四川省成都より来日した取引先のオーナー
東京パン連盟協同組合はパン業界で立ち上げた
外国人研修制度、今は外国人技能実修制度を
日本で最初に実行した受入れ組合です。
現在は四川省成都市にある送り出し機関にお願いして
百数十人来日しています。
成都送り出し機関の役員は真面目で毎年訪日して
実修生の勤務状況視察に来ています。
東京、千葉、埼玉、神奈川、関西地区の各企業訪問をしています。
私も最高責任者として来日中の会食は同席しています。
今回で連日4日目の食事会になりました。
日本の四川料理と成都の四川料理の違いを自分達の
舌で味わってみたいと言うので横浜中華街にある
「重慶本館」に案内しました。
料理に満足して「日本の四川料理は美味しい」と
ほめてもらいました。
私は「東京、横浜にある四川料理の一番美味しい店は
重慶本館だけです」テレビ、グルメ雑誌に出てくる
店で満足したためしがありません。東京の有名店の
タレント料理人の四川料理でも満足できません。
古くからの横浜市民は中華街での重慶本館だけは別格
と思っています。食後は港町でしか味わえない
バー「スリー・マティニー」に連れて行き
各種のカクテルを飲んで満足していました。
BAR「スリー・マティニー」のお店の動画です。
2008年9月13日の2年前に載せた動画です。
店内の雰囲気は港町ヨコハマを代表したバーです。
私は勿論 「白州12年」と横浜開港150年記念だけに
限定発売され現在はビンテージものになった
「横浜開港150周年記念白州15年」を堪能してきました。
台風の余波で人数は少ない日でしたが地元の酒好きは
行きつけの店には自然と行ってしまうでしょう。
蒲田、下丸子の酒好きの客種とは違った人達でした。
大手金融機関と腕力で勝負しました。
民主党政権になって一年近く経ちましたが景気回復は
二の次で権力争いで毎日マスコミが騒いでいます。
円高もとうとう83円台になってきました。この分では
79円台もあり得ることに成りかねないですね。
民主党の代表選挙権もないので他人事のつもりで見ているだけです。
下丸子地区は半導体関係を使用、加工、組み立てする
企業は景気回復をしてリーマンショック以前の売上が
戻ったそうですが政治(民主党)の力で回復したのではありません。
海外取引を含め企業努力をした結果でしょう。
しかし多くの中小企業は親会社、協力会社、取引先が
海外移転をして雇用を含め景気回復は見込めません。
残っている中堅企業も海外移転計画が水面下で計画されています。
最近都市銀行も貸付先が少なくなって日本国債を買い増しして
いますが将来の日本国債もリスクがあると感じだしているのでしょう。
(必ずハイリスクになると思っています。一般国民の預金は紙くず同然の値打になるでしょう)
先週 取引銀行の当社担当貸付係りが重要案件を持ってきました。
6年間一度も利用した事の無い保証協会経由の借入金の話でした。
保証料は何時でも借入の出来る保険のつもりで
無駄金を支払っていました。
国内での機械設備、工場増設、隣接地買収、運転資金は
後ろ向きな考えで出来るだけ借金をしない様にしています。
ところが都市銀行の営業係は上司に言われたのでしょう・・・
保証協会借入枠内の貸付を命ぜられて当社にきました。
25歳の貸付係りは大学体育会ラクビー部出身でした。
彼と借りる、借りない、貸さない、の話し合いになりましたが
営業力はかなりあり熱心で好青年です。
熱心で何時まで経っても帰らないので私も勝負に出ました。
「腕相撲に勝ったら契約しよう!」彼は「勝負しましょう!」
うちの社員立ち会いで今年70歳になる下丸子社長と
25歳体育会系銀行マンの一騎討ちになりました。
右腕は一秒で勝ち、くやしかったのでしょう左腕も勝負
左腕も一秒掛らずに勝ってしまいました。
彼は尻尾を巻いて帰る事になりましたが中小企業の社長は
