先ほどコーヒーに混ぜた牛乳が賞味期限経過後3日であることに飲んでから気づいて今後起こり得る恐怖に震えている今日この頃です。。。

 

 

 

今日の昼間のテレビにおいて学校で「あだ名禁止」みたいなネタをやっていたのですが、え?これって本気で言ってるの??って感じでした。。。

 

なんか今の学校は他のクラスに入っちゃいけないとか、ちょっと想像できない世界観があるみたいで久しぶりに“学校”っていうものを見てみたい気はします。

 

大学を別次元ということにすれば、私が一般的な“学校”なるものに足を運んだのはもう高3のときが最後ですから、かれこれ20年以上“学校”というものを見ておりません。

 

子どもの参観とかで学校に足を運ぶ人たち曰く「そんな昔と変わらんで。」というのはよく聞くのですが・・・

 

 

 

あだ名禁止に関しては直感的には反対ですが、でも、子どもの頃に変なあだ名、否、呼ばれて不快感を感じるあだ名で呼ばれた人からしたら「禁止でいいんだよ!」ってことなのかもしれません。

 

 

どうなんですか?究永舎タレント軍団のみなさん?笑

 

 

 

ここからは超個人的に考えてることです。

 

まず究永舎生はご存知のように、私はまず生徒さんを苗字で呼ぶことはありません。呼び捨てはもちろんしませんし、「君」・「さん」付けの呼び方もしません。これに関してはなんとなくそれが“しっくりくるから”であり、他の教室の先生が生徒さんをどう呼ぶかというのは全く気になりません。

 

私がこの「あだ名禁止令」で一番気になるのは、それはそもそも解決すべき問題とピントがズレていると思われるところです。

 

そもそも、あだ名=問題、ではないことを誰か真っ先に突っ込む人って学校にはいないのかな〜・・というのが一市民として気になります。

 

私は名前がイトウケンt...、じゃなかった、シゲモトタカシなので、ご想像通り子どもの頃から大人になって以降も95%親しい人からはシゲorシゲちゃんです。

 

そう言えば大学時代、どっかのゼミのパリピ軍団からは影で「スーツくん」と呼ばれていることはありました。私は大学時代から毎日この仕事があったので大学は1回のとき以外100%スーツで通ってたんです。ていうかそもそもそんな通ってないけど。。。

 

話を本題に戻すと、あだ名がダメになる理由は個人的には1つしか思い浮かばなくて、それはそこに「愛情」がないことに尽きると思います。

 

要はあだ名というのは本来、その人の存在を認めるもの、その人に居場所を作ってあげるもの、また、ときにはその人自身すら気づいていないようなアイデンティティを与えるところにその役割があると私は思っています。

 

ダメなあだ名というのはキレーーーにこの逆の場合だろうと思います。

 

つまり、その人を否定する目的で使用されるというものです。

 

 

だからどう呼ぶかというのは本質的には問題ではないと思います。私はゴリゴリの男子校出身で、他の男子校も似たようなものではないかと予想するのですが、まぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜今思うとありえないあだ名はいっぱいありました。

 

書ける範囲で言えば生徒会長の子が確か木村君だったのですがなぜかあだ名がベトナムだったり、中川君が半魚(はんぎょ)だったり、クラスで一番背が小さくて、3番目くらいに太っちょで我が校にしては珍しくすっごい上品でおとなしい子のあだ名がなぜか天皇だったり・・・

 

で、たまにみんな油断して校外学習とかで、外の世界とかに出たときにJR天王寺のホームとかで相手のあだ名を学校内の感覚で叫んでしまい他の方から冷ややかな目で見られる・・・みたいな。(あるある・・・ではない???)

 

 

塾を始めてからも名前がマナミちゃんなのに友だちからは「マナゲ」だったり、アリサちゃんなのに「タケシ」(苗字に由来する)だったりとかもありましたが、どう見ても仲良しグループそのもので問題は無かったです。

 

究永舎生はご存知のように、究永舎にもその呼び名だけ切り取ったら私が怒られそうな呼び名は数え切れないくらいありますが、そういうワケ分からん呼び名を私に命名された・・・、いや、させた人に限ってみんな高3の最後の最後まで長く通ってくれます。

 

クラス運営というのはホントにいろんな子を1つの空気感で統一する業(わざ)です。

 

