その竜巻が現れたのをきっかけに、戦場の様子が一変した。小競り合いを繰り広げていた兵士たちが次々と苦しみだしたかと思うと、突然味方に襲いかかる者が現れ始めたのだ。
 中には恐竜や虎のような貌を晒して誰彼構わず喰らい始める兵士まで現れた。
「あの人間たち、正気を失ってしまったようだわ」
 周囲の凄惨を極める状態を見てエドナが告げると、剣を杖代わりにしてなんとか立っているスレイが呟いた。
「と……止めなきゃ……」
 そのままおぼつかない足取りで、ふらふらと歩きだすスレイを見た天族は顔色を変えた。
「スレイッ」
「いけませんっ。今の私たちが敵う相手では……」
「わかってる。ヤバくなったら逃げるよ。みんなの命も預かってるんだから」
 真剣な瞳で言うスレイを見て、ライラは視線を逸らしてうつむいた。
「しょうがないわね」
 代わりにエドナが溜め息混じりに言うと、スレイの顔が少し緩んだ。
「すいません、マルトランさん。オレは行かなくちゃいけなくなったから、マルトランさんはあっちの方に避難してくれますか」
「導師としての仕事か。私のことは気にせず行くがよい」
「ありがとう、マルトランさん」
 右手を肩の高さに上げて見送るマルトランに礼を言うと、スレイは走りだした。
「危なくなったら逃げるんだぞ、スレイ」
「わかってる、ミクリオ」
 ミクリオに返事をしたスレイは、何者かに襲われて地面に転がった。
「ぐはっ……」
「スレイさんっ」
「あ……あれは……」
 エドナの視線の先には、ひときわ大きなまるで熊のような憑魔が斧を右手に握り立っていた。よく見るとその斧の柄は途中でぽっきりと折れている。
「よくも俺様の邪魔をしてくれたな、導師イィ」
 憑魔は血で真っ赤に染まった斧の刃先を舐めると、スレイを睨みつけた。
「この憑魔……」
 エドナの声が嫌悪感に震えているのがわかる。スレイは顔を上げ大地を踏みしめ、剣につかまりながらなんとか立ち上がろうとした。
「さあ、今から貴様も血祭りにあげてくれるぞ。俺様に、ハイランドに仇なす豚があっ」
 マグニスは斧を大きく振りあげると、スレイの顔めがけて叩きつけてきた。スレイはそれを紙一重でかわすと、再び地面を転がった。
「どうした。二本足で立つこともままならんか。もっとも豚にはそれがお似合いだがなっ」
 天族たちは高笑いをする、獣になり下がったマグニスを見上げた。
「駄目ですわ。この方はもう完全に憑魔と化している」
「やるしかなさそうね」
「人を……殺すのか」
 ミクリオの言葉に、スレイは戸惑いを見せた。
「オレが……人を……」
「ぐずぐずしていると、こっちがやられるわよ。早く立ってっ」
 エドナに叱咤され、スレイはふらふらと立ち上がった。
「ハクディム=ユーバッ」
 左手を掲げたスレイを囲んだ岩壁は、マグニスの斧によって粉砕されてしまった。
 しかしマグニスの妨害をものともせず、粉々になって舞う塵の中から、スレイの声が響いてきた。
「エドナッ。こいつを足止めするっ」
 粉塵の中からスレイは大きく跳躍すると、マグニスの背後に降り立った。
「うりゃああああああぁっ」
 スレイが左の拳を振り上げて地面を殴ると、その衝撃で大地が激しく揺れ始めた。
 縦に横に大きく小さく、大地は揺れて互いに干渉しあい、複雑な振動を誘発する。
 おそらく体験したことがないであろう揺れに、マグニスは足を取られ、膝をついた。
「お……のれ……こざかしい……」
 やがて地面は粉々に砕けて、アリ地獄のようにマグニスを飲み込み始めた。
「この……豚があ……っ」
 腰まで地面に埋まったところで大地はマグニスを喰らうのをやめた。
「す……すごい」
「これでマグニスももう動けないだろ。今度こそ行くぞっ」
 スレイは神依を解き、崖の上を仰いだ。
「待……待て、この豚めっ。俺様にこんなことをしてタダですむと思ってるのかっ」
 腰まで地面に埋まり、なんとか脱けだそうともがくマグニスをスレイは見おろした。
