劇団四季ミュージカル「異国の丘」を観てきました。
6年前に劇団四季ミュージカル「異国の丘 」は観ていました。
今回は劇団四季創立60周年記念公演として再公演されています。
ミュージカル「異国の丘」は近衛文麿首相の息子、
近衛文隆 の波乱に満ちた人生が描かれた作品です。
先日、上海探訪シリーズでフランス租界をはじめ、あちこち探索した
ところでしたので「異国の丘」の時代背景と重なることが多く
一回目の上演と違って年代、、国民党、蒋介石、宋家系及び宋美麗、
歴史上の人物は全てよく分かりとても面白く納得できました。
ミュージカル「異国の丘」のストーリーには直接の関係はないですが
作曲家、吉田正を演じたり作詞と曲が流れ涙ほろりとさせられました。
私が満州ハルビンから引揚げた二年後、たしか小学校2~3年ごろ
吉田正作曲「異国の丘」がラジオから度々流れていた記憶があります。
NHKで毎日「尋ね人」コーナーが放送されていた時代を思い出します。
当時、福岡県博多の親戚に同居させてもらっていた従兄弟に
作詞の内容を説明してもらい理解したのちに曲がかかる度に
何だか分かりませんが感極まって涙が出てしまい人前で(親戚、従兄弟)
見せる涙が恥ずかしく照れくさく困ったことを思い出しました。
↓「異国の丘」の一部動画です。
http://www.youtube.com/watch?v=3iPpfnWEXec
元出版社に勤務していた博学多才の私の友人の意見では小説、映画、
演劇は二回続けて読んだり、観たりしなければ作者、監督、演出家が
思っている作品の深層は一回では中々理解できない、と話していました。
私は特に頭の回転が悪いのでこれで安心し彼の持論に納得できました。
5~6年前に南十字星 異国の丘 李香蘭は観ていましが次回9月から始まる
李香蘭をもう一度、劇団四季創立60周年記念公演をわざわざ観る予約をしました。
異国の丘も李香蘭も舞台が満州ハルビン、奉天、北京、上海にわたり
子供心にななか記憶に残っている哀愁が・・あるのかもしれません。
今年73歳になる年齢がそうさせるのでしょうが来年の中国就労ビザ更新期間中は
旧満州ハルビン市を中国語の達者な荒木総経理を同行させて旧日本人街
ハルビン駅付近、大和ホテル内、キタイスカヤ大街、外国二道街など探索する予定です。
児玉誉士夫 巨魁の昭和史を読み終えて
文春新書「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」を読み終えて
恥ずかしいですが巨魁という字は読めない、意味が解らないで
今まで学校でも習わない?・・で過していました。
電子辞書で調べてみましたら
巨魁(きょかい)意味 (盗賊などの)首領。かしら、頭領。大親分
うん~~さすが著者は児玉誉士夫にピッタリ当てはまる漢字でした。
本の内容の大方は知っているつもりで読み始めました。
大学2年のころアメリカのアイゼンハワー大統領来日警備にヤクザ、
右翼集団を総動員して警護する手はずを整えた時の児玉誉士夫の写真が
本の表紙になっていました。警視庁は当時大統領警備に対して自信がなく
警備不可能と判断し内閣に申し出て最終的には児玉の動きになったのです。
GHQからあてがえられた日本国憲法では自衛隊を警備出動することが出来ず
政府は困り果てて頭を抱えていた苦肉の策が児玉の配下全国のヤクザと右翼でした。
しかしアイゼンハワー大統領来日が取りやめられまぼろしに終わってしまいました。
児玉誉士夫と当時内閣総理大臣岸信介との対談写真について内容は
本に詳しく書かれています。
児玉誉士夫と岸信介は終戦後GHQの戦犯容疑で巣鴨プリズンで
