「忠臣蔵」の敵役として知られる江戸時代の旗本、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)(1641〜1703年)とその父、祖父の三代当主が、浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に宛てた書状6通が見つかった。吉良家への贈り物に対する礼を述べたものなどで、同寺が幕府要職にあった吉良家にさまざまな配慮をしていた様子がうかがわれるという。8日から龍谷ミュージアム(同区)で一般公開される。
 
書状は本願寺史料研究所が保管する約20万点の中から見つかった。上野介の書状は4通あり、娘の結婚に祝儀をもらったことや、同寺が年末のあいさつとして五代将軍綱吉に「呉服」を献上し、取り次いだ上野介も「白銀五枚拝受」したことへの礼が記されている。
 
また三代将軍家光の乳母、春日局(かすがのつぼね)が1640(寛永17)年、「(自分に)仕える医師を、母のいる西本願寺で奉公させてあげてほしい」と同寺の宗主に依頼した書状も見つかった。上野介の祖父の書状にも、春日局のこうした願いを同寺に伝える内容が書かれていた。春日局の人となりや発言力をうかがわせるという。
 
本願寺は江戸幕府の方針で東西に分離され、徳川家康の庇護(ひご)を受けた東本願寺に比べ、豊臣家に近い西本願寺は冷遇されていた。同研究所の大喜直彦・上級研究員は「西本願寺が幕府との距離を縮めるため、吉良家と三代にわたって親交を深めていたと考えられる」と話している。【田辺佑介】  ・・・毎日新聞 2012年12月01日 07時42分(最終更新 12月01日 09時58分)より
 
 
私のコメント :  浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)の研究所には、近現代における貴重な歴史に残る各資料も保管されてある。