「この領域が消えれば浄化できるかもしれない。それまでここで待ってて」
 そう言い残すと、スレイは罵声を浴びせかけるマグニスに背を向けて、ふらふらと走りだした。
 離れて行くスレイの背中に執念深く罵声を投げつけるマグニスの声の調子が変わったのはしばらく経ってからのことだ。
 声に勢いがなくなり、狼狽えるような口調になっている。
「ま……待て、貴様ら。上官にたてつくつもりかっ。……や、やめろっ。やめてくれえっ」
 思わずスレイが立ち止まって振り返るほど、その声は恐怖に満ちていた。しかし当のマグニスには憑魔が群がり、その姿を確認することができない。
 引き返そうかとスレイが迷ったとき、けたたましい叫び声が空気を震わせた。
「ぎゃああああああっ」
 それきりマグニスの声は聞こえなくなってしまった。
「浄化できると思ったのに……」
「自業自得よ」
「そうだよ。スレイのせいじゃない」
 スレイの悔しそうな呟きを聞いた天族たちが口々に慰めると、少年は寂しそうに微笑んだ。
「ありがとう。でもやっぱりオレは……」
「この領域の主を退けるのは無理ですわ」
 ライラがスレイに残酷な事実を告げる。
「それでも行くしかないんだ。オレしか導師はいないんだから」
「無茶ですわっ」
 ライラがスレイの内から出て、彼の前に立ちはだかった。
「ライラ、お願いだ。オレがやらないと、戦争は終わらない……」
 スレイの必死な願いに、ライラは唇を噛みしめた。
「ライラ……頼む」
 重ねてスレイが頼み込むと、ライラはうなづいて答えた。
「……わかりましたわ、スレイさん」
「ありがとう、ライラ」
 スレイが礼を言うと、ライラは悲しそうに微笑んでスレイの内に消えた。
「さ、行きましょ」
「うん」
 エドナに促され、スレイは穢れを撒き散らしている崖の上に向かって走りだした。
 穢れの渦を目指して戦場を駆け抜けるスレイの目に、同じ鎧を着た兵士がお互いに殺しあい、喰らいあっている姿が見えている。その容貌はすでに人のものではなく、爬虫類や獣などの異形の姿として霊応力があるスレイには見えている。
 そして憑魔となった兵士たちが発する穢れは黒い煙のように立ち昇り、吸い寄せられるように災禍の顕主がいるという崖の上に集まっていくのだ。
 スレイは崖の裏側へと回り込み、なだらかな丘を駆け登っていく。その先にいるであろう災禍の顕主に辿り着くために。
 丘を登りきったスレイは、たてがみをなびかせた大きな憑魔の後ろ姿を見た。
「お、お前が……」
 スレイが憑魔の背中に向かって問いかけると、かの者はたてがみをゆらしながら振り向いた。その動きから少し遅れて憑魔の羽織るマントがなびく。垣間見えたその下にはあるはずのものがなく、ただただ深淵が顔を覗かせていた。
「……新たな導師が現れていたとはな」
「お前が災禍の顕主なのか……」
 スレイの問いには応じず、かの者はこれが答えだとばかりに右手を上げると、上空に集まった穢れがスレイの方にざわざわとうごめきだした。
 スレイは災禍の顕主とその頭上の穢れの渦を交互に見上げると身震いした。
「恐ろしいか」
「な、なにっ」
 スレイの心の中を見透かすような災禍の顕主の言葉に虚勢を張ってはみたものの、スレイの体には力が入らず、足はがくがくと小刻みに震えてしまう。
「死の予感……。甘美であろうが」
 隠しきれないスレイの恐怖を見てとった災禍の顕主は愉悦の表情を浮かべ、まだ若い導師をさらなる深淵へと誘う。
「ライラッ」
「はいっ」
 災禍の顕主への恐怖心を振り払うかのように、導師が主神の名を呼ぶと、悲痛な声で彼女は応えた。
「フォエス=メイマッ」
 高々と左手を掲げ、スレイは真名を唱えた。導師の周囲に炎が燃えあがり、彼に迫っていた穢れを焼き払っていく。
 浄化の炎が有効であることに安堵したスレイは、自らを鼓舞するように大声をあげながら災禍の顕主に突っ込んでいった。
「うおおおおおおおおっ」