3年間留置され取調べを受けていました。したがって共同生活した
同期の桜の関係が構築されていました。
本の内容は戦後の主だった政治家はオールキャストで登場します。
社会党左派、右派はもとより資金援助は莫大な資金力です。
資金援助の見返りは反共産主義、左翼リベラル思想に片寄らない
ことが求められていました。GHQの3年間取調べを終えて
巣鴨プリズン出所後はGHQから多額の資金援助、その後は
CIAからの資金援助を受けて政治家に渡っていました。
児玉はそのほかに日本で採掘されたタングステンは朝鮮戦争で不足した
米国軍事物資として米軍お抱え商社から本土に輸出され、得た資金は
同じく政党、政治家の反共資金になっていました。
日本海軍物資調達の上海特務機関時代にタングステン、モリブデンを
中国鉱山採掘、購入していましたが戦後のにおいてもタングステン鉱山として
日本中の鉱山を取得していました。鉱山名、県が書かれています。
戦後その莫大な資本力で戦後の自由党創設のために鳩山一郎に渡した。
しかし彼は政治家としては一もくも二もくも岸信介をおいて大物政治家とは
認めていませんでした。
出てくる政治家名は数限りなくあり、時には社会党にも資金が流れていました。
岸信介は多くの政治家、官僚、財界を動かせても闇の力はダメでした。
児玉誉士夫は常に政治家の影の(裏方)部分で偉大な影響を与えて
反共産主義を貫くために湯水のごとく資金をつぎ込んだ最後の黒幕でした。
上海探訪シリーズ最終回ー13 上海市虹口付近の台湾小路市場見学
国際都市として第4番目に入っていました。
現在でも外灘をはじめ黄浦江を渡った上海陸家嘴金融地区など
高層ビル群など多く発展しています。
しかし一般上海人の生活を共にしている市場の方が見学には
興味がわきます。
下記の動画は虹口地区に近い台湾小路市場通りを朝方散策した
動画です。ただし二年前に訪問した時の動画ですが
現在も変った様子はありません。日本人、台湾人共に同じ
日本人として生活していた当時の面影も感じられます。
↑台湾小路屋台通り動画
台湾路市場は生活感あふれる街市でした。
紹興酒は年代別にはかり売り、など珍しい販売方法です。
中国式ピザ屋台販売など上海に限らず生活感のある地区は
何回訪問しても見るところが多くあります。
今回の現地添乗員は日本人租界ホンキューについてとても詳しく
上海租界時代の支配者、一般市民、1910~46年時代に各国の情報収集、
軍事物資調達など特務機関の活動など多くを知ることができました。
次回は生まれ故郷 満州ハルビン市をもう一度視察したいと思っています。
ハルビンは異国情緒の残っている北欧(白系ロシア)と同じ街造りで
現在も面影が残っています。
亡くなったオヤジは民族系石油会社の営業で外資系石油会社との
情報取得、満州鉄道に石油、オイル売り込みなどきれい事だけでは
出来ない仕事についていました。
満州ハルビンで両親が欧米式披露宴をした大和ホテルを家内を含めて
もう一度じっくり見たいと思っています。
上海探訪シリーズー12 孫文の令夫人、宋慶齡故居を見学
三姉妹がなかなかすごい姉妹で次女慶齡が孫文と、
三女美齡が蒋介石と結婚しています。
長女靄齡も孔子の子孫とされる大富豪と結婚していることから
宋家三姉妹は「長女は金を愛し次女は国を愛し三女は権力を愛した」と
フレーズが使われています。
「国を愛した」孫文夫人の宋慶齡が暮らした町がこの上海です。
今回の動画、写真は孫文の令夫人、宋慶齡故居を見学です。
↑の動画はクラッシクカーに興味のある方には
とても興味がわくでしょう。1952年製ソ連の高級車と
中国高官専用車が鎮座しています。

