経営者とサラリーマンの決定的違い
4月30日 月曜日 祭日ですがいつもですと通勤していますが
今回は東京郊外にあるゴルフクラブまでプレーはしませんが
コース改造会議に参加してきました。
東京都郊外にある二ヶ所のゴルフコースのメンバーに
なっています。今回はその一つの〇〇カントリークラブの
コース改造説明会に参加しました。
そのクラブは数年間 毎年営業利益が出せず入会書換料で経常利益を
辛うじて確保してきましたが今季は実質累積大赤字を出しています。
その他に入会者から預かっている預託金が45億円もあり
国債、銀行預金にしていますが、いずれ退会者に返す負債勘定で
利息の付かない借入金と同じ負の勘定にまります。
鷹の台、大利根CCは退会者に返済して新入会員からは預託金を
徴収していません。貸借対照表の負債勘定を減らし健全経営を
目指しているからです。
しかしこのクラブの理事長は35年間サラリーマンで退職後は
無職です。企業オーナーと違って付加価値を付ける事には
全く無知でした。
コース改造資金は売上から経費を引き人件費を支払って
経常利益を出して内部保留をして資金不足は銀行借入又は
有償増資、臨時出費、年会費増額しなければなりません。
しかし会員から預かっている大事な預託金からコース改造資金に
流用する案を考えている節があります。改造中は一年間プレー
出来ずその間の人件費、経費、固定資産、償却資産の
税金支払は無計画にちかい考え方でした。
実行に移せば5億円ちかくの出費を覚悟しなければなりません。
規制事実をつくる会議で改造計画は着々と進んでいました。
すでに手付金の一部の設計料金は支払っていました。
工事期間中一年間は営業停止状態になるでしょう。
決定されればこんなコースは早速売ってしまいます。
上場会社勤務、官僚でも35年間、勤め人で毎月25日に
給料を貰っていた人と毎月売上金で資金繰りして給料を支払っていた
経営者とは35年の間に遺伝子が全く違ってしまっています。
理事長、理事達をYahooで検索して見ましたら、それなりの事業、
企業経営者に準ずるオーナーは見当たりませんし、いつでも毎日
平日ゴルフに行ける無職にちかい優雅な暇人の集まりでした。
私にとって社会に貢献しない一番尊敬できない集団でした。
考えてみたら今の政治家、官僚、無職の理事長は同じ穴のムジナ
と思います。
ヨコハマ ヨコスカはジャズの流れる港町
先週から県立歴史博物館で開催されている特別展
ヨコハマ ヨコスカストーリー 二つの港町の戦後文化より
第3章 ジャズの流れる港町
特別インタビュー 原信夫とヨコハマ ヨコスカ
日本を代表するビックバンド、原信夫シャープス&フラッツ
昭和18年横須賀海軍軍楽隊に入隊、軍楽隊ではクラッシク音楽を
何百、何千曲も練習していたそうです。
戦後は郷里の富山に戻っていましたが軍楽隊の同級生からの誘いで
近衛秀麿の東宝交響楽団のオーデションを受けるために上京しました。
休憩中会場を出たところで軍楽隊の同僚にばったりであいました。
「クラッシックじゃ飯が食えない」「ズージャー(ジャズ)をやれば
サンドイッチは食える、ルービー(ビール)が飲める」と誘われる。
当時は食べるものがない時代。実際には樋口静雄のバックバンド
ジャズと呼べるような代物ではありませんでした。
その後軍楽隊仲間と横須賀の進駐軍相手のクラブで演奏、その後
EMクラブ(兵士専用娯楽施設)で演奏していました。
軍人の階級により将校クラブ、下士官クラブ、兵員クラブその下に
黒人兵専用クラブに分けられていましたが、クラブ周りが仕事でした。
黒人兵専用クラブで 熱い演奏にリズムにのれた時に
「ヘーイ、シャープメン」と声をかけられたのです。
「いかすぜ、かっこいいよ」という意味から付けたバンド名でした。
本名は塚原信夫といいますがアメリカ人にはツカが発音出来ず塚を取って
「原信夫とシャープ&フラッツ」にしとそうです。
原信夫が横浜の馬車道の吉田橋を渡った左側に「オリンピック」という
キャバレーで演奏していた時代があります。
ヨコハマは多くのナイトクラブ、キャバレー、ジャッズバーがありました。
米軍をはじめ日本人もジャズとダンスを楽しみに行ったものです。
昭和40年ごろ私が独身時代で遊びなれていないころ、遊び好きな
得意先の購買担当者をオリンピックに接待しました。
キャバレーオリンピックで担当者が好きなホステスを指名しましたが、
外に連れ出し出す事が出来ず、担当者はもんもんとして我慢できずに
野毛の大岡川手前の曙町のトルコ街(今のソープランド)で
発散した覚えを思い出しました。もちろん掛かった費用はこちら持ち
でした。
そんなことが私が遊びを覚えるキッカケで会社の経費で得意先と
公私混同して遊んだ時代もありましたが今は夢の様な時代でした。
もちろん接待ゴルフを含めて一年に70回ちかくラウンドして
オフシャルハンデ10までいきましたが、