 スレイの大剣が上段から振りおろされた。しかしスレイの渾身の一撃は災禍の顕主の右手だけでいとも簡単に止められてしまった。
「くっ……」
 大剣を災禍の顕主の右手にがっしりと掴まれてしまったスレイは、なんとか主神の神器を取り戻そうと力いっぱい引っ張るが、ぴくりとも動かない。しかも侵食するように災禍の顕主の右手から剣に穢れがまとわりついてくる。
 焦ったスレイが体全部を使って剣を引き抜こうとするがそれでも微動だにしなかった。
 しだいにスレイの呼吸は荒くなっていき、やがてスレイの精神が限界を迎えると、ぷっつりと糸が切れたように神依が解け、導師の体から主神がはじき飛ばされてしまった。
「あっ……」
 短い悲鳴をあげて大地に叩きつけられた主神には目もくれず、災禍の顕主は悦に入った表情で導師を見おろした。
「まばゆいばかりに無垢よなあ。……お前は誰よりもよい色に染まりそうだ」
 背筋を冷たいものが流れていくのを感じながら、それでもスレイが儀礼剣を構えると、災禍の顕主は口を笑みの形に歪め、咆哮と共に両手を前に突き出した。
「うっ」
 スレイはとんでもない量の穢れを風圧と同時にその身に受け、耐えきれず両腕で顔を覆った。しかしそれでも長くは耐えられず、やがてスレイは膝を折り、両手を地についた。そして胸の底からこみあげる不快感を大地に吐き出して口元を右手で拭って顔をあげた。
 だがそこにはもう災禍の顕主の姿はなく、声だけが辺りに響いてきた。
「我が名はヘルダルフ。若き導師よ……生き延びて見せられるか……。フフフフフフフ……」
 災禍の顕主、ヘルダルフの領域も消えた戦場に残されたスレイは、狐につままれた表情で立ち尽くしていた。
「なんだったんだ……」
 腑に落ちない顔で呟いたスレイは、すぐに異変に気づいた。
「ミクリオ」
 胸騒ぎを覚えてスレイは親友の名を呼んで周囲を見回すが、どこにもその姿はなく、それどころか気配も感じない。
「おい、ライラ、エドナッ」
 続いて主神ともう一人の陪神の名を呼ぶも、彼女らからも応答はなく、スレイは困惑した。
「……ミクリオッ」
 なにかが近づく気配を感じて振り向いたスレイは、思わず後ずさった。そこにいたのは彼の親友ではなく、ハイランド、ローランス両国の兵士たちだったのだ。
「こいつら……。いつの間に……」
 兵士たちから殺気を感じたスレイは、儀礼剣を構えてさらに後ろに下がろうとして、その先がないことに気づいた。
 いつの間にかスレイは崖に追いやられていたのだ。
 足を止め、頼りなげに剣を構えるスレイに、ハイランド兵が一人正面から飛びかかってきた。
「うわあああああああっ」
 スレイが叫び声をあげつつも横によけると、すぐさま今度はローランス兵が左側から斬りかかってくる。それもなんとかかわすが、続けて襲いかかってきた兵士に左頬を殴られ、スレイの口の端から血がしたたり落ちる。
 殴られた衝撃で足をふらつかせるスレイ目がけて、別のローランス兵が剣を振りおろしてきた。
 スレイはかろうじて儀礼剣でその刃を受け止めたが、ローランス兵の信じられないほどの力に、スレイの体がきしみ始めた。
「フォエス……メイマ……」
 歯を食いしばりながらスレイは必死に主神の真名を唱えるが、彼の体にはなんの変化も起こらない。
 ついに兵士の力に耐えきれずに膝をついたスレイはそれでも真名を唱えた。
「フォエス=メイマ……」
 だがスレイの呼びかけも虚しく、ライラからの反応もスレイが神依をまとうこともない。
 絶望感に打ちひしがれ、瞼を閉じかけたとき、スレイに斬りかかっていたローランス兵の剣から力が抜け、ゆっくりとスレイの右側に倒れていった。
 膝をついたままなにが起こったのかわからず、茫然とするスレイの前に現れたのは、見たことのある黒装束の女ーー風の骨の頭領だった。
「……」
 スレイはなにか言葉をかけようとしたが声にはならず、そのまま彼の意識はゆっくりと闇に呑まれていった。