孫文の令夫人、宋慶齡故居は上海市淮海中路1843にありました。
その付近は上海フランス租界で上記の洒落たマンションは当時の
上流社会の人達の住まいで一時李香蘭も住まわれていたそうです。
今回その前を通りましたが新築マンションよりも価格が高いそうです。


四人組一人 江青女史(毛沢東)文化大革命で紅衛兵に慶齡が生前中
宋慶齡別荘をぶち壊す命令を出しましたが理由をつけて助かりました。

博物館には多くの文献が残され飾られていました。
入場料100元(1600円)は高すぎますが一見の値打ちがあります。

宋 慶齢は中華民国、中華人民共和国の政治家。
中華人民共和国副主席を務め死の直前に
「中華人民共和国名誉主席」の称号を授けられたそうです。


孫文も住まわれていたので広い庭では欧米人を含む野外パーティー
など度々開催されている白黒写真がかざられていました。

慶齡もアメリカ留学をしていたので英文をはじめ中国文章など
達筆で才女の誉れ高いなど初めて知りました。

動画でガイドさんの説明がありますがソ連製高級車の説明書と
自動車

上海探訪シリーズー11 上海租界虹口区の親日上海人
上海を舞台にしたの歴史物小説(1910~46年)に必ず
登場する人物は前回書き込みました政・官・財に多大な影響を与えた
秘密結社、青幇の「黄金榮・杜月笙」についてでした。
今回の上海訪問の話題は終わりにする予定でしたが、
魔都上海、オールド上海(老上海)時代の事については
まだまだ知りたいことがたくさんあり、おくが深いです。
それに比べると北京は天安門、万里の長城以外見るものは
ありません。一度見れば「ハイ見ました」で終わりです。
次回も上海訪問の機会があれば近代歴史に興味にある方で
あればだれかれ問わず日程が合えば同行させてもらいたいと思っています。
今回は当時租界の虹口区旧日本人住宅に住まわれている
上海人との会話を下記の動画で聞くことが出来ました。
↑の動画は旧日本人住宅に住んでいる上海人の話です。
日本人租界、虹口区に住まわれている上海人はとても親日です。
彼らは日本語をはじめ日本人と何らかの接点があり好意を持っています。
中国政府高官の発言と違って現場で会った上海人の会話を
上記の動画で是非見て聞いてください。
私の中国人に対する反中イメージとかけ離れていました。

上記の動画で見たとおり旧日本人住宅入口付近です。
ここの日本人住宅は他の住宅に比べて当時は高級住宅でした。

最近リニューアル工事中でしたが当時のおもむきがあり
高級住宅と解りました。


数日前に出した写真ですが日本海軍陸戦隊(シャンリンク)本部です。
当時屋上にはサーチライト、サイレンなど取り付けられていました。
ビルの屋上に見えるヤグラがそうですが、不信者、車などは
この場所から機関銃で掃射出来たでしょう。
ジェスフィールド76号の建物の屋上にも同じくヤグラがあり
同じ方法を取っていたのでしょう。

上海滞在最終日、午前中は外灘(バンド)のウオルドルフ・アストリア
上海ホテルから四川東路を通り福州路に入り旧競馬場方面を散策しました。
デック・ミネの夜霧のブルース作詞に
「夢の~スマロか~ホンキューの街か~」
スマロは四馬路の意味で四頭立馬が通れる道幅の道のことです。
ホンキューは日本人租界の虹口を意味しています。
当時スマロは歓楽街で男の遊び、遊郭が立ち並んでいました。
今回現在の福州路に当時の面影が残っているか数枚の写真を掲載します。

あやしいな~現在は旅館と書かれている建物ですが
当時は二階のベランダから「お兄さん遊んでいかない~」などと
声を掛けられた雰囲気のある四馬路を感じさせます。

この建物は遊郭に間違いない!と確信できます。
私が18歳のころ売春禁止法が国会で成立しました。
当時、川崎市南町、堀の内にあった赤線の雰囲気に似ています。

現在の一回はコンビニになっていますが2階、3階の
ベランダのある雰囲気はあやしい建物です。

これからの写真は福州路から一本手前の通りです。
小雨が降った後なので洗濯物を干す飛び出した鉄棒には
昔の香港を思い出しました。



上記3枚の写真は外灘から数分の地区ですが開発されていません。
中々雰囲気もあり時間があればこの近くの一膳飯屋で飲茶して
端午の節句を祝ったチマキでも食べたかったです。

