子供の頃、奈良の下町に住んでいた。
その辺りの家では家に風呂がないのは普通のことで、赤ん坊の頃から銭湯に通っていた。

ちなみにこちらの『旅のままに』さんのサイトにその先頭の写真が出てた。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~manimani/report/nara/city/narayu.htm

なつかしく思っていたら、こちら鹿男さんのブログにこの銭湯が廃業したことが書かれていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/shikaonoko/9898904.html

昭和のある時期、家風呂のある建売住宅が増えてきたからか、みんなが豊かになって風呂を作る家が増えたせいか、全国的に銭湯の数が減ってきたというニュースが相次いだ。銭湯を舞台にしたテレビドラマ『時間ですよ』の中でも晩年はそういう話題がドラマの中にも取り入れられた。かく言う我が家も僕が小4の時に家風呂ができて銭湯に行かなくなった。

次に銭湯に行くようになったのは大学で一人暮らしをするようになってからだ。

最初に東京に出た時、葛飾区の亀有に住んだ。
当時既に銭湯の時代は過ぎていたが、僕が住んだ亀有のアパートからは徒歩5分以内に3軒の銭湯があった。そのうちの1軒は暖簾をくぐって中に入ると小さなビジネスホテルのフロントのようなカウンターがあって、若い女性が座っていた。一瞬入る風呂の種類を間違えたかと思ってしまう作り。でもよく見ればそのカウンターの左右に男湯女湯の暖簾がかかっている。そこはモダンな銭湯だった。

銭湯の作りというのはたいていのところで大差はなく、下駄を脱ぐ場所までは仕切りがなく、そこから男湯と女湯の入り口は別々になっている。入ると左右を分けるように番台があり、当番は入り口を背に男湯と女湯を分ける仕切りに向かって座っている。ちゃんとしたセキュリティシステムだったんだ。

亀有のモダンな銭湯もモダンなのは番台が外にあるというだけで脱衣場と風呂場は一般的な作りだった。そこはいつ行っても混んでいたのでたまに他の2つの銭湯にも足を延ばした。その2軒は昔ながらの銭湯の様相で何となく照明が暗く、古びた感じがした。この界隈は風呂ないアパートが多かったんだろう。どの銭湯もそれなりに混んでいた。時間が遅ければ遅いほど混んでいた。僕も夜の仕事(学習塾講師)だったから、銭湯に行く時間が遅かった。

そのうち一番客の少なかった銭湯が廃業し、次いでもう1軒も廃業してしまった。残った入り口がモダンな銭湯はより一層混むことになるかと思ったが、それほど変化が無かった。銭湯そのものの利用者が減り続けていただけなんだな。

亀有は昭和の生活が他所よりも長く続いてきた町だったのかもしれない。その亀有にも遅ればせながら銭湯が消え行く時がやってきた。そんな昭和末期のこと。

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うどん、そば、ラーメン、パスタどれが好き? ブログネタ:うどん、そば、ラーメン、パスタどれが好き? 参加中

私はそば派!

最近日本を訪れる外国人の間で富士そばが人気というニュースがあった。
僕も大好きだよ、富士そば。
関西出身だからうどんは大阪のうどんじゃなきゃ駄目。だけどそばは東京のそばが好き。関西では絶対そばは食べない。だってうどんの出汁の中にそばが入っているだけだもの。
うどん、そば、ラーメン、パスタどれが好き?
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東京で一人暮らしを始めて、よく駅前の立ち食いそばをひっかけてから電車に乗ってた。特に僕が気に入っていたのはバイト先の金町駅にあった立ち食いそばだ。ここの出汁はとびっきり濃くてまったりしていた。

その後、一旦東京を離れて再び東京に戻って来てから、色々なところの立ち食いそばを食べ歩いた。
立ち食いそばなんてB級!って笑うなら笑え。
僕にとってそばは立ち食いじゃなきゃだめなのさ。

昔グルメ番組でこだわりのそば屋が出ていた。メニューは盛りそばだけで一杯2千円もする。でもさ、それ違うんじゃない?江戸時代以来そばは庶民のファーストフードなんだよ。すばやく出てきて安くてうまい。それがそばのあるべき姿じゃないの。落語『ときそば』でもそんな薀蓄を言っているじゃないか。

