父方の曽祖父の戸籍を取り寄せて、初めて分かったことがある。それは曽祖父は高祖父の養子だったということ。高祖父と曽祖父が血のつながりがなかった。それが僕にはがっかりな事実だった。

『歴史読本』などの歴史オタク向けの雑誌で時々「姓」のルーツを探るというような特集があって、以前読んだところでうちの祖先は鎌倉時代にまでさかのぼる武士の一族なのではないかという期待を持っていった。わずか4代さかのぼったところで血筋が途絶えていたなんて…。

その一方で養子をもらっても継がないといけなかった大事な家系だったのかという期待がまた沸いてくる。実は父の遺品の中に古い写真が何枚かあった。父亡き今となっては一体誰が写っているものなのか、知る術もないのだが、その1枚に写っていた男性は曽祖父よりも古い時代のものと思われ、軍服ではないが、官吏のような服装で勲章をつけていた。そういえば祖父もその兄弟たちも官僚ではないものの戦前には官吏と言われた仕事に就いていたと聞いている。俄然期待が高まってきた。

父方の一族は決して裕福な家ではなかったらしい。特に祖父は質素な暮らしを貫いた人で生涯自分の家を持たなかった。曽祖父の戸籍があった住所地は今はその地名が無くなっているのだが、幕末まで続いた藩である伊勢神戸(かんべ)城の城下町(現鈴鹿市)だった。裕福ではなかったのだから、商人ではないはずだ。ということは…とまた淡い期待感。

今は一族ゆかりの家はそこには無いと聞いているが、一度自分で見に行ってみたいよねと僕と大学生の甥っ子は興奮している。「でもそれって私たちが知らないといけないことなの?」と姉とうちの娘はまるで興醒めだ。女にはこいうロマンは分からないものなんかなぁ。

祖父方の戸籍、祖母方の戸籍、そして母方の戸籍を見て分かったことは、どの一族も養子や里子という子供のやり取りをいくつも行っている。第2次世界大戦以前の日本においてそういった子供のやり取りは決して珍しいことではなかったのだろう。子供がたくさんいたということもあるだろうが、それと共に個人よりも家が大事、血筋よりも家系を守ることに意義があった、そういう価値観の時代において子供があるいは男子がいない家に養子を出すことは至極当たり前のことだったのかもしれない。2ちゃんねるの「大人になってから知った家族の秘密」というスレッドにはおじいちゃんが血がつながってなかったということにショックを受ける書き込みがよく見られるが、それだけ全国的に広く行われていた慣習だったのだろう。決して秘密でもショックに思うことでもないのだ。

曽祖父が高祖父の養子に入ったのは18歳の時。恐らく跡継ぎとなる男子が高祖父にはいなかった。だからもう成人に近かった曽祖父が他家から入ってきた。それは家長制度を採っていた明治大正昭和の日本ではよくある相続の一つの形だったのだろう。武士の家系であったかどうかは定かではないが…。

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相続手続きで父の子供の頃の戸籍を取り寄せたら3通もあった。

なんでそういうことがあるかというとその時代、戸籍は一族の長である家長が代替わりをした時に新たに作る仕組みだったからだ。父が生まれた時の戸籍の主(戸主、今で言う戸籍筆頭人)は父の祖父(僕から見て曽祖父)。その後曽祖父が亡くなって新たに戸主となったのは祖父の長兄。父は祖父母ともどもこの戸籍に入っている。

元治元年生まれの曽祖父が新たに戸籍を作ったのは高祖父が隠居し、家長を継いだから。明治16年のこと。天保元年生まれの高祖父が亡くなったのは明治31年。ついでに祖母方の古い戸籍を見てみたら、そこに出ていた一番古い年号は安政2年。井伊直弼が桜田門外で水戸藩士の刃に倒れたのは安政7年のこと。

天保の改革とか安政の大獄とか中学校の歴史の授業で覚えろといわれたから、とっても重大な出来事なんだと思ってきたけど、こうやって自分にゆかりのある人たちが生きた時代の出来事だと思うと実はそんなに突拍子もない話でもないのかなと思ってしまう。実は天保の改革というのは小泉改革みたいなもので、安政の大獄も蓮舫の一大パフォーマンス事業仕分けのようなものだったのかもしれない。