旧上海市は散策していても見る場所が多くありますが
黄浦江を渡った地区は高層ビルばかりで見る所はありません。

天気に恵まれた上海探訪でしたが最終日小雨が振り出しましたが
雨降りの上海も風情があって素敵な町並みでした。
上海探訪シリーズー10 中国の秘密結社「青幇」杜 月笙
今回の上海訪問目的は日本人租界虹口を中心に東本願寺、
横浜橋、魯迅、内山書房跡、陸軍総司令部、ジェスフィールド76号
所在不明の鄭蘋如(テンピンルー)秘密結社、青幇の黄金榮、
今回は上海知識人ならば誰でも知っている大物「杜月笙」についてです。
「杜月笙」について初めて知ったのは邱永漢先生の「女の国籍」下巻に
登場したことです。主人公の北小路華子がブロードウエィーマンションに
上海実在の表顔と闇世界の超大物「杜月笙」が一晩逢引に使った
ホテルとして登場します。それから杜月笙について気になりだしました。
話がそれましたが杜月笙についてはウィキペディアで調べれば詳しく
説明されています。1920~46年代の上海を舞台にした
上海租界、上海事変、蒋介石、阿片売買における里見甫、
多くの小説に登場します。つい最近読み直したクリストファー・ニューの
「上海」上下巻から香港につながる大河小説にも「あばたの陳」として
書かれています。彼は中匯銀行董事長、色々な要職についていました。
(ウィキペディア一部貼り付け)
1930年代は絶頂期であり、
最も有名なのは1931年に行われた杜家祠堂の落成式で、
8万人もの人々が祝いにかけつけ、政財界のみならず
各国の外交団代表までもおとずれた。
彼は上流社会の名士となり慈善事業も精力的に行なった。
労使紛争の調停にも活躍し1932年には政治団体「恒社」を設立している。
人々は困ったことがおきると杜月笙を訪ねて解決してもらっていた。
(貼り付け終)
日本流にいえば経団連会長、警視庁総監、銀行頭取、右翼、ヤクザを
兼ねた超大物。英国が合法的に持ってきた阿片が禁止されてから
阿片で巨額な利益を上げて中国一の青幇及び実業家になり
蒋介石に多額の援助をして国民党の金庫番になっていました。
↑動画(杜月笙本宅とお客を招く迎賓館)
前回の黄金榮に認められて青幇の最高権力者に上り詰めた
杜月笙の本宅と道をへだてた迎賓館は現在も保存されています。

フランス租界の准海路と東湖路をはさんで杜月笙の本宅
道路渡った迎賓館がありますが現在は東湖ホテル。

東湖ホテルの全貌ですがフランス租界地のは准海路は環境も良く
素晴らしい所でした。

道路側から見る東湖ホテルは一見何処かの大使館と間違えるほど
静かで団体客向けではありません。

通りに面して書かれている看板

ホテル内にめずらしい竹林があります。

今回、ガイドさんも始めて東湖ホテル内部を見学した様子。
建物は確りしていて4星ホテルと表示されていました。

ガイドさんの説明では東湖ホテルのお客様の大方は省庁の
役人が多く利用している、と話していました。

元迎賓館、玄関前には金属製で龍の図柄が彫られていました。
権力者は何かに付けて龍がお好きのようです。

ホテルフロントから見える階段もクラッシクで素晴らしい!

ホテル内の中央階段を最上階から写した写真です。
人影もまばらで時々見る滞在者の様子は省庁役人と直ぐに気がつきました。
彼らは何かのコネで安く泊まっているのでしょう。
役人と民間人(商売人、経営者)の区別は活字では表現できませんが
人相、ふうたいを見れば直感でわかります。

上記の写真は現在の東湖ホテルから通りを渡り本宅の
記念館になっている建物でした。
しかし一般公開はしていない様子でした。宿泊者には公開可と
思いますが是非見たいところです。
たとえ入館できなくても外灘(アストリア・ウオルドルフ)の
一泊5~6万円以上のホテルよりも気にいりました。
次回、上海訪問する機会には絶対、東湖ホテルを指定します。
各所の白壁にオールド上海のめずらしい写真が飾られていて素晴らしい。
ただし朝食は西欧料理には期待出来ませんが粥に入れる
腐乳豆腐、漬物、硫酸銅入りピータン?があれば満足できます。
上海探訪シリーズー9上海の大物青幇 黄金榮について
香港は大英帝国が統治権限を有する総督が政治経済に深く関与し
経済発展をしましたが、その一つは中国共産党から逃げ出した
上海からの移民による発展があったからでしょう。
当時の上海租界は共同租界、フランス租界、華界(上海人)を
あわせて「三界四方」と呼ばれ体増しました。
現在のメインストリート南京路は共同租界、
准海路はフランス租界の中心街で三界は各エリアごとに
それぞれ異なる行政警察機構を持っていました。
端境は取り締まりが及びにくく流氓たちの格好の活動場所となっていた。
中でも三界の接する延安東路付近は無政府状態に陥っていたという。
今回取上げた青幇大物は「黄金榮」をおいてほかにはいません。
ただし次回取上げる「杜月笙」は黄金榮に認められた別格です。
黄金榮はフランス租界の警察署長までのぼりつめた青幇でした。
本来「幇」とは日本でいう組で一般市民が省庁役所の認可、許可
警察など嘆願してもはねつけられ相手にされない屈辱から
幇を中心に警察、役所の替わりに市民が利用したのが始まりと
いっても良いでしょう。
ひらたく言えば児玉誉士夫を100倍のスケールにした感じでしょう。
上海租界には植民地と違って強力な政治、行政指導者はいません。
頼み事は秘密結社(紅幇、青幇)などに相談して解決したりものです。
善良な上海市民でも必要悪としてなくてはならない存在でした。
当時、阿片はタバコ、酒と同じ扱いで麻薬に指定されていませんでした。
その後アヘンが麻薬に指定され青幇を通じて闇取引で拡大されました。
黄金榮の話題で娯楽施設「大世界」は現在も建物は残っています。
1917年開業の「大世界娯楽中心」は東洋一の総合娯楽施設でした。