交渉途中何を言い出すかビックリしたと思います。
こういった事がサラリーマン社長とオナー社長の違いでしょう。
彼は一生忘れない出来事として記憶に残るでしよう。
将来は支店長、支社長、役員まで登りつめてもらいたいです。
余談ですが銀行の下働きをいつまでもしないで独立出来る仕事に
転職しなさいとアドバイスしましたが無理でしょう。
40歳代の後半にはクビ同然の扱いで出向、転職をさせられます。
20年近く勤めた銀行員はツブシが聞かないので使い物にはなりません。
しかし彼は勝負にも挑戦するだけの勇気がありますので
他のひ弱な行員と違って見込みがある好青年でした。
ファイテング・スピリットは事業、スポーツ、仕事には
絶対に欠かせない大事な心の持ち方です。
今年の夏は異常気象でしたがクーラーは一度も使用していません。
今年の夏は異常気象でしたが睡眠時のクーラーは
一度も使用していません。
自宅での朝食事からクーラー使用は当たり前になってしまいました。
7月に入ってから50日間毎日熱帯夜が続き
日中36度ぐらいでは驚かなくなりました。勤務中の社内、
車中、電車、ビル中、昼食時はどこでもクーラーが使用されています。
しかし睡眠時にはクーラー使用はした事がありません。
私の寝室は二階の八畳洋室 四畳半の和室がつながってあります。
旅館でいえば四畳半の女中部屋を想像すればよろしい。
和室の回りは家内が嫁に来た時持参した和服専用の
高級家具がありますが今は滅多に出し入れした事がありません。
理由はパン屋のかみさんが和服を着て出かける事が滅多にないからです。
その部屋で一人で寝ています。寝る前に扇風機を30分間
自動設定しておきますが今年は四回ほど真夜中に目が覚め
又30分間自動設定になおしていました。
回りにタンス、今は使用していない化粧机、和ダンスなどに
囲まれていますので撮影禁止で公開は出来ませんでした。
枕は寝返りしても外れない様に家内に作らせた特注品です。
もみ殻も多く入れさせ「枕を高くして寝ています。」が、それでも
時々ずれて落ちるのは景気の悪い夢でも見ているからでしょう。
子供のころから夏は敷布団には寝ゴザを引いてクールビズに
していました。外地から引揚げて一時疎開していた
岡山県金光町での生活習慣が身についてしまいました。
布団に寝汗が染み込まずサラサラして快適です。
海外旅行でホテル滞在中の睡眠時にもクーラーは
つけたことがありません。旅行中の洋式ベットについては
どうする事も出来ませんが自宅では使用していません。
家内が勝手にベットを買ってきて使用したことがありますが
どうしても熟睡できません。これは製品の善し悪しではありません。
明日からは少し湿度も下がり朝晩はしのぎやすくなるでしょう。
第23回下丸子子地区工和会協同組合ビアパーティー風景
2010年9月3日下丸子駅前の区民プラザで
工和会協同組合ビアパーティー開催されました。
今年で23回目 23年間おこなわれた事になります。
昨年までは下丸子の小沢一郎並みの剛腕 菊池理事長でしたが
総会後 業界では有名な北島絞り製作所が引き継ぎました。
金属絞りに関してはアメリカの宇宙局ナサのロケット部分の
注文の受けている技術の高い会社です。
元菊池理事長は組合事業に対しては質素倹約が
常で18:30からの役員会でもオリジン弁当のおにぎり280円と
150円の自動販売機のお茶だけでした。私利私欲はない人ですが
夕食におにぎり2個だけでは組合活動はやっていけません。
しかし個人で飲む、打つ、買うは気風が良く御馳走になる
事もしばしばありました。外国人研修制度導入にもパン連盟と
同じ送り出し機関を使用しています。
彼の夢は工和会館(協同組合事務所)を5階建てのビルにすることです。
したがってこれから院政を引いて資金作り計画を立てることでしょう。
内幕はそれとしてビアーパティーには一枚4000円の券で