さて金町駅の立ち食いそばにはかなわないが、二度目の東京暮らしで僕が愛でたのは東横線日吉駅前の富士そばだ。
20年前の当時でも富士そばは東京の鉄道沿線には広く展開していたんだけど、この日吉駅のはちょっと違ってた。

何がって麺の茹でおきが少ないのだ。客の入り具合を見て茹でる量を調整したいた。だからちょくちょく茹で待ちってことがあった。通勤途上の限られた時間で立ち寄る人の多い立ち食いそば屋で茹で待ち時間があるっていうのは致命的な弱点だ。たぶんフランチャイズのマニュアルにも反していたんじゃないかな。でもそのおかげでこの店のそばはしこしこ感があった。普通の立ち食いそば屋の伸びた麺とは違ったのさ。

またこの店は店に入った所に茹で釜があった。寒い冬は店に入った瞬間のもわーとした湯気に冷えたからだが癒されたものさ。狭い店でさ、サラリーマンがひしめき合いながら、そばをすする。そんな風情がなぜか好きだった。ニッポンのファーストフードのスタイルがそこにある。外国人の琴線をくすぐるのはそんなところなのかもしれないね。

僕のイチオシそばつゆは伊賀越
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一番多く自転車に乗っていた時期 ブログネタ:一番多く自転車に乗っていた時期 参加中
小学校5年生の時、僕は自転車を盗まれた。買ってもらったばかりのウィンカーのついた結構上等なものだった。半年ぐらいして近所の自転車屋さんがそろそろ新しいのをどうですかと持ってきてくれたのは、これといって特徴のない普通の通学用自転車だった。黒の塗装の鉄製フレーム、セミハンドルというちょっと前かがみになるハンドルに、5段変則のギア。当時の男子中学生が乗る自転車はそれがスタンダードだった。

ちょうどその頃、集印サイクリングという企画があった。近畿各地の名所を自転車で訪れてスタンプを集めるというオリエンテーリングか巡礼のような企画だった。僕はこれにはまった。当時、奈良盆地の北端に住んでいたから、子供にとって盆地の最南端にある御所や五条という場所は、はるか遠くの地に思えた。さらにその先の吉野の山地にまで自らの足で行く、それは子供には冒険であり、達成感に満たされた。奈良県全スタンプ制覇、さらには県境を越えて京都や和歌山にまでペダルをこぎ続けた。

以来サイクリングが趣味になり、ツーリングなどにも参加したりした。ツーリングに行くとサイクリング用の本格的な自転車を持ってくる大人の参加者もいる。軽合金のフレームは軽く、明るいパステルカラーの塗装はひどくおしゃれに見え、重くて黒い自分の自転車が格好悪くて仕方かなかった。中高大と受験が相次ぐ我が家にそんな余裕はなかった。何とかこづかいをためてようやく軽合金のドロップハンドルに取り替えたが、そこまでで精一杯だった。

やがて大学に入り、名古屋にもその自転車を持っていった。回りが次々に自動車免許を取りに行く中、僕は自転車にこだわっていた。でも部活動にお金をかけていた当時、高価なサイクリング車を買えるはずもなく、何とかフレームの色をブルーに塗りかえてごまかした。

東京に出る時もその自転車だけは運んでもらった。毎日超満員の地下鉄で都心に通う日々の中で夜や休日に葛飾、足立、江戸川の辺りを自転車で駆け抜けた。荒川土手、環七、矢切の渡…、あの日奈良の下町から走り始めた僕の自転車はとうとう東京までやって来たんだと感慨もひとしおだった。

マレーシアへの渡航が決まり、東京のアパートを引き払う時、家具や電化製品を知人たちに譲ると残った家財道具は廃品回収業者の車代でチャラにされた。その業者も自転車は引き取ってくれなかった。宅配便では送れない自転車。お金のなかった僕はその自転車をアパートの大家に処分してくれるよう頼んで置いて行った。小学校6年生の時から、13年。大事に手入れし続けたおかげなのか、遥かな距離を越えてきたその自転車はまだまだ良好な状態で乗ることができたのに。せめてどこか壊れていればあきらめもついたのに。僕に冒険の興奮と達成感を与えてくれた自転車を僕は大都会の片隅に捨てて来た。


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終わって欲しくない長寿番組 ブログネタ:終わって欲しくない長寿番組 参加中


