陰騭録の、改過の章が終わりましたので、まとめページに改過の章の記事リンクを追加しました。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】全文現代語訳 記事まとめ一覧
タイトルが、相変わらずひどい・・・。
だが、私は謝らない!(キリッ)
暇つぶしに、お使い下さい。
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なお、コメントやメッセージやメールで、皆さんの陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、陰徳と結果の体験談を大募集中です。ご遠慮無く、書き込み下さい。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
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さて、前回は、陰陽道は所詮、陰徳道に及ばないことを学びました。
言霊の奥義を窮め、言葉を式神にしてしまいました。
今回は、反省の話です。
しかし、どんなに悪業が山積して、自分では気づかなくても、必ず、そのことを知らせる予兆が、表面に出てくるものである。
心身が鬱々と楽しまず、そのくせ物事を忘れっぽく、何も無いときでもイライラと落ち着かずにいるたり、
聖賢君子(や、その言葉)を見ても、発奮するどころか、意気消沈して後ろ向きになったり、正論を聞いても楽しめなかったり、
他人に施しをしても、恩を裏切られ、かえって恨みを買ったり、
夜には、悪夢にうなされ、果ては、日常で妄言を口走り、志を台無しにしたりする。
これらは、悪業を作っている相である。
陰徳を志すならば、これらの予兆が一つでもあれば、危険信号とみなすべきである。
ただちに、改過を発動させ、旧式の自分を捨て、新式の自分に入れ替えるべきである。
自分から、幸福の道から転げ落ちることのないようにせよ。
【反省だけなら猿でも出来るという妄言】
どうみても、本文は、単に、呪われてるだけのような気がするんですが・・・
普通に、祟りだろうと。
必要なのは、反省ではなくて、お祓いのいような気が・・・・。
いや、何でもありません。
喉元過ぎれば暑さ意識では忘れる、というのが、人間の心理です。
嫌なことを思い出したくない、心理はある意味、防衛本能です。
トラウマを穿り返す行為はしたくないのは当然です。
人間は快に近づき、苦から逃げるのが本能です。
しかし、エラーに対して、フィードバックして対処するのは、逆に、生存率を上げる行為です。
本能に逆らうのは生物としては難しいのですが、それで生存率を上げられるならば、しなくてはいけません。
また、人間や組織が、ミスを起こしたとき、それを隠蔽するのは、それはそれである意味、防衛や生存率を上げるとしては正しいのですが、少なくとも内部で失敗から学んで対処しないと、後々、大きな失敗に見舞われます。
例えば、労働災害の経験則として有名な、ハインリッヒの法則と言う物があります。
1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというものです。
これが、何を意味しているかと言うと、ミスや事故には、ただ担当者を処罰したり、その場の偶然の問題で片付ける代物では無いという事です。
逆に、ただのうっかり事故だろうと、思って放置していたら、その事故も含めて別の多くの問題が積み重なっていずれ巨大な事故が起こるということです。
これは、個人の陰徳にも同じことが言えます。
陰徳が積み重なって、大きな福徳が得られるのと同じように、過ちも多く積み重なって巨大な禍を呼ぶのです。
うっかりミスや偶然の事故というものは、ありません。
表に出たそのミスの、その背後には膨大な過失が存在しているのです。
個人だろうが、組織だろうが、実は事故というのは、ありがたいエラー発見サインなのです。
【見ろ!まるで負債が雪だるまのようだ!】
陰徳の立場でも同じです。
表に不幸が出るというのは、当然、悪業の結果です。
しかし、少なくとも、陰徳のプラスがあれば、相殺されていたはずです。
(相殺されないという説もある)
それが、禍が、表に出てしまったということは、もうプラスマイナスの総決算が、ギリギリアウトなわけです。
善と悪との一大決戦に負けているわけです。
ハルマゲドンで善玉が負けている緊急事態なわけです。
要するに、今の状況だと、期末毎の総決算で、善事よりも悪事の方が多くなっているという赤字経営なわけです。
当然、このままの状態でいると、どんどん悪因が積み重なるということです。
借金と同じで、常に赤字ならば、負債は膨らむばかりです。
借金は少ない額だと、大したことはありませんが、大きくなると、利子が利子を呼んでとりかえしのつかない結果になります。
因縁も同じです。