僕らの頃の歴史教育というのは明治時代と江戸時代を断絶させるイメージを植えてしまう。こうやって今市役所で取り出す戸籍という仕組みは憲法が制定され、国会が開かれた明治になって生まれた近代的なシステムであって、江戸時代までは国民は放置だったように感じてしまう。しかし実際こうして江戸時代である天保や安政の年月日が記載される戸籍が出てくるということは江戸時代にもうちのご先祖さまやどこそこの何がしさんがいつどこで生まれた、両親はだれそれでという記録があったはずである。

江戸時代どころか、豊臣秀吉は太閤検地を全国規模で実施したという。現代でいえば土地基本台帳の整備だ。これをやるからにはそれぞれの田畑の持ち主や相続の事実を把握する必要から戸籍になるようなものがあったのだろうと想像する。そもそも歴史教科書を紐解けば、飛鳥時代、大化の改新の頃に最初の全国規模の戸籍が編纂されているではないか。

そうやって考えれば実は奈良時代もそう遠くない?

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父の遺産相続の手続きをして昔の戸籍に触れた。

銀行や証券会社によって対応が違うのだが、一番厳しい銀行から父の生まれてから死ぬまでのすべての戸籍を出すように言われて取り寄せた。今は結婚した時に新しい戸籍=「家」を作る。でも昔は一族の長が戸主として戸籍を持ち、戸主が死んで代替わりした時に新たな戸籍を作ったらしい。だから父の生まれた時の戸籍は曽祖父が戸主。その生年が「元治元年」。今でも戸籍は各人の父母の名前を書くが、元冶元年生まれの曽祖父の戸籍にはその父母の生年まで書いてある。それが「天保元年」。

僕が子供の頃、最初のギネスブックブームがあった。そのきっかけとなったのは泉重千代さん。実在した男性では世界最長寿の記録保持者である。1986年、120歳で亡くなった翁は「慶応元年」生まれ。最後の江戸時代人として話題を集めた。

僕らは小学校で明治時代の前は江戸時代と漠然と教えられた。慶応義塾のおかげで「慶応」が年号で幕末の頃のことということは多くの人が知っているが、それ以前となると途端にわからなくなる。たいていの人がそうだ。慶応以前の年号は天皇の代替わりには関係なく、改元によるので一つ一つの年号の期間が短く、よほど大きな出来事でもない限り、現代の我々にはなじみがない。

曽祖父の生年「元治」は「慶応」の前。池田屋事件があったのが「元治元年」だ。

「天保」というのはなじみのある元号の一つだ。「天保の改革」とか「天保の飢饉」というのは歴史の教科書にちゃんと出てくるからね。ちなみに篤姫は「天保6年」の生まれ。今年亡くなったうちの父が載っている同じ戸籍に名前が出ている大おじいさんが「天保」の生まれだなんて、歴史の時代と現代が一つにつながったよ。

江戸時代と聞くとちょんまげを結ったサムライが腰に刀を刺して闊歩している姿が思い浮かび、明治と聞くとザンギリ頭にはかま姿の書生さんが一輪車に乗っている姿を思い浮かべる。これが今の歴史教育の時代区分の成果であり、錯覚の原因だ。実は我々の生きている現代と江戸時代と呼ばれた時代はそんなに遠くなく、連綿と続いていたのだ。

天保元年は1830年、元治元年は1864年。天保元年生まれの高祖父30歳の元治に曽祖父は生まれた。曽祖父が亡くなったのは昭和7年。江戸時代はついこの間まで続いていたんだ。

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国語の教科書に出てたちょっと好きな話  ブログネタ:国語の教科書に出てたちょっと好きな話  参加中
子供が学校に行くようになって勉強を見ているから、子供の教科書に出てくる話ばかりが頭に浮かんできてしまう。唯一思い出した話が「柿の木のある家」。

小学校の教科書だったろうか、壺井栄さんと言えば「二十四の瞳」。だけど「柿の木のある家」はそんな感動ストーリーではなかったと思う。とにかく切ない気持ちだけがよみがえってくる。