先日、昔を懐かしむ掲示板のスレで草野仁さんのことが出ていた。
草野さんはNHKからTBSに引き抜かれて以来、ずっと世界不思議発見の司会をされているんだなぁ。
最近の若い人だと草野さんがNHKの朝のニュースをやっていたことすら知らないだろうに。

世界不思議発見は好きな番組の一つだ。
この番組が始まった当時はなるほどザワールドに端を発する海外取材型クイズ番組が雨後の竹の子状態だったが、その中で異彩を放っていたこの番組だけが長く続くことになるのは必然だったのだろうか。

僕は長寿番組というものはすべからく終わって欲しいと思っている。
長く続けることに意義を感じてもうその役割や旬をとうに過ごしているのに無理に続ける姿は見るに耐えない。あるいは惰性で続けているだけの下らない番組も少なくない。
いい番組は惜しまれつつ終わって後に昔を懐かしむ番組で何度も紹介されたり、Youtubeで何万アクセスも獲得する人気クリップになってもらいた。そのほうがその番組の価値が高まるような気がするのだ。

世界不思議発見は続いてほしいという気持ちがある一方で黒柳徹子さんと坂東英二さんがどんどん老いていく姿を見るのは辛いものがある。もう一人、ミステリーハンターの竹内海南江さんもだ。これらのキャラクターも番組の楽しみの一つではある。そうだからこそ輝いている間に去って行ってほしかった。そして何年か経って同窓会として昔の人が出てきてくれる。そういう楽しみがあってもよかったのに。


近鉄奈良駅から南へ3つのアーケード商店街が続いている。
駅を出てすぐのところに東向商店街、三条通を渡ってもちいどの商店街、そして坂道の下御門(しもみかど)商店街だ。
全国的にアーケード商店街というのは昭和の遺物で現在はシャッター商店街となっているところが多いはずだ。ここはどうなのか知らない。最近奈良に行く場合は車で行くので歩行者専用のここら辺は通らない。ただ僕が奈良に住んでいた30年前と違って今はこの道は観光地となった奈良町へ通じる道なので観光客を中心に人通りがあるのだろう。下御門商店街もホームページがあってなかなか垢抜けている。

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僕が子どもだった40年前はこの商店街は既にシャビーだった。子どもの目にもここはくたびれているなぁという印象があった。当時と今はお店が違っている。当時は観光客の目を引くようなお店は一軒もなかった。そもそも奈良町なんて呼び名の場所は無かったし、観光地でもなかった。だからこの商店街も地元の生活に密着したお店ばかりだったのだ。

もちいどの商店街のほうから来ると下御門商店街は上り坂になっている。その坂を上がりきったところに2軒のおもちゃ屋が並んでいた。昭和の商店である。八百屋の店先に野菜を並べるようにおもちゃが並んでいた。まだ2~3歳の頃の僕はこの前を通ると動かなくなったらしい。何とか動かすために何度もおもちゃを買ったそうだ。そんな記憶は全然ないのだが、物心ついた時から家のおもちゃ箱には大量のブリキのおもちゃがあったことは覚えている。

自分が成長するにつれて2軒のおもちゃ屋は時代遅れを感じさせる品揃えとなり、毎年夏になると店頭に特設される花火のばら売りを買うためだけに立ち寄るようになった。いつ2軒のおもちゃ屋が無くなったのか気がつかないまま自分は大人になり、奈良を離れてしまった。

自分が親になり、最初の子どもが初めて正月を迎えた時にお年玉代わりにおもちゃを選ばせたのは、国道24号線沿いにできたトイザらスだった。

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そういえば学生の頃、民俗調査をやっていた。
僕が調査に行ったある村では各家にお墓が2つづつある。
一つは埋め墓でもう一つは参り墓という。
その名の通りで埋め墓には遺体を埋葬(土葬)し、参り墓には墓石が並ぶ。
この2つの墓地が極端には離れていないもののきっちり別の場所に分かれているのが特徴だった。
墓の分譲がマンションの分譲並に競争率の激しい現代の都会では考えられないような習慣だな。

文化人類外の授業で調べた墓の習慣で一番感心したのは確かインドネシア、カリマンタン島(ボルネオ島)の山岳民族の墓だ。そこの民族の墓は横に長い細長の土地で、右端(or左端)から順番に埋めて行き、反対側の端に達したら最初(右端)に戻る。その頃には右端に埋められた人はもう生まれ変わっているから掘り起こしてもそこにはいないという観念なのだそうだ。
なんて合理的なシステム。
耕地が限られる山岳地帯で墓地に充てる土地を増やすことなく、信仰にもそぐわない説明のできるシステムとすっかり感心していたのだが、我が家の実家の村が全く同じシステムだった。