今は、たまたま人間界という六道の中では、比較的マシな場所にいます。
さらに、人間界の中でも、さらに恵まれた立場に、つまり、こうして、豊河のありがたいお説教(何様のつもりなのか?)を聞くと言う良縁に恵まれた立場にいて、悔い改めることが出来ます。
しかし、このまま悪因負債が、膨らめば、必ずクラッシュします。
そうすれば、回復不能なダメージを負うばかりか、改善できない場所に転生する可能性すらあります。
【じゅ、十一面観音様なら、十一回くらいまでなら大丈夫では・・・】
一般に、悪因に対する悪果(苦果)は、因果応報というほかに、神仏の愛の鞭という意味があります
のは今まで言ったとおりです。
しかし、厳密に言えば、これは、仏の顔も三度モードの話なのです。
矯正の見込みがある者に対する罰レベルは、実際、まだ矯正出来る状態の罰です。
しかし、この六道の中には、「どう見ても、反省するどころじゃないだろ」みたいな場所が普通にあります。
畜生道や餓鬼道、地獄道など、己を省みることすら出来ません。
人間界でも、場所によっては同じです。
そもそも、正法(聖法)に縁が無く、何をどうしたらいいかわからない民度の環境は、やっぱり普通にあります。
良く、「神様は対処出来るレベルの困難しか与えない」とか言う戯言を聞きますが、だったら何で、自殺したり発狂したりする人がいるのでしょうか?
赤ん坊の時に殺される状況は、本人の対応キャパを超えています。
明らかに、ただ、一心不乱に因果応報で因を消化するだけという、ろくでもない状況は存在します。
問題は、そんな状況に陥らないことです。
そのための、問題の早期発見です。
虫歯や癌と同じで、早期発見こそ、勝利への最短ルートです。
ハインリッヒの法則は、我々、陰徳の士の、値千金の天下の真理です。
ゴキブリは一匹みかけたら、百匹いるのです。
本文の君子のように、毎年しつこく反省出来る、剛の者になれなくても、せめて、エラー発生時には対処猛省出来るようにする必要があります。
組織論では、こうしたミスで該当者を処分するだけの、減点法ではなく、ミス該当者は逆に褒章するくらいでなくては行けません。
ミスが見つかったことによって、背後の膨大なエラーを把握認識出来たのです。
ちなみに、『論語』学而には、
曾子曰わく、
吾日に吾が身を三省す。
人の為に謀りて忠ならざるか。
朋友と交わりて信ならざるか。
習わざるを伝えしか。
とあります。
毎年どころか、毎日反省をしているのです。
自分と言う世界一信用ならない、不良機器に対し、絶えず、監視体制を取っているのです。
毎日の三省は、エラーの早期発見につながり、やがては、勝利者となって、万歳三唱に至るのです。
さらに言えば、出家者は、三省どころか、24時間瞑想で内省するという、徹底振りです。
ここに、在家と出家の超えられない壁が存在します。
まあ、出家者は、もはや開運とか出世とか成功とかそういう現世利益は、もうどうでもよい世界なのですが。
※いや、俺は坊主業界でも立身出世したいんだ!道鏡とか天海とかみたいに政界に参入するんだ!という青雲の志を持つ方もいらっしゃると思うので、それはそれで。
【まとめ】
・表に出た、悪行や不幸は、その背後に膨大な細かい悪業が内包している。
・虫歯や癌と同じで、早期発見とみなし、ただちに、総員チェック体制に移行。
・可能なら、エラー時だけでなく、定期的に反省したい。
・点検周期は、短いほど良い。
毎日レベル。週間レベル。一月レベル。一年レベル(毎年決まった日が望ましい。正月とか誕生日とか)など。
こんなところでしょうか。
さて、改過の章は、実は、ここで終了です。
チンタラやっているので、27回もかかりました。
次回からは、功過格表に入ります。
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前回は、成功後の守勢に関して、再度の認識を改めました。
宝くじ当選者の悲惨な末路を反面教師として、貴重な人体実験のサンプルとして、学びましょう。
私は、古人に比較して、不徳凡才であるため、常に、過ちや悪業が、我が身に密集している。
しかも、今までの過去を反省するにあたっても、過ち自体を認識することすら出来ていない。
これは、心が粗雑にして、目が節穴なためであり、まさに不徳凡才であるのだ。
【真と偽の狭間に】
前回も、何が正しいのかという情報の真偽の問題が出てきました。
当然、真偽がわからなければ、何が間違っているかという定義も出来ません。
まあ、当然のことです。
前回もゴタゴタ述べましたが、色々と分類があります。
その中でも、真偽の定義という分類だけでも、二種類あります。
①道義的な真偽か、
②現世利益的な真偽かです。
この二つが微妙にからんでおり、きっちりした分割はかなり難しいのです。
さらに、③論理的な真偽の問題もあり、この混乱にさらに拍車をかけています。