600人以上集まりましたがリーマンショック前までは
1000人ちかくの来場者があったそうです。
今回の動画は中小企業の社長さん達がしゃべっている会話に
ヒワイな言葉使いが入っていますがお酒が入っているので
大目に見ましょう。
工和会ビアーパティー風景の動画です。中小企業の
社長達は宴席を見る限り不景気は感じさせない明るい
顔ですが皆さん地域に奉仕している姿勢は敬服します。
抽選風景 飛び入りで参加した家内に電化製品が当たり喜んでいました。
大学生アルバイト嬢 でっちり、はと胸、小股の切れあがった
前理事長の挨拶は迫力があり小沢一郎並みでした。
しかし身辺は潔白で余分な不動産購入はしていません。
RINGリング 百田尚樹著者を読んでパート3
RINGリング 百田尚樹著者を読んだ続き
ロンドンオリンピック金メタルチャンピオンのアルゼンチンの
英雄「小さな巨人」パスカル・ペレスに敗れた白井義男の
引退8年過ぎ矢尾板貞夫が活躍した後
ファイテング原田、青木勝利、海老原博幸が活躍してきました。
ファイテング原田と対戦したタイのポーン・キングピッチ
メキシコの「ロープ際の魔術師」ジョー・メデル、
「黄金のバンタム」エデル・ジョフレなどがいます。
「黄金のバンタム」の名称はエデル・ジョフレだけに付けられた
名称で今でも歴代バンタム級史上最強のチャンピオンです。
ジョフレが初めて一敗した相手の原田をリング場で抱かかえ
祝杯しました。その感動的なシーンを朝日新聞の天声人語は
スポーツマンシップを称えました。
そのジョフレに2度勝ったのがファイテング・原田です。
その後ジョフレは1階級上げてWBC世界フェザー級チャンピオンになり
3回防衛して無敗のまま引退しました。
エデル・ジョフレがプロ転向最終成績は78勝4引分け2敗。
2敗はファイテング原田との試合だけです。
テレビ視聴率63.7%は単純計算では3人に2人は
見ている計算になります。この年 ザ・ビートルズ来日公演
56.5%東京オリンピック女子バレー決勝戦が66.8%
原田の試合は東京オリンピック並みの関心ごとでした。
原田も白井義男と同じく目標とするものに向かうひたむきさ、
努力するまじめさ、礼儀正しさ、謙虚さはまさに戦後日本人が
忘れかけた古き良き日本人の美質を持った若者でした。
その後エデル・ジョフレ(53歳)の招きにブラジルの
サンパウロを訪ね彼の経営しているジムで
旧友に再会してエキシビションをしたそうです。
グローブを付けてリング上での写真が飾られているそうです。
今年2月ブラジル考察団に参加したおりサンパウロで
74歳になったジョフレの消息を知りたくて添乗員に質問しましたら
今は実業家になりサンパウロ市会議員を三期続けているそうです。
前日彼の話題が新聞に掲載されたと聞きました。
添乗員に40年前のボクサーの話を聞く旅行者はいないでしょう。
RINGリング 百田尚樹著者を読んでパート2
「RING」リング PHP研究所発売 百田尚樹著者も
書かれていますが昭和30年代まではWBA機構のみで
世界チャンピオンはフライ、バンタム、フェザー、
ライト、ウェルター、ミドル、ライトヘビー、ヘビー
8階級8人のチャンピオンしかいませんでした。
各クラスの前後にミニマム、スパー、ライトを新設
今は世界チャンピオンといわれる人が60人を超える。
理由はプロレス並みにWBA,WBC,IBF,WBO認定団体が
乱立しているからです。日本はWBA,WBCの2認定団体
しか認めていません。
当時の白井義男、ファイテング原田の世界チャンピオンの
重さは今と違って格段の差がありました。
昭和29年後楽園スタジアムで対戦した世界タイトルマッチ
白井義男対ダド・マリノ戦に4万5000人の超満員でした。
15ラウンド激戦の戦いでしたが白井義男の勝利が
決定しました瞬間は第二次大戦 敗戦後の自信を無くした
日本人には天にでも舞い上がる明るい出来ごとでした。
