国語の得意な子というのは

 

基本的には普段の会話や

文章読解の段階から

 

自己フィルターを通さない

 

ということが挙げられるかと思います。

 

 

自己フィルターというのは、

私の考えでは自己の価値観など

もろもろをベースとして

相手の言葉をデフォルメしたり、

あるいは勝手に根拠のない予測を

あからじめ立ててたりなどをして

自分の中のストーリーに

相手の言葉を濾過して落とし込み、

結果的に、肝心の相手が言いたい要点は

濾過できていない状態をつくる

無意識下の濾紙です。

 

これは人間誰しもあるかと思うのですが

特にその濾過具合が顕著なのが

国語が苦手な子です。

 

自分の無意識の感覚ベースで

解釈、判断、結論に至るので、

基本文字の読み取りが粗いです。

 

反対に国語が得意な子は

割と幼い頃から大人相手に話しても

自己フィルターではなく、

他者フィルターの予測が上手く、

むしろ相手が上手く表現できていないことでも

「こういうことを言いたいんだろうな・・」とか

「こういう答えが欲しいんだろうな・・」とか

「こう書けばこういう風に伝わるだろうな」とか

などと“相手の言葉の脳内濾紙”を

相手の言葉が通過する前、

はたまた通過した後の状態の見立てが

非常に的確であり、会話していて

大人としても遠慮も確認もいりません。

(え?何言ってるか分かんない??)

 

 

ガチャガチャに例えれば、

ピカチューが出てきて欲しい!

と思ってお金を入れて

ガチャっとレバーを回したら

毎回ちゃんとピカチューを

出してくるのが国語が得意な子であり、

ピカチューを期待したら

五分刈り刑事を出してくるのが

国語が苦手な子と会話している時の感触です。

 

 

経験的に国語は中学レベルまでは

精神年齢に伴ってある程度

できるようになる科目だと思いますので

優先順位は低いです。

 

 

 

私は同じ結果を出す人同士に

共通する特徴を見出すのが好きなのですが、

これはただ好きだから

そういう観点で見るというだけでなく、

この仕事のプロとして

そういう知識を蓄えることで、

少しでも正解に近い形で

その生徒さんの現状と

延長線上にあるものを見据えることで、

その生徒さんに対して現状では

無意味なストレスや物理的負担を

与えない接し方をしたいという思いからです。

 

 

おおよそ塾の先生の

失敗というのは生徒さんに対して

“何かを見抜けていなかったから”

というのがその原因であることが

多いのではないでしょうか。

 

 

良かれと思っていても

生徒さんが大満足でなければ

全部先生の負けだと

私は思っているので、

これからも

 

【生徒さんの無意識】

 

の研究は個人的に続け、

生徒さんからすれば

 

「『塾の先生になんかしてもらったか?』

って言われたら別に何もしてもらってない。

ただ『通って良かったか?』と言われたら

それは絶対良かったと思う。」

 

というぐらい塾の存在が

エアリズム以上に

“着心地ゼロ”となり、

あくまでこっそりと

中高生ライフを軽くする

存在を目指したいと

希望しています。