とうとうシングルプレーヤーにはなれませんでした。
今は年に20~30回ちかくでHP19すがシングルになれず
悔いの残るBクラスのゴルフ人生になりました。
昭和20年代の横浜物語
神奈川県立歴史博物館発行のヨコハマ ヨコスカストーリー
より美空ひばりがデビューした記録が書かれていました。
昭和24年 12歳の美空ひばりが主演をつとめ、
燕尾服にシルクハットの姿で歌った同名の主題曲が大ヒット。
桜木町や大江橋、吉田橋など映画ロケ地となった。
昭和24年 松竹大船ロケの張り紙にすでに美空ひばりの名前が書かれています。
昭和20~30年代は中々買えないチョコレートでした。
今回、歴史博物館に輸入品で売られていました。物見胡散で
一個200円で買って食べましたが不味くてダメでした。
ロッテチョコレートの方が数段美味いです。
昭和20年代 吸い殻の中から残った煙草を集めて一本の煙草に
巻き直すための道具で、用紙にはコンサイス辞典の
インディアンペーパーが最適でした。
そういえば道路に捨てた煙草拾いを見たことがありました。
昭和20年代 パン焼き器 木箱の内側に2枚の鉄板があり、
その間に練った小麦粉を入れて通電させると、鉄板の発熱により
パンが焼けるという器械で、焼け跡などで広い集めた材料を
用いた自家製のものである。
戦後の横浜 関内山下町付近の写真
6/17まで特別展ヨコハマ ヨコスカストーリーが開催されています。
私のとっては関心がふかい展示会でした。
今回感じたことの一つを書かせてもらいおます。
ポスターにも進駐軍イコール 軍用車ウイリスジープはつき物でした。
神奈川県立歴史博物館発行の「特別展ヨコハマ ヨコスカストーリー」は
戦後の写真を中心に解説している面白い本です。
最初のページは山手方面から山下公園に向かっての写真です。
左上の白い建物ホテルニューグランド以外はB29から投下された
焼夷弾で焼き尽くされています。一般の建物は焼き出されていますが
ホテルニューグランドだけは不思議と被害が出ていません。
十数年前に20名近くで会食をした折当時の総料理長高橋清一氏の
話ではハッキリした証言はありませんが、わざと避けた節があると
話していました。
東京都中央区聖路加病院はキリスト教会とのつながりがあるので
GHQは避けた話は公式に残っています。
周りは焼夷弾で焼き尽くされましたが聖路加病院だけは被害無し。
ホテル・ニューグランドの元高橋総料理長の話では
マッカーサー元帥は子供のころ家族と宿泊、新婚旅行を含め
戦前に合計4回も宿泊しているそうです。
マッカーサー元帥の思い入れがあって、わざと避けたのでしょう、と
説明していました。
今回の写真をみて周りの状況から「避けたな」と納得できました。
戦後、日本統治するため初めて到着した厚木飛行場から
皇居側の帝国ホテル行きと思われていたでしょうが彼は
横浜行きホテル・ニューグランド315号室へ指示さました。
第一騎兵団の横浜進駐 昭和20年9月20日 米国国立公文書館の写真
海兵隊の横須賀進駐 昭和20年8月30日 米国国立公文館
タレント並みの忙しさでした。
午前中は食品健保組合の半日人間ドックに行って
頭の中身以外の検査をしてもらいました。
毎年の事ですが五臓六腑に関しては異常を指摘された
こともありませんので歳のわりには健康体で安心しています。
痛風気味の時期もありましたが今はその症状も全くありません。
骨密度のトレンドグラフでは四〇歳以下の硬さで自慢できます。
超音波電播速度(m/s) 1550ですが意味は分かりません。
そのことが言いたくて話がそれました。
同業者のオーナーが二日前に亡くなりました。
連絡を受けて世田谷区太子堂のお寺の集会所まで
午後からは家内同伴でお焼香に行ってきました。
この日は数週間前から別の同業者より銀座松屋デパート近くの
イタリアン レストラン オープンに招待されていました。
時間帯がずれていましたので喪服、ワイシャツを友人の
車に納めて移動中に着替え銀座まで出かけました。
一日に三か所の移動は滅多にない出来事でした。
翌日の告別式、初七日までは見届けなければなりませんので
忙しい週になってしまいました。
ヨコハマ ヨコスカ ストーリーを読んで
産経新聞 神奈川 横浜版に4月21日~6月17日まで
横浜馬車道通りにある神奈川県立歴史博物館で
特別展 ヨコハマ ヨコスガストーリーが開催されました。
二つの港町の戦後文化について展示構成を三つに分けていました。
プロローグ 焼け跡のなかから
第一章 ヨコハマストーリー
第二章 ヨコスカストーリー
第三章 ジャズの流れる港町
横浜中区馬車道にある県の歴史博物館は威風堂々とした
歴史ある建造物です。月曜日休館ですが中に入って見る個所は
たくさんあります。喫茶店、横浜に関する書籍など販売しています。
題名は宇崎竜童「ヨコスカストーリー」を思い起こさせる題名ですが
見応えのある展示物が集められていました。