現在の「大世界・ダスカ」テナントビル、事務所になっていました
フランス租界時代には周囲に売春宿やアヘン吸引館、カジノなど
が出現し「悪の巣窟」で映画、小説などに出てくるところでした。
↑(上海一の元ヤクザの自宅を動画で)
青幇の大物、黄金榮の自宅はゴルフ場でいえばロングホール、
ミドルホール合わせたとてつもない広さです。
現在は桂林公園として上海市民の憩いの場所になっていました。

中国人でなくても漢字が読めればだいたいの事が分かりました。

文化大革命時代に紅衛兵が破壊の対象にしましたが
周恩来首相が文化大革命にはなんにも関係もない所だからと言って
一切の進入、破壊させなかったとガイドさんから聞きました。
全て後世に残されためずらしい建物、構築物です。
もしその時、上海に周恩来が居なかったら跡形もなくなって
取り壊されていたでしょう。
毛沢東は側近の周恩来が大嫌いでしたが一般民衆に信頼されている為に
我慢、我慢の連続で困っていたとガイドさんの話でした。

正門に向かって右手にある建物は当時は青幇の子分のたまり場で
警備を兼ねていた場所です。現在はレストランとして営業。

「桂林公園」は当時の正門で屋敷にたどり着くまで10分ちかく
歩かなければなりません。現在は入場料2元(32円)で
多くの上海人の憩いの場として利用されています。

両側の白壁は正門を入って長い、長い通りを歩き続けます。
白壁の曲線に瓦がひかれていますが龍の長い胴体を形どったものです。

33500平米以上の敷地には色々な建物がありましたが
数が多すぎて名称は忘れてしまいました。

第一婦人の真むかえに寵愛した一番若い愛人の住まいを立てました。
周りは池にしてノゾキ、デバカメの出来ない方法で二人だけの愛の世界、
なまなましい愛情表現や愛撫の仕方など覗かれない様にしました。
ただし私の想像で思っている事でもし私が最高権力者になった場合
第一婦人、第二、第三夫人、そでにした愛人達に見られるのは困ります。

敷地内に親しい友人などが泊まれる迎賓館もありました。
現在はホテルとして営業されています。

広大な敷地にはたくさんの建物がありますが全て無傷で保存されています。
上海には数十回訪問していますが今回初めて見学しました。
今回の「上海探訪シリーズ」終わりに近づきましたが
今日のブログと次回のブログ(杜月笙について)は
わざわざ上海まで人民元と時間を使い新幹線で来た理由です。
歴史的にも文化的にも上海観光には外せない場所ですが
考察団、視察団はなぜか一度も行っていません。
不動産、株で儲けるのも大事ですがここは外せない場所です。
桂林公園はHIS、阪急、日本、メガ、近畿ツーリストなどの
団体客、個人をはじめ日本人客は一人も見かけません。
豫園に行くならば桂林公園を見ながら上海租界時代の
秘密結社(紅幇、青幇)などの説明を聞きながら人間臭い本能など
参考に政治、経済、金融、社会に影響を与えたことなどを考えたり、
表裏、闇社会の出来事は現代に通じる大事な歴史の勉強になります。
ぜひ上記のYou Tubeで自作自演の動画を見てください。
今回の上海旅行は一生忘れない記憶として思い出になりました。