ストーリなんかてんで覚えていない。ただ最後のほうだけ覚えているのは、柿の木が実をつけなかったのは自分のせいだとお爺さんが泣きながら木の足元に置いた大石をどけて、その重労働が元でお爺さんが死んでしまうという話。

何かそこだけ書いてみると、エーっ何だよそれ、訳の分からん展開。何がどうなってそうなるのかさっぱり分からない。残念ながら手元に教科書は残っていないし、ストーリー全体は思い出せない。とにかく切ない気分になったことだけはよく覚えている。

もう一つ、これは子供の勉強を見ていたときに読んだ話で「稲村の火」。今年は東日本大震災があったので、このお話もたびたび引っ張り出されたことだろう。自宅に火を放って村人を津波から救った話だ。でもこの話もよく考えるとヘンなところがある。何で家に火をつけてんだよ。ほかに燃やすもの無かったのか?ってツッコミを入れたくなる。人の上に立つものかくあれという教訓話なんだろうが、僕がこの話で印象深く感じたのは舞台が和歌山だってこと。

全然関係ないんだが、この「稲村の火」を読むとなぜかエルトゥール号遭難の話を思い出してしまう。時代も災害の内容も全然違う。ただ和歌山が舞台ということだけが同じなだけなんだが。和歌山には現代人には到底まねのできない、他者のために自分をなげうってでも奉仕する心意気を持った人たちがいたんだなぁと純粋に感動だ。

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よく飲むのは、水、お茶、コーヒー、炭酸? ブログネタ:よく飲むのは、水、お茶、コーヒー、炭酸? 参加中

私はお茶派!

ここのところお茶を飲むことにはまっている。

この前マレーシアに行った時、知り合いの友人がお茶屋さんをやっていてお土産に高級中国茶をもらった。よく台湾の茶道とか言ってママゴトのような小さな湯飲みを並べて次々にお茶を移し替えてお茶を飲む。こうすると味がマイルドになるらしい。せっかく高級なお茶をいただいたので茶器はそろっていないが、茶碗を移し替えてマイルドにして飲もうとせっせと飲んでいる。いわゆるウーロン茶やジャスミン茶と違って、中国の緑茶なんだが、カフェインが強いせいか、コーヒーの代わりになる。職場にも茶瓶と茶漉しを持ち込んで午前中はもっぱらお茶を飲んでいるのさ。でも確実に日本茶とは味が違う。

この歳になってようやくお茶の味が分かり始めた。

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中国茶の茶器はこれだけ必要。

若い頃はお茶なんて水の代わりだからとお茶を味わうことなんか無かった。最初に勤めたところの上司は朝出勤すると女性社員にお茶を入れさせる習慣だった。女性というだけで部下でもない人にお茶を入れてもらうのは気が引けたし、朝からお茶なんか飲めるかってんで、僕は断っていた。
コーヒーには割りとこだわっていて、自分でコーヒーミルも買って、色々な豆を試したりしている。だから本来はコーヒー派なんだろうな。
せっかくもらった中国茶だが、残念ながらそれ1種類。お店ではほかのお茶も飲み比べさせてくれて味の大きな違いに大変驚いたものだ。
ものは試しと家にある日本茶も飲み比べてみる。味わうためにお茶を飲む。すると日本のお茶も値段や銘柄によって随分と味わいが違うものだ。そんなわけでここ最近は日本茶もわざわざ自分で入れて飲んでいる。ようやくお茶を味わうということの意味が分かってきた気がする今日この頃。
よく飲むのは、水、お茶、コーヒー、炭酸?
  • お茶
  • コーヒー
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  • その他

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親戚の家に子供が生まれた。
うちの実家の辺りでは赤ん坊が生まれると親戚の子供が餅を近所に配ることになっている。
今回はうちの息子たちに餅を配る役が回ってきた。
その赤ん坊の父親が生まれた時、僕が餅を配って歩いたことを思い出した。
その頃、僕はそこに住んでいたわけではないのでわざわざ餅を配るために電車に乗って親戚の家まで行ったのだ。