そこでは1軒1軒が横長の長方形の墓地で各家で墓石が5~6基建っている。右端から使っていって左端に達したら右に戻る。その頃にはもう成仏しているから掘っても大丈夫という。インドネシアと同じだ。

時代は変わり、この地区でも市役所から火葬が厳しく義務付けられてから、その習慣も廃れ始めた。[○○家先祖代々之墓]と最近亡くなった家族用の[○○家之墓]の2つの墓石が並んで建ち、故人の戒名を側面に彫るという家が増えている。このため時代ごとに異なった小さい墓石が多数並ぶ墓地は整理され、墓石と敷石や花立、灯篭などが立派に設えられて各家の競争になっている。石屋の一人がちか。

分家の分家になるうちの家は父が生前に墓地を買っておいた。長方形ではなく、正方形だった。

よくわかるお墓と仏壇 選び方・建て方・祀り方/著者不明

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家族が亡くなると葬式やら仏壇やら色々初めて経験することが相次いで気分的に疲れる。
漠然と通夜だの告別式だの49日だのと知識としては知っているが、具体的に何を準備するだの、その日に実際何をするか、葬儀社やお寺さんに指示されてえーっそうなの?ということもままあったりする。

仏壇のこともそうで、宗派によって仏壇に安置する仏像の形が違うというのも今回初めて知った。
一般的に関西では仏壇のことを“アミダはん”なんて言うが、これは「阿弥陀如来」のことで、浄土宗や浄土真宗ではそうだが、真言宗だと「大日如来」を安置する。へぇーそんなんだ。

仏壇のことはもっぱら宗派による違いが際立つものだが、葬儀やお墓のこととなるとその習慣は地域的な慣習に依る違いが大きい。

一般的には葬儀もお墓も宗派に依ると理解されていると思うが、実は違う。

お盆という行事は仏教の行事ではない。

そういうと意外に思われる人が多いと思うが、お盆が仏教の行事でないことは簡単に分かる。仏教では人は死んだ後に新たに生まれ変わる。これは東南アジアのテーラワーダ仏教にもチベット仏教にも共通している基本概念だ。天国にいる死んだ祖先が1年に1回家に帰ってくるお盆の考え方とは全く相容れない。信州や静岡県の山間部では神道の行事としてお盆を行うところもあるのだ。

ことにお墓の習慣というのは民俗学のほうでは「一山越えると習慣が違う」といわれるほど地域的特性が強い。大学生の一頃、やたら墓制というものに興味があって調査研究に熱心に取り組んだ時期があった。1日に4ヶ所もの墓地を調べて回ったこともある。ある地区では一山どころか、1キロほども離れていない隣の村で既にお墓のレイアウトが異なっているという事例もあったほどだ。

明治時代まで大多数の日本人は極めて狭い範囲の中で一生を過ごしてきた。近代から現代になり、日本全国がグローバル化し、地域を越えて人が動き、伝統を引き継がない新たな都市コミュニティーが生まれてきた。葬儀も墓制も新たな概念とシステムを構築する必要が出てきた時に各宗派が統合的な役割を果たすようになった。このため現代の特に都市における葬儀とお墓の習慣が宗派による差異を際立たせるようになってきているのだと思う。

つづく

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仏像の表情 入江泰吉写真集/入江 泰吉

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先日父が亡くなった。
典型的な昭和ひと桁の会社人間で仕事以外に何もない人だった。
思い出を起こそうとしても父に遊んでもらった記憶や親子の会話といったものがトンと出てこない。ただ一つ思い出されるのが小さい頃に歩いた東大寺の境内のことだ。

奈良で生まれ育った人間にとって奈良公園は観光地ではないし、遊び場でもなく、とにかく特別な存在ではない。だからわざわざ行く所ではないのだが、その時は母の用事で家を空けねばならなかったか何かで父が幼い僕と姉を連れて奈良公園に散歩に行った。