桂林公園ないは至る所上海人の憩いの場所で中国楽器の
コンサート練習、小鳥の鳴き声自慢大会、詩の朗読会
などなど至る所で色々な催しがされていました。
上海探訪シリーズー8 陸軍総司令部とその付近
記事を産経新聞に話題として取り上げられていました。
しかし現場まで行きましたがそれらしき記念プレート銅像も
発見できることが出来ませんでした。
しかし街中をタクシー、徒歩で散策したことで初めて知った
たくさんの話題があります。
↑(動画)
虹口区に現在も旧日本陸軍総司令部のビルが使用されていました。
ホンキュー街中の異国情緒ある雰囲気が味わえます。

本願寺近くにある慰安所の建物は商業ビルとして使われていました。
ガイドさんの説明では多くの朝鮮人慰安婦がつとめていたそうです。

虹口区にある旧日本警察署でしたが現在は小中学校になっていました。

今回の目的のジェスフィールド76号跡を探索することでした。
人によっては跡地は中学校に建替えられたと言われていますが
ガイドさんの説明ではビルの屋上に取り付けられた監視等が
示す様に旧「ジェスフィールド76号」と言い切りました。
現在は武装警察が管理していて中に入る事が出来ません。
人けがあるので独身者寮にでもなっているのでしょう。
ジェスフィールド76号とは蒋介石政権に対抗して日本軍が
傀儡政権 汪兆銘を担ぎ上げて中国人スパイ丁黙存を利用して
藍衣社つぶすために設けた最強の暗殺集団

中国人名女優の李香蘭と言われた山口淑子が敗戦後、太陽丸で
内地に引揚げるときに中国入国管理の女管理官に漢奸と疑われ
乗船できず引き返した埠頭入口です。桟橋まで見る予定でしたが
現在は中国海軍が管理していて桟橋の写真も写せませんでした。
もしかしたらこの埠頭から尖閣諸島に監視船を出している
可能性もあるでしょう。

数年前まで日本に身寄りのない日本人が暮らしていた虹口の
住宅です。子供のころの終戦なので内地帰国をあきらめ
中国人社会で人生を過ごした人達も多くいたのでしょう。

上海市淮海路付近にある通りに天平路=テンピンルー?
この付近も探索しましたがあきらめました。

昼食は考察団、視察団の皿数の多いレストランと違って一膳飯屋で
近くのコンビニで買った缶ビール3本持ち込みワンタンスープで済ませました。
昼食は現地の一品料理、夕食は屋台街の地元料理で十分です。
それも日本では食べられない珍品に出会う楽しみもあります。

中国、香港、台湾ではレストラン、食堂に無い酒は持込しても
嫌な顔をされないでコップと氷まで提供してくれます。

夕食は豫園の裏街道の屋台料理を堪能して外灘(バンド)の
ウオルドルフ・アストリア・ホテルまでいい気持ちで帰り
ホテルのロングバーでカクテル数杯飲みもう一軒は
近くのジャズバーでウイスキーをロックで数杯飲み
午前零時前に部屋にたどり着けました。
上海探訪シリーズー7 虹口の日本人が生活していた一角
日本から上海をめがけて一旗揚げたい人達、生活苦から上海に
来た人達、戦時色から英語が禁止になり魔都上海に流れ着いた
上海バンスキンズで観たジャズ、バンドマンなど様々な職業人達。
今回の動画、写真は昨日の魯迅特集と違って一般市民の地区です。
それらの地区は文化的遺跡としては見る物がないので取壊しが
多くなっていて次回上海訪問では様変わりしていることでしょう。
私も満州ハルビンから終戦後連合軍輸送船に乗って長崎県大村に
たどり着いた事と重なる思い出があります。
↑(動画)一般上海人の様子を動画にしました。
上海虹口区でも動画、写真に載せたところは経済発展に少し
乗り遅れた感じもありますがだんだんと解体工事も始まり
昔の面影も少なくなると思います。