昔はどこの家でも子供が数人おり、年齢にも幅があっただろうから、そういう役回りというのも当たり前に順繰りだったのだろう。僕が餅を配って歩いた頃にはもう核家族化が進んでいたから、わざわざ離れて住む僕まで話が回ってきていたのだ。

うちの一番上の子が生まれた時は姪っ子が餅を配って歩いたと聞く。姪っ子もぜんぜん違う場所に住んでいたのだが。

たまたま知らずに実家に帰る用ができて実家に戻ったら、ちょうど赤ん坊が生まれて30日。ちょうどいいから餅を配ってという話になったらしい。父親が死んで49日が過ぎ、親戚に赤ん坊が生まれた。僕が子供のときに餅を配った、その赤ん坊が大人になり、結婚して子供ができて、うちの子供たちが餅を配る。

「輪廻転生」という言葉を思わずにはいられなかった。

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カレーとハヤシライスどっちが好き?  ブログネタ:カレーとハヤシライスどっちが好き?  参加中

私はハヤシライス派!

どっちも好きなんだけどね、敢えてどっちが好き?って聞かれたらハヤシって答える。

でも食べる回数は圧倒的にカレーのほうが多いだろう。
なぜかと言うとカレーは家でも食べるし外でも食べる。だけどハヤシは家でしか食べないからさ。

たぶん今までン十年生きてきて、外食でハヤシライスを食べたことはないと思うな。
外でハヤシを出す店ってあるだろうか?
ココイチやカレーの王様にはあるんだろうか?
ハヤシって正しくは“ハッシュドビーフ”。自分的には西洋牛丼と呼んでいるんだが、松屋にもすき家にもハヤシは置いてない。カレーは出るけどね。

一人で昼飯を物色していてカレーの匂いがしてくるとついフラフラと入ってしまう。だから外でカレーを食べる機会は覆い。我が家ではカレーとハヤシがインターバルで出てくる。

僕はトマトっぽい甘ずっぱいハヤシよりもやや苦味のあるデミグラ味の濃いハヤシのほうが好きだ。だけどうちの家内はハウスの完熟トマト派なので基本はトマト系。

それとうちの奥さん、ハヤシには必ずキノコを入れる。西洋料理店なんかではハヤシにスライスマッシュルームが入るからヘンではないのかもしれないが、うちの奥さんが入れるのはシメジでそれもかなり大量に入れる。ハッシュドビーフではなくハッシュドマッシュルームだ。

カレーとハヤシライスどっちが好き?
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子供の時怖かった物、場所 ブログネタ:子供の時怖かった物、場所 参加中
子供の頃、通学路に怖い場所があった。

そこはお寺だったのか、神社だったのか記憶が定かではないんだが、仏画があったんだから、お寺系なんだろうね。人のいないお堂で大きな樹があって何となく薄暗かった。小さなお堂があって軒下に2枚の仏画がかかっていた。その1枚は地獄絵図で閻魔大王やら血の池やら針の山やらで責め苦に遭う亡者の姿が描かれていた。もう1枚は地蔵尊の前で拝む衆生の姿を描いたものだ。地獄に行きたくなければ仏に帰依しなさいということを教える仏画だったんだろうと思う。

見なければいいのに、でも僕は何度も何度もその絵をじっと見た。そしてやっぱり怖くて足早にその辻を通りぬけたものだった。

自分の中では地獄というもののイメージはまさにその絵がすべてだった。奈良国立博物館などで重要文化財になっている地獄絵図などを見てもちっとも怖くないし、むしろおかしさを感じることもある。子供の頃、通学路にあったあの地獄の絵はそれほどにおどろおどろしい印象を与えるものだった。

そんな仏画だから、今から思えば文化財級の珍品だったんじゃないだろうか。今どうなっているんだろう。そう思ってある日母に聞いてみるとそんなものは無かったと言う。子供の頃、僕が住んでいた所は母が生まれ育った家でもあるし、ボケは最近のことは忘れるが、昔のことはよく覚えているものだから、母に無いと自信を持って言われるとちょっとこっちの自信がゆらぐ。