で、そこで取り立ててツッコミどころも見当たらない至極真っ当な生徒さんばかりなら話は早いのですが、ど〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜う頑張っても10人前後越えてきたらクラス内であきらかな“人種の違い”っていうのが発生します。

 

超簡単な例で言えば体育会系と文化系とか、陽キャと陰キャとかがそれだったりします。

 

で、場合によってはある人種の人たちが“変わり種”の人に対して「え?」とか「ん?」とか「おや?」みたいなのに遭遇する場面っていうのがちょいちょい発生します。

 

これは明らかな迷惑行為とかそんな分かりやすい次元の話ではないです。

 

 

空気、です。

 

 

で、先生っていうのは各生徒さんやグループの視点や常識的感覚を予想し、気持ちを汲み取って、ときに一部の子がある子に対して「か・・・、か・・、変わった人やな・・・」とか「え?それ全然分からへん・・・」とか「おいおい・・」とか「君、それ、多くの人にとって変(へん)って思われる!って分かってるか?」とか「空気読め〜い!!(もっと周りに配慮せんか〜い!!)」みたいなのを代弁してツッコンだり、それを放置すると一部の人からの“嫌い”や“キモい”に逆昇華しそうなものを、先生が本人が傷つかないライン、できれば「君のそういうところを悪いとは言わないけど、場合によっちゃマイナスに受け取る人も存在して、知らぬところで自分が損する可能性があるのは知っときや。」みたいなラインと、周りの子がシンプルに笑いとして受け入れられるレベルギリギリの線を狙って笑いに昇華させ、最終的にはその子のキャラとしてみんなが認めてあげられる、いわば、クラスにいないと寂しいよね、っていうところまでしないといけないです。

 

#途中から何言ってるか分からん・・・

 

 

 

これはもうホントにその先生のセンスとしか言いようがないし、塾だったらまだ生徒さんがず〜っと通ってくれるとか、辞めちゃったとかで答えあわせがしやすいですが、学校とかだと当然それはないので、私がドヤ顔で今日ここで語ってるのの何倍も難しいとは思いますが、本質は変わらないと思っています。

 

要はクラスがその子の居場所になれるよう、先生というのはそれこそ365日24時間クラスの空気というのは気にかけないといけないということです。

 

空気の違和感に鈍感なクラス担当者(リーダー)は最悪で、それが結果として表面化した例は今日に至るまで枚挙にいとまがないです。

 

 

そしてそこで、ときにあだ名というのが、その子のアイデンティティをその子にとっても周りの子にとっても強固なものにしたり、放置すればその子が周囲からマイナス評価を下されそうなその子の特徴を、その子とは全然違う人種の子たちが受け入れ易くする緩和剤にしたりできる道具になることもあるし、また逆にそれ(あだ名)が相手の存在を否定する心持ちで利用されれば最悪な道具にもなるということです。

 

 

 

まとめると、

 

“アリ寄りのアリな”あだ名

=相手の存在を認め、人間関係の潤滑油として機能し、なんなら本人もそう呼んでくれ!くらいに思ってるもの

 

“ナシ寄りのナシな”あだ名

=相手を否定する目的で用いられ、当然本人が嫌な思いをしているもの

 

 

私的には「あだ名禁止」は、こういった微妙で簡単ではない問題を(大人にとっては)一番安易な手立てで解決するという施策で、“ナシなあだ名で友だちを呼んでしまった子”のみならず、“ナシなあだ名で呼ばれてしまった子”の両者からいろんなことを学ぶ機会を失わせる・・・、う〜ん・・、どちらかと言えばデメリットの方が多いような気がするな〜、という感じです。

 

 

ただ昨今の誹謗中傷匿名係長に成り下がった各種ネット掲示板というマンホール下の精神の排水溝で暮らす大量の大人たちの存在なんかもあるので、まぁ、先生や親の立場でもそんな人間が大量発生だから子どもたちにどうこうを求めるのは無理なこった、パンナコッタ状態だな〜・・・とも思います。

 

 

 

最後まで呆れずにこの長い文章にお付き合い下さった方。

マジで大好きです。

 

 

 

 

ではまた。

 

 

 

 

 

【究永舎】

2008年6月に豊中市に重本孝が開校した進学教室です。最初は高校受験の塾としてはじまり、2014年シーズンからは大学受験を対象とした高校生クラスを開講。現在は中2〜高3の講座全てを重本が担当するユル〜い個人塾なのに毎年難関校合格者が生まれる摩訶不思議アドベンチャーな教室です。

 

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