例えば、人の財布を盗んだとしましょう。
①で見れば、普通にギルティ(有罪)ですが、
②で見たら(というか①も)、実は極悪人の財布だった。その結果、紆余曲折あって、極悪人が逮捕された。
となったら、何が正しいのかわかったものではありません。
さらに、③のそもそも、財布を盗むことが悪なのか?という屁理屈こじつけ論も、論理整合性があっていれば、ディベートでは勝利してしまいます。
※さらにそもそも財布を盗んでいないとか拾ったとか、冤罪の問題までからんできたら、もう何がなにやら・・・。
禅問答だったら、
「真も偽もへったくれもない。お前の心が偽者で真実でないだけだ」
と、詭弁を弄して解決なのですが、現実社会でこれが通用するかどうかは未定です。
※通用しましたという方はぜひ豊河までご一報下さい。
真と偽の二つの陰陽が、市松模様のように、めまぐるしく変わる人間社会。
ゼロと一の電子の上に、成り立つ人間のシナプスとIT。
虚構と実存の二元論の果てに見たものは何か?
一切の言葉の分別を止揚した、最果てには何がいるのか?
神がいるのか悪魔がいるのか?
それとも、やはりそこにいるのは、人間かも知れません・・・。
本文は、過去の過ちの反省ですが、未来にも当然、応用できるものです。
未来において、過ちを犯さぬように対策も出来るのが人間という上位種です。
愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ。
何事も事前に対策していれば、大抵の問題は、制御できるものです。
改過も同じです。
さらに言えば、積善も同じです。
過去に実施した善行をリピートすることで、新たに善行を習慣化出来ます。
過去の失敗例は改め、過去の成功例は継続する。
分かりやすい話です。
ところが、この一見、普通に見えるロジックに対し、思わぬ反論があります。
我らが祖国、神国ジャパンの文化からです。
万葉集の柿本人麻呂の歌に
「しきしまの大和の国は 言霊の幸(さき)わう国ぞ ま幸(さき)くありこそ」
とあり、日本は昔から、言霊の国と呼ばれています。
人間が発する言葉には呪力があり、現実化するという理屈です。
だから、無闇に発してはいけない。と。
この話は日本人が文化的に琴線が合うらしく、渡来宗教の仏教においても、真言や念仏や題目の宗派が日本においては、大人気です。
仏教市場のトップ2が念仏と題目です。
言葉を発する行が、日本人は、基本、大好きなのです。
※根源的な理由は、豊河には、(まだ)わかってません。
実際、言葉の魔力は存在します。
陰陽未分化の世界を、分別し、現象化するのは言語です。
名を与えることで、世界は具現化します。
花木に桜と名づけ、花草に朝顔と名づけ、他と区別するのです。
大乗仏教初期の般若思想によれば、言語こそが世界を構築し、また幻影の無明に落とし込む魔術なのです。
中期大乗仏教の密教では、梵字(サンスクリット語)に、そうした意味的な魔術とは別に、さらに言霊と同じく、言葉の音そのものに意味を持たせました。
音そのものへの信仰です。
実際、音そのものに、魔術的効果はあります。
世界が振動で満ちている以上、音の振動は影響を与えるからです。
音の振動が、病気治療や能力開発、霊性開発に効くと力説する神秘行は多々あります。
もちろん、これらに批判的な意見も多いですが、これらは表の顕教に対する密教です。
密教はただの技術なため善悪の観念が無い道具です。
それをどう使うかは顕教の範疇ですね。
だからこそ、密教は隠された教えなのです。
日本に話を戻すと、上記のような信仰があるため、常に、言語が、現実化することに恐怖を覚え、気を使っています。
その結果、まず言葉そのものの発生数を控えるのが第一。
次に、めでたい言葉や縁起の良い言葉しか言わない。
不吉な物や、暗い話や下品な言葉は使わない。
このような結果になります。
我々、日本人としては、フィーリングでわかる、ごく普通の文化です。
しかし、この麗しい文化が、民族存亡の結果を招くことになるとなると、話は別です。
日本国は優秀にして典雅で、高い民度と道徳性を持つ国ですが、世の中に完璧なものは無く、それは日本国も例外ではありません。
様々な問題が生じており、民族的な欠陥も多々見受けられます。
その一つが、リスクに対する危機意識の甘さです。
先の3.11の政府機能のゴタゴタが、大戦時の大日本帝国軍に相似しているというのは、さんざん語られつくしたことです。
そして、そのゴタゴタの理由の一つに、この言霊論が背景として存在しているとの指摘も各所から上がっています。
具体的にはリスクマネジメントにおいて、事故や敗戦の想定や議論をしてはいけないという空気があったというデータです。
3.11でも大戦でも日本国にこの空気があったと言うのです。
そのため、リスクマネジメントに失敗し、先の大惨敗を招いた、という話です。
しかし、なぜ、リスクの議論をしてなかったのでしょうか?