個人所有物ですが新品と間違うほど綺麗に手入れしていました。
助手席前のアルミプレートの刻印「REBUILT BY USA
ORDINANCE DEPOT OPPAMA 4AUG 48]
朝鮮戦争直前に横須賀追浜の米軍補給廠で組み立てられた。
当時軍用ジープの輸送には木箱が用いられ、一台分のパーツが
納められた。
私も50年前にスクラップにちかい米製ウイリスジープを購入し
修理工場で座間、厚木などで部品をそろえてもらって年式不明車で
車検がとれた時代がありました。
エンジンはサイドバルブエンジン方式で水溜りが深くてもプラグに
水が入らずじゃぶじゃぶ走れていました。
長いあいだ大事に手入れしていたので、その後希少価値が出て
米製ジープが見直されて人を通じて高い値段でマニアに買って
もらいました。その現金では結婚式の一部の費用になってしまいました。
当時は国産乗用車は日産オーチス、イスズ・ヒルマン、日野ルノーなど
ノックダウン方式で作られ、その後もしばらく走っていた時代です。
当時進駐軍が(GHQ)占領していた羽田飛行場に向かって
行き来していた時代を思いだします。
尖閣諸島は固有の領土について
4月22日 日曜日は小雨の降っている肌寒い日でしたので
ゴルフにも行かずにテレビを見ていました。
フジテレビ7:30より新報道2001を観ていました。
石原慎太郎東京都知事がワシントンで世界に向かって
「尖閣諸島を買います」と発言した事に各党の思惑が
見え隠れしながら話していました。
民主党の長島昭久 元防衛大臣政務官が尖閣諸島問題に対して
腰の引けた、後ろ向き議論をしていました。
その時今回出演の元内閣安全保障室長 佐々淳行氏の
尖閣問題に対して長島衆議員に「貴方の間違えをしてきします」と
意見していました。
長島議員はご指摘の通りと訂正していましたが今の政府では
国が買う、と言ったり中国訪問を前にして引っ込めたり
腰が据わっていません。埼玉県の地主も頼りない
民主党政権には全く売る気が無いと踏んでいる節があります。
成田闘争で社会党、共産党が「一坪地主運動」を展開した
逆手にとって「国民一坪運動」で弱腰の民主党政権に
立向かって行くべきです。
正論 「尖閣一坪運動」で石原氏に続け
テレビ中継時、佐々淳行氏は明日の産経新聞の正論に
尖閣諸島の扱いに私の考えている方法を載せます、と発表しました。
中国共産党一党独裁の中国政府は今の民主党政権には
赤子の手をひねる、よりもやさしいでしょう!
日本政府の弱みを逆手にとって国土、海域、企業買収、
土地購入「なんでもあり」の共産党中国に好き勝手にされています。
最近は中国進出企業に際して商標権問題がおきています。
これから進出企業においても商品の商標権、ロゴの問題が
取り座さされています。全く油断もすきもありません。
国家ぐるみ犯罪集団と言切っても間違っていないでたらめな
相手に友愛などといっている民主党政権では太刀打ちできません。
山荘で新島の宮川水産のクサヤを焼く
真空パックで冷凍されていたので数か月冷凍していましたが
自宅で焼くと台所には糞尿と同じ臭いが染み込むし
庭で焼いても近所に迷惑がかかるし、私の嫌いな猫まで
寄って来てはたまりません。
内心心配していたのは家内は「くさや」を見たことも
食べたこともないので臭さにたまらず知らないうちに
ゴミと一緒に捨てられてはたまりませんでした。
山荘まで数時間かかりますが真空パックしていても
解凍が進むと車内に変な臭いがしてきました。
焼く前に封を切ると昔あぜ道に有った
肥溜めを、ひしゃくでかき混ぜて汲み上げた時の
臭いで田舎のころを思い出してしまいます。
今の若者には想像できないことでしょう。
若い人達はビールと牛肉バーべキュー・パーティーでしょうが
年寄りの家内と二人は「くさや」を焼いて一杯飲んだのが
人生最高の幸せを感じています理由はお互い臭い中です(笑)
くさやを焼き終えるまでの動画です。
備長炭はプロパンガスレンジ火を起こし七輪にくべれば
煙が出ないでスムーズに焼けますが、昭和20年代は
新聞紙と枯れ木を燃やして炭に点火していましたので
あえて時間を掛けてくすぶりながら古式炭焼きにさせました。
今の若い人達は七輪といっても見たことも焼いた事も
聞いたことも無いでしょう。
お袋は災害の非常時の為に買っていたのでしょう。
今どきどこに行っても七輪、火鉢を売っている所を
探しても中々見つからないでしょう。
もしかしたら北千住あたりには見つかるかもしれませんね。

写真で見ていると肥溜めの糞尿の臭いは伝わりませんが家内の
初めてにしては臭さに負けずよく頑張った!(褒めてやる)

くさやのアジ三尾を焼き終えて残った「くさや」は
自宅に持ち帰り熱燗の肴にします。楽しみにしています。

昔は天ぷらを揚げても新聞紙で油を切ったりしていました。
今回もあえて新聞紙でくさやをほぐし新聞紙の印刷インク
臭さとミックスした、何とも言えない一品は抜群に旨い!