百田尚樹著者も書かれていますが白井義男のトレーナー
カーン博士の言葉
「ヨシオ、君はこの試合に勝利することで、敗戦で
失われた日本人の自信と気力を呼び戻すのだ」
当時、中学生だった私も親父と一緒にラジオに釘ずけに
なって聴いた思い出があります。
当時の日本人の平均身長167㎝体重はフライ、バンタム級が
当たり前の目方でしたからその後ボクシングブームには
沢山のスターが出てきました。
昭和20年代から40年代のボクシングに興味のある方には
青春時代の思い出になる一冊です。
百田尚樹著者には4万5000人と書かれています。
NHKラジオボクシング中継は日本中興奮していました。
貼り付けはじめ
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悼む
スポーツマンのお手本のような人だった。国民的英雄だが、偉ぶったところがまるでなかった。孫ほども年の離れた記者に敬語で話し、酒席に着けば初対面にも率先してビールを注ぐ。同席者が恐縮する姿を何度も目にした。栄光の時代を知らない世代に、なお尊敬され続けた英雄だった。
15年前、ある選手の公開練習が前日に急きょ延期になった。翌日、私は評論をお願いしていた白井さんへの連絡を忘れていたことを急に思い出した。当初予定された時間にジムに恐る恐る顔を出すと、白井さんは笑顔を返した。「ちょうどいい散歩になりましたよ」。怒るどころか、逆に私の心情を気遣ってくれた。涙が出そうになった。
直接聞いたことがある。「なぜそんなに謙虚なのか」。白井さんは即答した。「世界王座を奪取して花道を帰るときです。著名人や関係者にあいさつを終えた僕に、コーチのカーン博士が球場の最上段を指さしてこう言ったんです。ヨシオ、わずかな生活費を握り締めて応援に来たあの人たちの気持ちを忘れてはいけない、王者になっても謙虚な心を忘れるな、と」。
半世紀を経ても、なお師の教えを貫くいちずな心。だからこそ苦難の時代に白井さんは世界王者になれた。快挙はカーン博士の存在抜きには語れまい。しかし、一方で白井さんだからこそカーン博士の厳しい指導を成就できたともいえる。「徹底した反復練習。左ジャブだけを2時間打つこともあった」と本人から聞いた。
引退後は事業に手を出すこともなかった。白井・具志堅ジムの名誉会長に就任したのも70歳を過ぎてからだった。「事業やジム経営は失敗もつきまとう。おまえは日本人初の世界王者だ。後々まで日本の若者のお手本でいなければならない」というカーン博士の忠告を守り抜いた。80年間の生涯を白井義男さんは「世界王者」としてまっとうした。
日刊スポーツ記者 【スポーツ部 首藤正徳】
RINGリング 百田尚樹著者を読んで
「RING」リング PHP研究所発売 百田尚樹著者を
読んで思い出したことです。昨日読み出したらブログを
書く時間よりも面白く一気に読み終わりました。
本の帯に書かれている文章に感極まる言葉が書かれていました。
1960年時代(昭和35年)リングという四角い小さな戦場で
2つの拳だけで世界をつかもうとした若者たちに多くの
日本人が熱狂した。
その中心にいた一人のボクサー。19歳でフライ級王座となり、
22歳で「黄金のバンタム」エデル・ジョフレを破って二階制覇
26歳でフェザー級王座に挑戦し「幻の三階級制覇」で生ける
伝説となったファイテング原田とライバルたちの激闘を、
スペード感と臨場感あふれる筆致で描いた傑作ノンフェクション。
話の筋書きは第二次大戦終戦後の白井義男が世界フライ級
チャンピオンになるまでの筋書きです。
1948年GHQ(進駐軍) カーン博士との出会い
ハワイ出身のプロモーター サム・一ノ瀬氏
世界フライ級チャンピオンのダド・マリノの対戦相手を
あえて無名にちかい日本人(白井義男)を選んだ
日系ハワイ人一ノ瀬氏の義侠心。
(ノンタイトル戦で勝利して世界ランカー入り)
