<先週の講壇より>


聖書箇所: ローマ10:8~10
説 教 題: 『私の告白』

 私たちが心の中で思っているだけであれば、それはどこまでいっても自分がそう思っているという、主観的なものです。けれどもそれを、人の前で告白する。特に教会において告白するという時に、それは、神さまの前に、そして教会の前に告白したということであり、それはこの私の信仰が、客観的なものとしても認められたということになるんです。
 もうちょっといいますと、もし「心に信じて義とされ」て救われただけだったならば、自分自身の心が救いの根拠になるわけです。私には今信じる気持ちがある。熱い思いがある。だから私は救われている。けれども、残念ながら私たちの心は非常に移ろいやすいんですよね。コロコロ変わるから心だ、何て言われますけれども、私たちはいつ心変わりするかわからないものです。機嫌のいい時は「神さま~♪」と神さまを仰ぐけれども、ちょっと機嫌が悪くなると、「はぁ?神さまぁ?」と思ってしまう。そんなコロコロ変わる心だけが根拠だったら、私たちはいつでもすぐに信仰がなくなってしまいます。
 けれどもそうではない。口で告白した時には、それは、ある先生の表現をお借りすると、「信仰の事柄が、一個の人間の側から、神の側に移された」ということなんですね。つまり、自分の救いの根拠が、自分の心ではなくて、神さまの側にある。私の告白として言葉にしたことによって、あなたは救われていると、神さまが、教会が根拠になってくれるのです。これって、実にありがたいことだと思うんですよね。私たちは、自分が落ち込んでいる時、怒ったりむしゃくしゃしたりしている時。いろんな心のあり様になります。そして時には、自分の今の状態では、自分が信仰者だなんてよう言わん…と思わされるような所も通されるわけですよ。
 確かに、自分の心だけを土台にしていたら、その心のあり様で信仰の有る無し、浮き沈みが激しくあるように思います。けれども私たちに「口で告白」して救われたということがあるならば、それは客観的な神さまの事実なんだ。確かに自分の今の心の状態では、自分がクリスチャンだなんて、自分が救われて罪赦されて天国に行ける者にされているなんて、口が裂けても言えないと思ってしまう。けれども、神さまはそうは思っておられない。あなたは救われている。あの時私の告白として告白したではないか。そのことは、私が保障するよと、救いの太鼓判を押してくださるのです。
 そういう意味で、私たちは心に信じて義とされただけではなくて、口で告白して救われたことを、神さまから与えていただいている大きな恵みとして受け止めさせていただきたいと思わされるんですね。


「実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)

 


<次週の礼拝のご案内>


聖書箇所: 創世記1:1~5、詩編121:1~2
説 教 題: 『天地の造り主を信じる』

 さて、次週の礼拝は上記の個所から学びます。私たちの信仰をまとめた告白文、「使徒信条」から学ぶシリーズの3回目になりますが、使徒信条ではまず最初に、私たちは神さまが「天地の造り主」であるという告白から始まっています。神さまはこの世界を造られたんだということですけれども、聖書の最初の書簡である創世記は、神さまがこの世界を創造された出来事が神話のような語り方で記されています。ここからよく、進化論か?創造論か?ということが言われたりしますけれども、今回は、神さまが天地の造り主であることが、私たちの実際の生き方にどう関わってくるのかという視点で考えたいと思っています。

 教会の礼拝は、どなたでも参加することができます。どうぞ気兼ねなくお出かけ下さい。あなたのお越しを心よりお待ちしています!その際には、マスク着用、手指のアルコール消毒、三密を避けるなどのご協力をお願いしています。なお、ライブ配信も継続して行いますので、続けてそちらもご利用ください。


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