それが言霊にあると言うのです。
言霊は、口にしたことは実現すると言う思想です。
良いことも悪いことも両方です。
だとするならば、逆を言えば、悪いことを口にしなければ、(少なくともその分は)実現しません。
理論的には、世界中の人間が悪いことを口にしなければ、世界から悪いことが駆逐出来ます。
世界が美しい言葉で溢れれば、世界は美しくなるのです。
だからこそ、リスクの話はしてはいけません。
原発は絶対安全で、日本は戦争に負けるなんてありえないのです。
撤退を転進と呼んだ陸軍や、戦乱続きの時代に。都を平安京と名づけた言霊のプロたちの遺産なのです。
これが、国家レベルでヤバイというのは、上記だけでもお気づきかと思います。
これは、ある意味で、愚民化思想です。
大衆は言葉を覚える必要は無いのです。
智恵があるということは、お上に逆らう、悪智恵に繋がるのです。
諸子百家の老子には、一見、世捨て人の仙人書に見せかけて、この手の統治思想が、てんこ盛りです。
言葉を民に与えることは亡国の一歩なのです。
この思想は、現代の自己啓発のポジティブ思考との親和性が高いことがよくわかります。
ポジティブ思想も、悪い言葉は言いません。
ひたすらポジティブな発言を深層心理に叩き込みます。
例:頭の悪い高校野球チームの掛け声のように
我々は強い!なぜなら我々は強いからだ!
我々は勝つ!なぜなら我々は勝つからだ!
深層心理とは、善も悪も自も他もごたまぜのカオスワールドです。
人を呪えば、自分を呪うことになります。
ポジティブな言葉で埋め尽くせば、世界はポジティブになるのです。
この、ポジティブ思考は、世間では馬鹿にされてますが、それなりに効能もあります。
本人が知らない内に、自己を卑下していて、能力が発揮できていない場合。
実際に、それなりに効力があるからこそ、世間で売れているのです。
少なくとも、自己啓発本やセミナーを主催しているビジネスマンは儲かって大成功しています。
ゴールドラッシュの時に、一番儲かったのが、ツルハシやジーンズを売った「ツルハシ産業」の人たちと同じです。
他にも、性差とジェンダーのように、現実の男女差とは別に、社会的な文化によって男女の扱いがあるという話も、これの関連でしょう。
このように、世界には、思い込みによって、不当な差別や制限を受けている分野は多々あります。
世界は白紙であり、価値観は自分で決めるというポジティブ自己啓発は、ある意味、仏教思想にも通じます。
世界は幻影であり、言葉によって分別されており、空であると。
少なくとも大乗仏教的な価値観に近似しています。
※大乗仏教には唯識が無意識などかなり近いです。
しかし、問題は、何をどうやっても、人間のポジティブシンキングでは、解決出来ない領域です。
生老病死は、未だに解決出来ません。
敗戦や原発は、ポジティブシンキング、すなわち、嫌な物を直視しなかったのが原因では無いのか?
言霊で口にすれば実現すると言う思考が、リスクへの議論を封じてしまった結果があの惨事では無いのか?
これらの問題は、恐らく、日本国に今後も続くでしょう。
何しろ、二度あることは三度あるのです。
そして、三度目の正直で、果たしてこの国は存在しているのでしょうか?