この表現は食通以外は理解できないでしょう。

今回は日本酒が無いのでモルトウイスキー(白州)
ロックを飲みながら肴にして堪能しました。
伊豆方面又は関東の酒飲以外は[くさや]の旨さは
理解出来ないでしょう
静岡県の山荘から帰ってきました。
日の当たらない玄関脇に目をやると秋口に植えていた
チューリップに気がつきました。
お袋が昭和20後半に買ったであろう「火鉢」の中に植木鉢を
入れユニークな使用方法を家内がしています。
その火鉢は少なくとも9回以上引越しの度に移動したと思います。
若い人は火鉢といっても今どきは知らないし利用体験は無いと
思います。
若い人の為に少し説明をしておきます。
小学校、中学校、高校までは一家が集まる居間にはチャブ台の
他に火鉢がありました。大晦日から二月初旬までは火鉢で
餅を焼いたりしていました。青かびが生えたらお湯で洗って
焼いて食べたものですが、今は時代が変わってしまいました。
冬の期間、ガスストーブ、電気ストーブ、エアコン、床暖房など
想像することも出来ない時代でした。私は高校時代までは
部屋の中では綿入れ真綿ハンテン、ドテラは必需品でした。
私は少しだけ上品に育ったので綿入りハンテン利用派でした。
高校生から石油ストーブが出始めたと思います。当時の
木造住宅は隙間だらけの安普請造りが当たり前で、障子
フスマが一般的でアルミサッシ、コンクリート造りはありません。
すきま風は何処からも入ってくるので一酸化中毒になることも
無かった時代です。
火鉢の説明は以上です。
一昨日の山小屋に行く前に写した火バチ入りチューリップは
つぼみでした。家内も玄関脇に年代物の火バチを花の鉢に
利用するとは恐れ入りました。
ゴミ屑と一緒に捨てないでリサイクルしているので
日の当たる庭のチューリップは咲きそろっていますが火バチの
チューリップはこれからが見頃になるでしょう。
一年に一度の掃除です。
昭和60年代の景気の良い時代にムダ金を使ってしまいました。
当時は金回りがよく昭和40年代に田園都市線の新駅が
できた○急電鉄不動産が発売した土地を購入しました。
買って数年で倍々ゲームの夢を観させてくれました。
度々○急電鉄不動産から新発売の物件案内がきていました。
評論家の大宅壮一氏が評する「一億総不動産屋」という新語が
流行していた時代でした。
私も40歳代で「妾を持つか別荘を持つか」と若気の至りで
浮かれていました。妾を持つのは飼い犬を買うより手が
かかると思い、節税対策ができると判断して○急電鉄不動産
から海抜900mの山小屋を借入金で買ってしまいました。
後から買って後悔するのは妾も別荘も同じだと後悔しています。
妾を持っていれば商売を教えて小料理屋でもやらせて
タダ酒が飲めたはずですが失敗しました。
今は一年に一回は大掃除におつき合いしなければなりません。
空気の入れ替え、布団の乾燥、ホコリ蜘蛛の巣など撤去
高齢者には負担になりますがセガレ達は全く無関心で
子供のころに行っただけで「行って何するんだ」と全く取り合いません。
売りに出しても今時買う人も少ないでしょう。
テレビは地レジ対応でないので見れませんしネット回線もありませんし
山々が邪魔して無線ランも飛んでいません。
周りには鹿の群れと間違って来たイノシシしかいません。
夜は家内とお通夜の晩と同じ状態で二晩過ごすことになりました。
昨年もらったクサヤを冷凍しているので現地へ持って行って
外庭に持ち出し練炭で焼いて酒の肴で一杯飲む事にします。
町まで下りればヤマダ電気もあるので暇つぶしに立ち寄る
ことにしています。

