泊まったホテル外灘を歩きガーデンブリッチを渡り左手に
ブロードウエーマンションを見ながら通り過ぎた交差点。

左手の角の食堂は25年前に何回か食べた場所です。
当時、排骨汁麺一杯2~3元は36~50円の時代でした。
ソバが見えないほど豚肉の厚さ大きさに驚いたものです。

この建物は次回訪問した時には取壊されて新しいビルになるでしょう。

現在も住まれているビルです。一階にはマッサージ屋など
個人商店が営業していました。いずれ立ち退きがあれば
再構築して保存してもらいたいビルです。

当日は端午の節句で祭日に当たりましたのでトランプ博打に
興じている上海市民。

手前の赤レンガ建物は取壊しになる物件

取り壊し予定の赤レンガ建物にはごらんの張り紙がありました。
住んでいた上海人も所得に高い方の階層でないことがわかります。

上下の写真は取り壊し前の状態で人けはありません。



無人の建物内を探索しましたら当時の生活様子が解りました。

子供のころには家の前の通りに水瓶が置かれていたことを思い出しました。
飲料水、防火などの緊急時にあったのでしょう。
上海探訪シリーズー6 魯迅と内山完造、内山書店跡
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」は上海租界で児玉特務機関、
山千海千したたかな活躍が書かれていますが敗戦後、
大物右翼のとして活躍したくだりが事細かく書かれています。
終戦後Å級戦犯として3年間留置されましたが出所後の
右翼の超大物としての影の行動は見事なものです。
もちろんGHQその後CIAから多額の資金援助を得ていました。
自由党、当時の民主党を影で動かした実績が事細かく書かれています。
資金援助については当時の旧社会党左派、右派をはじめ
左翼政治家にもそれなりに資金援助していました。
児玉誉士夫の思想を思い起こしながら魯迅について見学していました。
魯迅については下調べでウィキペディアを読んでから知ったこともあります。
今回訪問した魯迅と内山完造との関係について現場を見た感想です。
資金援助、逃亡資金を影で支えた内山書店のオナー思想です。
↑(動画)動画の見ている回数が少ないのであえて書く
魯迅は明治35年、官費留学生として日本に派遣され
現在の東北大学医学部に入学。強烈な個性と反逆精神をもつ
作家,反体制思想家でした。
反逆精神の戦士を顕彰して中国にもその誕生を促し、
その叫びによって民衆の心を燃えたたせる、
というのが当時の彼の描いた中国変革、いわゆる左翼革命を
理想としていた。清国その後の国民党に反逆していました。

上海虹口の文化遺産として保存されている一角に
魯迅が通った喫茶店があり雰囲気は欧州にちかい地区でした。

内山完造氏の自宅前には銅像がありました。

内山完造氏は清国その後の国民党政権を強烈に批判した
魯迅をかくまって援助したいきさつと魯迅じたいも
晩年疲れてから問題の多い中国共産党に仕方なしに傾斜したことで
記念碑が祭られたと勝手に思っています。

内山完造自宅前に置かれているプレート

上海市虹口のこの一体は魯迅のモチーフが至る所にありました。

内山書店跡は現在は中国工商銀行になっていました。
白壁に小さな黒色の二つの額は下記の魯迅、内山完造を
拡大したものです。

中国工商銀行白壁に刻まれた拡大写真
上下とも拡大した写真です。

私見ですが魯迅の強烈な体制批判をし続けた思想家でしたが
時の権力者も次々変り晩年最後はくたびれて中国共産党に
飼いならされて利用された節を感じます。資金援助をし続けた
内山書店も終戦を機会に内地に引揚げてしまいました。

(一部貼り付け)
1930年左翼作家連盟の結成に至り彼はその中心的人物となり、
国民党政府の弾圧やその御用文人と非妥協的に論争した。
一方、左翼内部の弱点も見逃さない彼の眼(め)とその発言は、
若い党員文学者の一部には理解しがたいものもあったらしく
彼らとの間にはある種の摩擦もあった。
1936年抗日統一戦線をめぐって周揚(しゅうよう)らとの間で
展開した「国防文学論戦」などもその表れであった。
(貼り付け終)

内山完造自宅近くにあった虹口の日本人学校は立派な建物でした。
現在は上海の???大学分校になっています。

上記の写真の校門を拡大した現場です。
???大学分校です。

虹口区日本人学校前の通りは同じく日本人商店です。
石畳は馬車の車輪がスリップしない方法でひかれたのもです。
車輪の音で誰が通ったか解る音がしたそうです。
保存された虹口区文化人地区は中国とは思えない異国を感じます。

同じく虹口の日本人学校付近の横道に入ると昔ながらの
日本瓦の古い建物が残っていました。
border="0" />魯迅が通っていた喫茶店前のキリスト教会は
中国式建物で出来た中国には一つしかない教会です。
キリスト教、建物に興味がないので見学はカット。
欧州、中東、東南アジア観光は教会、モスク、仏像めぐりが多く
一回見ればあとはどうでも良いのですが・・・・
興味がないので時間がモッタイナイ・もったいないです。