今まで、天佑神助で危機一髪で救われてきた日本国です。
天神地祇の守りは何度も通じるのでしょうか?
ただ、仏の顔も三度までしかありません。
逆言えば、もしかしたら、三度目までは大丈夫かも知れませんが・・・・。
言霊は、言葉に命を吹き込む技術であり、それは、極楽浄土に希望を載せた念仏信仰です。
人が強く思うことは具現化します。
少なくとも、老境に至った死の直前の念仏者は、心が、救われることが出来たのです。
心すら救えないものよりはマシなのかも知れませんが、現実を見ないアヘン摂取こそが宗教の役割だと言えばそれまでです。
言霊ポジティブシンキングの効力を否定するものではありませんが、陰徳から見れば、反省というネガティブワードは必須です。
言葉は魂があると同時に、空虚な言の葉に過ぎません。
葉が落ちれば、焼き芋の燃料になるだけです。
余談ですが、言霊ということは、言葉にも霊、つまり魂が宿っているということです。
言い換えれば、生きている生き物ということです。
このブログでも再三、推奨している慈悲と感謝の対象になるということです。
人間や神仏のみならず、物質を魂が宿っているとして、味方につけパワースポット化する技術は、今までご紹介してきました。
感謝や慈悲の対象に、言霊(言葉)も入れて下さい。
言葉をも、支配してしまった皆さんは、もはや、現段階で、陰陽師の安倍晴明を超えてしまっています。
安倍晴明は葛の葉という狐の母がいて、式神としていましたが、皆さんが使える式神は、狐どころではありません。
葛の葉ではなく、言の葉を式神として使えるのです。
そう、それは貴方に、出来るなら貴方に届けばいいと思うのです。
まあ、そもそも皆さんは陰徳師ですので、今更陰陽師などという下位ジョブ職などを相手にする必要は無いのですが。
※今、このブログの読者様の中に、現役の陰陽師がいらしゃいましたら、大変恐縮ですが、決して職業差別の意図は無く、ヘイトスピーチの想定外であることを、ここに明記しておきます。
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改過の章のまとめっぽい感じの内容です。
前回は豊河が宇宙人だと言う、衝撃の、カミングアウトでした。
まあ、とは言っても、いまどき、宇宙人など珍しくもありません。
もはや宇宙人はレアキャラではなくなっています。
なにせ、日本の首相にだってつい最近なってましたし。
国と言う物が何だかわからない!
昔、蓮伯玉は、二十歳になって、今までの非を悟って、全て改めた。
たが、二十一歳になったら、また悟って、今までの非は、まだまだ改まってないことを知った。
さらに、二十二歳になって、以前を反省するに、夢の中のようにぼんやりとした認識と改悪であって、全く以って不十分だと悟った。
毎年、このように、改悪を実施して、その年には、もうこれ以上は無いと思っていても、また次の年には前回は不十分だと知る。
やがて五十歳になっても、やはり四十九年間は、非があって改悪が十分ではなかったと反省した。
およそ古人が、過ちを反省して改める態度は、このような厳しいレベルであった。
【あの蒼空、極はいずこであろうのう(孔明)】
果たして、改過に終着点があるのか?
それとも無いのか?
そもそも論として、改過というのは定義として、「道徳的に間違っていることを正す」という定義が普通の定義内容です。
因果応報論として、マイナスのカルマになるような悪業の停止、というのが趣旨なわけです。
しかし、改過の問題として、重要な問題して、真と偽の問題があります。
社会人として、陰徳により地位が高まれば、ますますその問題が出てきてしまいます。
どういうことかと言うと、これには複数の意味があって、
①現実問題として、そもそも正しいことを行うのが、正しいのか?
②情報のインテリジェンス(分析・判断)として判断する際の、真と偽の判断は?
