんが、四代目を襲名、順子から、その八十吉に改められたおりの襲名記念 個展、山口県内の百貨店 美術ギャラリーにおいても、開催されて、石川県 九谷焼 講演をされ、そのおり、私は、四代目 徳田八十吉さんと面談もした。  花燃ゆ、・・・・・
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慶應義塾大学 在学時に、私は、石川県出身 黒田 昌裕助教授から 当時における、慶應義塾大学 統計学講義 授けられている、その間、黒田 昌裕助教授との面識も持ち、私は、黒田 昌裕助教授と会話を交わす機会もあり、その後、功績、認められ、黒田 昌裕助教授は、1978年 - ハーバード大学客員研究員(フルブライト研究員)、同日本研究所研究員(1980年まで)をつとめられた。

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黒田 昌裕(くろだ まさひろ、1941年昭和16年)1月17日[1] - )は、日本経済学者博士(商学)、元慶應義塾大学商学部長、元慶應義塾常任理事、元東北公益文科大学学長。

略歴[編集]

著作物[編集]

著書[編集]

  • 『実証経済学入門』 日本評論社、1984年
  • 『一般均衡の数量分析』 岩波書店、1989年 ISBN 4-00-004339-0

共著[編集]

共訳著[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.314

外部リンク[編集]

・・・ウィキペディア フリー 百科事典より
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慶應義塾大学 在学時代、私は、岩田暁一教授と西川俊作教授 御前において、「経済分析のための統計的方法」 岩田暁一教授から、あるとき、「経済分析のための統計的方法」 面授直説もしていただき、統計的解釈の方法についても教わった。西川俊作教授の論文を読まれる前に、必ず、「経済分析のための統計的方法」岩田暁一著 精読されることを皆様方におすすめします。私が、西川俊作教授から計量経済史関係の問題について、答えを出せない時、岩田暁一教授は、やさしく、私が、わからない理由についてを「経済分析のための統計的方法」内容に沿って、私と西川俊作教授に、わかりやすく、説明もして下さった。国際金融や国際経済、国際外交、政治 等を身近に感じ、各事象に接している方々にとっては、「経済分析のための統計的方法」岩田暁一著 読むこと、その心の一服ともなります。
 
 
「  いかなる事象の確率 P(A) は非負である  P(A)≧0 
 
   確実な事象の確率は 1 である
 
   事象 A、B が排反である場合 ( の公式は、)  ・・・・・ 」