当時のボクシング界の興業はヨーロッパ、アメリカが中心で
東南アジアはローカルな市場でした。
当時のフライ級の重量は日本人の平均体重にちかく
中南米、メキシコ、イギリスには強豪が多く輩出時代です。
今はテレビ局(TBS)が作ったクダラナイ半端なボクサーを
抱えて視聴率稼ぎにしていますが、やり方は評価できません。
日本人以外の実績の無い外国人三流ボクサー「噛ませ犬」とだけ
対戦させスターにしても世界では評価されません。
亀田三兄弟の下品で汚い試合は見る気にもなりません。
J.C.オカザワ氏 下丸子地区「武蔵新田」に現れる。
「ころも」で一杯飲んでいる時の動画です。
決して敷居が高いのではなく客席が少なく地元の
下記のアドレスは武蔵新田駅前の風景ですが
墨田区立川三丁目三つ目通りのうなぎ「川たけ」
先週の木曜日久しぶりに東京パン連盟組合の事務所に
立ち寄りました。日中は36度以上の蒸暑い日で
日陰を探しながら歩いていても体力消耗でクタクタでした。
話の内容は老舗パン店二代目の経営相談です。
これから中国進出についての相談でしたが
あまりにも無計画な話なのでお断りしましたが
相手は中々帰る気持ちになれず困ってしまいました。
時間も大分経ちました。本来ならば船橋の居酒屋に
立ち寄るつもりでしたが疲れてしまいました。
一人で帰る機会が少ないので何時も気にしていた
店に立ち寄ることにしました。場所は事務所のある
墨田区立川町 三つ目通りの斜前にある
うなぎの「川たけ」です。
うなぎ「川たけ」のお店の動画です。
小さな店ですが美味しさが伝わる感じです。
間口一間半の小さな店です。蒲焼850円、肝焼150円
昼間はシャッターが下りていて16:00より開店売り切れしだい
閉店いたします。
私が経営者なら広い歩道にテーブル、椅子を持ち出し
屋台にして客呼びをします。美味しいだけに持ち帰りだけ
ではモッタイナイです。軒先にガラス冷蔵庫を設置して
ビール、冷酒のセルフで営業をします。
古くからの地元の方でしたら警察官は営業中は店前は
避けて見ないふりしてくれるはずです。
備長炭を使用していて焼いている親父さんは熱くて汗ビッショリ
かきながら仕事をしています。
毎日暑さの続きスタミナ切れには蒲焼が一番です。
二人前を自宅まで持ち帰り家内と別々の時間帯に食べました。
とても美味しく事務所に寄る機会には時々持ち帰ることにします。
久し振りのゴルフですが満足できました。
府中カントリークラブには今年5/30以来プレーをしていません。
昨日の府中CCは二か月ぶりのゴルフプレーです。
今年の夏は異常気象36度以上で蒸暑くよほどの事で
ない限りう行く気ににはなりません。
セガレ達は最近親父と一緒にプレーするのが
嫌になり同行しません。このクソ暑い日に
小田急バス、小田急電鉄、クラブバスと3回乗り換え
わざわざコンペに参加しました。
球友会は一年に10回行われている会員だけのプライベートコンペです。
492回と言うことは49年間以上開催された事になります。
私は昭和55年から参加しています。
今年は右膝痛と夏の暑さで体調不良が続き2か月間
ゴルフクラブを一回も触っていませんが終わってみれば
45、45=90で準優勝をしていました。
ゴルフは練習量、行った回数が多いだけでは上手くならないと
再認識しました。好スコアーが出た一つは4人乗りカートを
利用したことがあげられます。
暑さをを防げて体力消耗が少なく出来るからです。
5年前にカート導入反対運動側にたって頑張っていました。
当然セガレ二人にも反対署名をさせました。
「カートに乗りたかったらリゾートコースかパブリックに行け」
と持論を持っていましたが今はその持論も忘れ
すっかり右膝痛で足腰が弱り初めて弱者の
気持ちがわかるようになりました。齢70を迎えると仕方ないと
思うようになりました。