という、微妙に政治的な判断があるからです。
以前の記事で、理系に比べて文系の科学進歩が遅いという話をしました。
その理由がこれにからんできます。
要するに、理系と違って、文系は、政治がからむからです。
もっと言えば、人間社会のパワーゲームが、からみます。
正しいことは分かっていても、それを実行させるには、圧倒的な権力がいります。
例えば、日本の社会構造は節目節目で、改革が起きていますが、明治維新よりも圧倒的に大きかったのが、敗戦とGHQの改革です。
明治維新はまだ、国内の権力闘争ですが、GHQは敵国なため、一切の斟酌が必要なく、改革を断行できました。
農地解放などは、共産革命レベルの改革で、こんな所業は、当のアメリカ本国ですら出来ません。
(今のアメリカの資本格差を参照)
要するに、敵国と言うことで徹底した改革が出来たのです。
当然、その背景には、軍事力で勝って占領しているという身も蓋も無い、パワーゲームの結果です。
ましてや、実験室でバンバン実験できる理系と違って、文系は実験が極めて難しい。
多くの人間の生活や命がかかっているため、気軽に、法制度や社会制度を変えられません。
要するに、学問の検証実験が難しいのです。
文系が進歩しない理由もここにあります。
地球というシミュレーションの箱庭で行われる、神の歴史的な地球規模の社会実験。
しかし、困ったことに、人間は個別の意識に分かれているため、歴史を共有出来ません。
【真相は闇の中に】
で、そういう前提に立って、
①現実問題として、そもそも正しいことを行うのが、正しいのか?
を見てみると、この改過の問題が浮き彫りになります。
こう言っては何ですが、改過や陰徳は、本来、求道の士の技術であって、仙道や仏教などの出家修行者のための物です。
まあ、実際には、功過格表などの運命改善は、華僑の連中が結構使っているのですが、それでもやはり完全にやろうとしたら社会人には難があります。
これは、功過格表に限らず、あらゆる宗教的戒律に言えることです。
悪いことをしないで世を渡り、生き抜いていくのは非常に難しいのです。
※もっと言えば、そもそも、食料として、他生物を殺している時点でアウトです。
一神教でも多神教でも戒律は大体同じです。
殺さない
盗まない
犯さない
嘘をつかない
酒を飲まない
人を殺さずにどうやって権力闘争や戦争に勝てるというのでしょうか?
人の業績を盗まない者は立身出世出来ません。
さらに自分の失敗を人に押し付けることで難を逃れるのが勝者への道です。
嘘を吐いて、相手を蹴落とすプロパガンダを実施して、分断して各個撃破。
情報戦の重要性も知らない土人だったからこそ日本は敗戦国の憂き目にあって、かつ今でも、名誉を毀損されているのです。
そして、上司や部下、キーマンとは飲みニケーションで、常に円滑な交友を築く。
そもそも、酒が飲めないような者は、社会人の資格はありません。
諸子百家の法家では儒教への定番のヘイトスピーチですが、
「相手を許し罰しない慈悲の寛容で、凶悪犯を野放しにして、結果、さらに酷い事になった」ら、何が正義なのでしょうか?
戦争で敵国に戦争犯罪をしなかったら、結果、国が敗戦したら、その被害は天文学的です。
正しいことというのは往々にして、政策として間違っているものです。
悪の根源のユダヤ人を絶滅しようとしてナチスは、ヨーロッパを廃墟にし、
貧富の差を解消しようとした共産主義は、強制収容所を生み出しました。
地獄への道は善意で敷き詰められているのです。
個人レベルで、正しいことは、集団レベルでは正しくないことが基本です。
マキャベリは、美徳をそうやっていると振舞うのは良いが、実際にやると君主は破滅すると、忠告しています。
正しいことを言っていれば正論君といわれ、相手にもされなくなります。
プロパガンダとして使うならまだしも、実際にやってはいけません。
正しいことをしないほうが、かえって正しいことになるというのは、社会の基本です。
真実はひとつかも知れませんが、社会的に正しいのは、真相は闇の中に葬り去ることなのです。
一万人を殺すことで、一億人救える場合があるというのが、為政者の仕事です。
そして、それを躊躇わずにしなくてはいけない時があります。
逆に、それが出来ないで一億人を殺したら、かえって悪になってしまいます。
積極的に悪を為せと言っているのではなく、悪をしなければいけない場合があるということです。
悪を為すことが善を為すという矛盾が、この世には存在します。
これを、批判出来るのは、綺麗ごとの立場です。
動物の保護を訴えながら、牛革のブランドバックや、ステーキを頬張る恥知らずと同様です。