ずいぶん小さい頃のことだ。晩秋で天気の悪い日だった。寒くて空が暗かった印象が残っている。昔、東大寺の境内には石造りの滑り台があった。そこには確実に行ったはずだ。その後、大仏殿に入るでもなく、どこをどう歩いたのか東大寺の大鐘楼に出た。自分が小さかったからでもあろう、その鐘は普段墓参りで行く寺にある鐘よりもはるかに大きく、たいそう驚いた。鐘楼の下にみやげ物売りがいて鐘の形のコマを買ってもらった。回すと鐘をついた後の余韻の響きを思わせる音が鳴るという渋いものだった。巨大な鐘に圧倒されたこととそのコマを買ってもらったことが嬉しくて長く記憶に残る旅になったのだろう。

その後も用があったり、悪友たちとつるんだり、成人してからは人を案内して東大寺には何十回も足を運んだが、大鐘楼にたどり着くことがなかった。あれは夢の中の出来事だったんだろうかと思うこともしばしばあった。自分に子どもができて、その子どもたちを連れて何度か奈良公園にも行ったが、ある時、僕と子どもたちとだけで東大寺に行った時、ふと大鐘楼にたどり着いた。40年ぶりに見た鐘は僕の記憶にある鐘とやや形も色も違っていた。自分のイメージの中ではあのコマの色形の鐘がそこにあるはずだったから。もちろん大きさもイメージの中で膨らんでいたほどの巨大さではなかった。

鐘楼の下に売店はなく、近くにあったみやげ物屋にもコマは置いていなかった。

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1/200 東大寺 大仏殿/小林工芸

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京都に梅小路蒸気機関車館という蒸気機関車の博物館がある。
ここには昔あった国鉄丹波口駅の駅舎の一部として切符を売っていた窓口が当時の姿のまま残されている。硬い厚紙のきっぷとそれに日付を入れるスタンプの機械。それを見て僕が思い出したのは奈良の京終駅のことだ。

奈良に住んでいた頃、国鉄の最寄駅は京終駅だった。
「京終」とかいて「きょうばて」。
珍名駅を紹介するテレビや雑誌で紹介されることが多く、最近はレトロな駅舎を今も残すことで鉄道ファンなどのブログでよく紹介されているようだ。

今は無人駅だが、国鉄時代は駅員がいて、キオスクもあった。駅前の広場にはタクシーが停まっていた。旅客駅だけではなく、貨物駅もあった。ホームの横に貨物列車の引き込み線と吉野のほうから運ばれてくる材木の集積場もあった。貨物輸送がトラックの時代になり、材木がこの駅に届かなくなった頃、その場所に家具屋の倉庫が建っていた。

僕にとってこの駅こそが「汽車の駅」として記憶の中に刷り込まれている。
大きな奈良駅あるいは京都駅ではなく、その後毎日の通学で利用した近鉄の駅でもない。
何となくさびしげで、何となく町外れにあり、町を離れて田舎のほうに向かう汽車が出る駅。
一つだけのきっぷの窓口と小さな売店、木のベンチとオレンジ色の電球に照らされた木造の駅舎。

引っ越してからこの駅は電車で通過することはあっても降り立ったことは一度もない。
JR奈良駅は先ごろ連続立体になり、この駅を出るとまもなく電車はまもなく高架橋を上がって行く。両脇にはマンションやホテルが並ぶ。あと30年もすればリニアモーターカーが近くを通るという。

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国道24号線を西名阪・京奈和郡山インターを過ぎて南に少し進むと小さな陸橋がある。近鉄天理線を越える陸橋だ。陸橋を渡り終えた左側にホームセンター“コメリ”がある。ここには昔墓地があった。子どもの頃、年に数回母に連れられて墓参りに来た。奈良からバスで来る。子供心に電車と違って長い時間乗るバスの旅はつまらなかった。この陸橋を越えれば降りるバス停があることはもうすっかり覚えていた。ここに眠る祖母に当たる人は母が子どもの頃に亡くなっている。病に伏した祖母は八木にある病院に入院することになった。当時の入院は布団を持参しなければならなかったらしい。祖母を一人電車で行かせ、母と祖父は布団などを積んだ大八車を押して奈良から八木までの20kmの道のりを歩いて行ったという。道中この陸橋の登り坂が一番きつかったと母は昔をしのぶ。終戦の頃の話だ。今もそのままある電車という存在と大八車を押し歩く父娘という江戸時代を思わせる光景のアンビバレントなイメージがどうしても相容れない。老いた母を乗せて車でこの陸橋を渡りながら昔を思う。

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