おはようございます。
タイトル通り息抜き回です。。。
今日は数名の塾講師の方にしか楽しんで頂けないのかなと・・・汗
# また明日以降よろしくお願い致します。
個人塾の作り方。
ありがたいことに同業の方もこのブログを読んで下さっている方がおられるようで、ときにメッセージを下さいます。
で、やはりと言うべきかなんと言うべきか一番多い話題が「独立」に関するプロセスの部分です。
たしかにHPには
は載せているのですが、
究永舎開校してからの話
は載せていません。
#たぶん今後もないです
そんなわけでひょっとしたらご連絡は頂いていないものの、今このブログをお読みになられながら独立をお考えの方もおられるかもしれませんので、今日は独立から軌道に乗るまでの流れをざっくりと書いてみようと思います。
# みんなで独立しましょう
①大手塾にいる間に必要な経験をできる範囲で積む。
当時高校受験専任講師だった私が重視したのは高校受験の最高峰、灘高校や当時まだ高校受験があった甲陽学院の受験水準、並びにそこを目指す受験生の生態を知ることでした。
あとはやはり保護者様から頼りにされる講師でないといけませんから、やたらめったらと教室責任者でもない私が勝手に面談用紙を配ってよく面談を行なっておりました。
当時勤務していた教室には目の前にスタバがあり、保護者様の中にはご自身と私の分のコーヒーとケーキをご持参になられ、面談机で飲食しつつ、保護者様にも寄りますが、1時間くらい話すのは当たり前で、2時間〜4時間くらい話すことも普通にありました。笑
ホントに鍛えて頂いたと思っております。
②会社を辞める。
とにかく後ろ指を指されるようなことはしたくなかったので、5月の末くらいに、シーズン終了後(翌年の3月頃)の退社意志を伝え、理由もはっきりと独立する旨をお伝えしました。
独立する理由が「自分の力を試してみたい」だった以上、商圏がかぶるどころか、開業場所としては、塾名を名乗っても看板バリューが通用しないところを選びます的なことも一緒に伝えていました。(その後に究永舎周囲に系列教室が開校されましたが)
その後、シーズン終了まで「会社からは退社が惜しまれるくらいに頑張ろう!」と思って頑張ったのですが、結論、たいして惜しまれませんでした。爆
ただその後ネット検索で発見して頂いて、当時の教え子の子たちや、保護者様が何人か神戸から豊中までお越し下さいました。
ちなみに今週その子たちと久しぶりにランチに行くのですが。笑
#今年で30歳になるらしい
③開業準備
2008年3月1日を最終出勤日とし、3月10日付けで正式に退社となりました。特にトラブルはありませんでした。たぶん。。。
で、私の場合、ここからがミスってるのですが、その段階からお金の準備に奔走しました。
#手持ち資金40万
#端的に申してただのアホ
資金準備もままならないままですが、開業場所を決めないと金融機関にも出向けず、とりあえず開校場所を探しました。
豊中、吹田、茨木辺りで物件は50〜60件は見たと思います。
そして今の場所に決定後、いよいよ資金を何とかしようとするのですが、当時目の前のビルに馬渕教室の豊中本部校があったせいなども災いし、余計に金融機関から融資など下りるはずもありません。(ある金融機関の方からは「あなた馬渕教室知らないの?素人なの?」と言われた)
結局金融機関からは借りられず(当たり前)、先輩から600万、光博くんから200万、友人から50万の計850万を集めて開業しました。爆
頭の中では常時篠原ともえがクルクルミラクルを踊っている状態でした。
④マーケティング
とりあえず生徒さんに来てもらわないことには教室は成立しません。
しかし私は大手塾では教室責任者すらやったことがないので、当然チラシ作りなどもしたことがありません。
究永舎が、豊中第3、5、13中の校区がほぼ重なっている好立地であることもチラシ配布エリアを検討する段階ではじめて知りました。
#ラッキー!
よく分からなかったので
と
そして開業後に
を読んでなんとなく自分の中では役に立てられたような気がしています。笑
#広告よりむしろ授業面で役に立った
そんな感じで有りえなくダサい
というチラシを散布させて頂いたら、これが意外にも10件ほどの反応が・・・笑
#なぜ?
今思うとホントにラッキーなことばかりで、これも私の全く知らないところで、当時、類塾の講師の方たちが馬渕教室への絶賛転職大移動時代だったみたいで、世間では多くの生徒さんが馬渕教室へ移籍したのですが、中にはその天才的な節操の無さに不信感を募らせた生徒さんや保護者様も一定数おられ、それなりの数の人たちがちょうど「類も嫌やし、かといって馬渕もな・・」的なテンションでいて下さったところに、そんなこと知る由も無く、たまたま私と光博くんが教室を開いた感じでした。
そうしたことは後に保護者様から教えて頂いてやっと知るのですが、そうした影響が多分にあったのは事実だと思います。
⑤教室運営。
結局夏休みから来て下さった生徒さんが2学期の中間で成績を伸ばして下さって、それなりに噂になった段階で、下のチラシを散布したところ
冬期講習で20人以上の生徒さんが来て下さって、それでなんとか大手時代の給料までは取れるようになった感じだったと思います。
ただこの時に成績が上がった子たちの大学受験がなかなか苦戦した結果になったことは今となってはすごく責任を感じますし、その経験が今の教室運営のベースの一部となっています。
ざっくり言うとここまでが開校1年目の、とりあえず食べられるようになるまでの流れです。
# ざっくり過ぎるけど
この後、私的には地獄が続いて、光博くんが2010年シーズンで独立し、その後ゴリさんのヘルプなどはあったものの、基本、2019年5月20日のEXIT事件に到るまでの間は「人」の問題でストレスは半端無かったのですが、それもこれも今が幸せだからもはや今となっては「良かったか悪かったか」と聞かれれば正直「良かった」と言えるのかなと。(ちなみにいまだに光博くんとは2008年〜2010年当時の生徒さんの話はします)
今更ですが、その間でも最後まで通い通して下さった生徒さんにはただただ感謝です。
どんな個人塾にも開校前後のストーリーが必ずあるはずなので、もし今独立をお考えの方であれば、自分と方向性が合いそうな教室があればそちらでお話を直接お聞きになられることをオススメ致します。
独立するのも楽しいですよ!
ではまた。
【究永舎】
2008年6月に豊中市に重本孝が開校した進学教室です。最初は高校受験の塾としてはじまり、2014年シーズンからは大学受験を対象とした高校生クラスを開講。現在は中2〜高3の講座全てを重本が担当するユル〜い個人塾なのに毎年難関校合格者が生まれる摩訶不思議アドベンチャーな教室です。
ご興味のある方はコチラ。
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