どうやら別の場所で見た仏画をそこのお堂に飾ってあったものと記憶の中でごっちゃにしてしまっていたらしい。考えればそのお堂はやはり神社だったはずだし。そこは神社だったのか、仏教のお堂だったのか、いずれにしてもその辻は小さかった僕にはとても怖い場所だった。その恐怖が地獄絵図の恐怖と一つになって怖い記憶としてずっと心に残っているのかもしれない。


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初めて東京に出た時は亀有に住んだ。
亀有を選んだというよりは、最後にたどり着いたという感じだった。
毎日通う先が飯田橋だから、最初は総武線、地下鉄東西線の沿線で探したのだが、錦糸町から始めてどんどん東に行き、最後は市川まで行ったが、自分の考えていた予算内の部屋がなかった。途方にくれた時に亀有行きのバスが目にとまったのでふらふらとバスに乗って行ったのだ。

亀有で見つけた部屋は東向き2階の日当たり良好台所付の六畳一間で1.2万円という名古屋で住んでいたアパートよりも安かった。しかも駅まで徒歩5分ながら非常に静かな環境。友達や大学の先生らからは絶対(幽霊が)出るから止めとけと言われたが、気にせず入居。以来アパート探しの天才と呼ばれるようになった。

僕がアパートを探す場合、必ず心がけていることは現地にある地元の不動産屋さんで探すことだ。

インターネットのなかった当時、東京で部屋を探す場合、不動産情報誌で電話して駅などで待ち合わせて行くか、沿線別にチェーン展開している大手の都心にあるオフィスで探して、鍵を借りて自分で見に行くといった方法が若者の間では普及していた。こういう不動産会社の場合、安い部屋は釣りで聞きに言ってもどちらかというと悪い面ばかり目立つような説明をされ、嫌そうにすると待ってましたと別の物件を紹介するというパターンが多い。また投資物件が多く、放置されていたり、不動産屋でさえ現実を知らないような部屋が多いのだ。

地元に支店もなく年配の親父さんが個人でやている不動産屋の場合、その物件と周辺の家のことをよく知っていて色々教えてくれる。また大家さんとは長年の付き合いでお互いに信頼できているというケースも多い。

亀有で見つけた不動産屋はまさにそうで、何でこの辺の部屋が安いのか、日立の工場ができて以来の人の移り変わりを話してくれたり、地元の地主であるおばあさんが自分で経営し、家も隣だから安心と紹介してくれた。大家さんに対しても(僕は)ちゃんとした大学を出てしっかりした人だと口添えしてくれた(フリーターだったんだけど)。

その後も東京・横浜で部屋探しをしたが、毎回同じように地元の不動産屋さんを見つけるところから始めて良好で格安の物件を見つけだした。

$All the Way ~ いつか来た道
グーグルストリートビューで見たらまだあった世話になった不動産屋さん。たぶん代替わりしているんだろうけど。

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銭湯の愛好家というのは割と多いようでGoogleで検索すると結構な数のホームページやブログがヒットするものだ。前回書いた亀有にあったフロントカウンターのある銭湯というのは「第一日立湯」という名前だった。他の方のブログに出ていた写真を見ると外観は普通の銭湯だったなぁ。

子供の頃、通っていた銭湯はどこでも必ずあんま機があった。

今のマッサージチェアーとは違うんだなぁ。いすから金属のフレームが2本出ていて。その両端に丸いボールのような指圧ヘッドが付いている。このフレームが緩やかに左右に動くだけで今のマッサージチェアのように押したり叩いたりというバリエーションはなかった。上下に動かす場合はいすの横についているハンドルを回す。このハンドルが車のハンドルと似ているので子供の頃は風呂からあがると横に座って運転手ごっこをするのが常だった。

今から思うと不思議なんだが、このマッサージ機、必ずどこでもらくだ色のシートだったのはどういう訳だろう。今あるマッサージチェアーはたいてい黒革風だ。

写真はこちらの掲示板に出ているのが僕の記憶に一番近いやつ。
http://photoxp.daifukuya.com/exec/photocon/29228

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