一部マニアの人たちの間では大変有名な話らしいが、NHK大河ドラマ「太平記」には後にトレンディドラマで名を上げた常盤貴子さんがちょい役で出演している。そのシーンは足利尊氏邸の使用人である常盤貴子さんが幕閣である二人の武将を出迎えるというシーンである。この時、来訪した武将の一人は細川顕氏、演じていたのはウルトラセブンこと森次晃嗣氏である。
細川氏といえばまず思い出されるのが、戦国武将細川幽斎(藤孝)だろう。じゃあ細川顕氏って幽斎の祖先なの?といえば、まぁそんなようなものである。厳密に言うと細川顕氏は幽斎の祖先である細川頼春の従兄弟。
昭和に日本の歴史を習った僕らの世代は室町時代のことをあまり詳しく習わない。だからイイクニ作ろう頼朝さんの鎌倉幕府から織田信長の時代まで一気にワープしたかのように錯覚してしまう。だが日本の歴史は連綿として続いており、源平の時代から織田信長の時代までも人の縁は続いている
細川幽斎は消滅目前の室町幕府を再興するべく明智光秀の協力を得て15代将軍を擁立しようと奔走した。どうして落ち目の足利将軍家のために尽力したのかと言えば細川氏は足利尊氏の時代以来、主要幕閣だからだ。細川顕氏は足利尊氏が新田・楠木連合軍に破れて九州に逃れた時、四国の武士たちをまとめて足利尊氏軍の西からの進軍に合流させ、京都攻略に貢献した。初代足利尊氏と最後の足利義昭、初代と最後の将軍就任に尽力したのが細川氏なのだ。その細川氏はそもそも足利氏の分家である。
細川幽斎は足利義昭を将軍に据えることに成功すると織田信長に仕えるようになる。
この時織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討って全国にその名をとどろかせたばかりである。
桶狭間の戦いの時、今川義元は京に向かうために途中の尾張を攻略しようとしたと言われてきたが、最近では実は今川に上洛の意図はなく、あい続く尾張と三河の国境争いだったという説が有力らしい。ではなぜ世の人々は今川は上洛するものと思ったのだろうか?それは今川氏には上洛する大義名分があったからだ。
今川氏もまた足利家の分家のひとつであり、「足利に子なき時は吉良が継ぎ、吉良に子なき時は今川が継ぐ」と言われていたという。江戸時代初期、家康の血を継ぐ水戸徳川家と紀伊徳川家があって、将軍家に世継ぎが生まれなかった際はこの2家から選ぶよう家康は訓じたという。同様に足利家のリザーブの家系が吉良家と今川家だったのだ。
室町幕府第13代将軍足利義輝が殺されて、足利将軍家は消滅の危機を迎えていた。だから今川義元は将軍として足利幕府を継承する義務があったのである。
上に出てくる吉良氏はもちろん赤穂浪士によって首を取られた吉良上野介の吉良家である。吉良家は上野介の死をもって断絶してしまうが、江戸幕府において高家筆頭(由緒正しい家柄)として扱われたのは足利氏の末裔だったからだ。吉良上野介の息子は上杉家に養子として出されているが、上杉家の開祖上杉謙信(長尾影虎)が仕えた上杉氏というのは鎌倉時代から足利家と婚姻関係を重ねている一族であり、足利尊氏の母親も上杉家の出である。
細川氏は関が原の合戦で徳川方に付き、江戸時代は大名として熊本肥後藩藩主となり、明治を迎える。その後細川幽斎の子孫、細川護煕は熊本県知事を経て1993年内閣総理大臣に就任した。マスコミはこぞって細川氏がついに日本を制したとか騒いだが、それは細川氏を一戦国大名として捉えた見方だ。祖先の細川顕氏は足利尊氏の側近として室町幕府を築いた足利一族の一員だったのである。
細川氏といえばまず思い出されるのが、戦国武将細川幽斎(藤孝)だろう。じゃあ細川顕氏って幽斎の祖先なの?といえば、まぁそんなようなものである。厳密に言うと細川顕氏は幽斎の祖先である細川頼春の従兄弟。
昭和に日本の歴史を習った僕らの世代は室町時代のことをあまり詳しく習わない。だからイイクニ作ろう頼朝さんの鎌倉幕府から織田信長の時代まで一気にワープしたかのように錯覚してしまう。だが日本の歴史は連綿として続いており、源平の時代から織田信長の時代までも人の縁は続いている
細川幽斎は消滅目前の室町幕府を再興するべく明智光秀の協力を得て15代将軍を擁立しようと奔走した。どうして落ち目の足利将軍家のために尽力したのかと言えば細川氏は足利尊氏の時代以来、主要幕閣だからだ。細川顕氏は足利尊氏が新田・楠木連合軍に破れて九州に逃れた時、四国の武士たちをまとめて足利尊氏軍の西からの進軍に合流させ、京都攻略に貢献した。初代足利尊氏と最後の足利義昭、初代と最後の将軍就任に尽力したのが細川氏なのだ。その細川氏はそもそも足利氏の分家である。
細川幽斎は足利義昭を将軍に据えることに成功すると織田信長に仕えるようになる。
この時織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討って全国にその名をとどろかせたばかりである。
桶狭間の戦いの時、今川義元は京に向かうために途中の尾張を攻略しようとしたと言われてきたが、最近では実は今川に上洛の意図はなく、あい続く尾張と三河の国境争いだったという説が有力らしい。ではなぜ世の人々は今川は上洛するものと思ったのだろうか?それは今川氏には上洛する大義名分があったからだ。
今川氏もまた足利家の分家のひとつであり、「足利に子なき時は吉良が継ぎ、吉良に子なき時は今川が継ぐ」と言われていたという。江戸時代初期、家康の血を継ぐ水戸徳川家と紀伊徳川家があって、将軍家に世継ぎが生まれなかった際はこの2家から選ぶよう家康は訓じたという。同様に足利家のリザーブの家系が吉良家と今川家だったのだ。
室町幕府第13代将軍足利義輝が殺されて、足利将軍家は消滅の危機を迎えていた。だから今川義元は将軍として足利幕府を継承する義務があったのである。
上に出てくる吉良氏はもちろん赤穂浪士によって首を取られた吉良上野介の吉良家である。吉良家は上野介の死をもって断絶してしまうが、江戸幕府において高家筆頭(由緒正しい家柄)として扱われたのは足利氏の末裔だったからだ。吉良上野介の息子は上杉家に養子として出されているが、上杉家の開祖上杉謙信(長尾影虎)が仕えた上杉氏というのは鎌倉時代から足利家と婚姻関係を重ねている一族であり、足利尊氏の母親も上杉家の出である。
細川氏は関が原の合戦で徳川方に付き、江戸時代は大名として熊本肥後藩藩主となり、明治を迎える。その後細川幽斎の子孫、細川護煕は熊本県知事を経て1993年内閣総理大臣に就任した。マスコミはこぞって細川氏がついに日本を制したとか騒いだが、それは細川氏を一戦国大名として捉えた見方だ。祖先の細川顕氏は足利尊氏の側近として室町幕府を築いた足利一族の一員だったのである。