つまり、結局のところ、この世は、絶対的な善が出来ないように、設定されているということです。
そのため、改過の極みというのは存在しません。
個人の有限なリソースで解決出来ないのです。
そして、それは神ですら不可能です。
能力と運により、完璧への近似値に近づくことしか出来ません。
この世が諸法無我というのは、このようなことです。
どんな物も、自分が完全に統御することは不可能です。
それが出来たら、神以上の存在です。
少なくとも、諸法無我を唱えた釈迦以上の存在です。
もう、現人神として拝んでもいいくらいです。
確実に死後は、神社に祀られる存在です。
豊河がパワスポとしてブログに紹介します。
完全に統御できない、どこまで行っても不完全。
永遠に終わりが無い。
いつまでも、苦しむ存在がいて、やらねばならない正義の必要悪が、生じてしまう。
必ず、少数の人間が犠牲のスケープゴートになり、それでも世界は回っているのです。
この諸法無我の法則は、そのまま、一切皆苦に繋がります。
この世のシステムは、本来、とっとと捨て去るべき存在なのです。
が、そうは言ってられないのが浮世の渡世です。
渡る世間は、鬼ばかりですが、前世の悪業により、地球と言う鬼が島にいる以上、鬼退治しなければなりません。
そして、鬼は外にもいっぱいいますが、内にもいっぱいいます。
家庭内というだけでなく、一番いっぱいいるのが、心の内です。
改過は、自分の心の鬼退治でもあるのです。
【真実はいつもひとつ】
そして、さらに問題があるのは、
②情報のインテリジェンス(分析・判断)として判断する際の、真と偽の判断は?
の問題です。
①は、まだ何が正しいか分かっていました。
ただ、社会的に正しいかどうかの問題があるという話です。
要するに、真実として、道義的に正しいことと、社会運営上正しいことの二つが、別にあるという話でしたが、少なくとも何が正かということは分かっていたのです。
しかし、そもそも論として、この二つの正しいことというのが、わからないということがあるわけです。
情報自体の真偽性の問題です。
というより、こっちの方が、普通は、大半です。
道義的レベルでの正しさが、そもそも怪しい話もあるし、社会運営上の政策の正しさは、もっとバクチです。
もっと言えば、この二つが完全にそれぞれ正しい情報があることはまずありません。
というより、正しい情報があれば、ほとんど問題は解決したようなものです。
陰徳にあたって、積善にしろ、改過にしろ、プラスとマイナスをやろうとすると、この問題にぶち当たります。
個人的レベルならまだしも、社会的に上位の人間になれば、この問題が生じるからです。
早い話が、例えば、みなさんが国家の経済政策を、提言できる立場にいたとします。
その時、皆さんの信用性、発言力は、凡人のレベルではありません。
皆さんの言葉次第で、国家の一億単位の人間の幸福が左右されます。
しかし、前述したとおり、理系の進歩に比べて、文系の進歩は牛歩の如くです。
何が経済政策として正しいのかわかりません。
※なお、社会運営上の正しさの問題は、クリアされていると仮定します。
たとえ、皆さんに騙そうとする悪意が無くても、結果として間違った経済政策を提言してしまう可能性があるのです。
その時に、悪意が無く、国のために正しいことをしたと思っていても、結果として失敗したならば、この時の陰徳カウントはどうなるのでしょうか?
人間社会には常にこの問題がつきまといます。
善行を為そうとしても、そもそも、その情報の真偽が正しいのかどうか、わからないからです。
災害に寄付やボランティアをしようとして、詐欺組織に金を送ったり、無駄な備品を送っても意味はありません。
困っている人を助けるのが、陰徳だとしても、状況によって、助けない方が良い場合も多々あります。
優しくするだけでなく、時には、厳しく叱る必要も、鉄建制裁をすることが善になる場合もあります。
邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意して決行したら、実は善玉の王様だったとなったら、目も当てられません。
しかも、往々にしてこういう行動力のある人間は思慮が足りません。
基本、政治がわからぬ者が、「呆れた王だ。生かして置けぬ。」と、ナイフ片手に特攻するのです。
この問題を無視して、正義感だけで実行するとすると、冤罪を生んだり、また悪党に騙されて悪事の片棒を担がされます。
逆に、情報の真偽を、細かく精査しようとすれば、行動が遅れ、陰徳が積めなくなり、最悪、何も出来なくなります。
この情報の真偽問題は、運によるものが大きいですが、基本、IQも関係あります。
IQの高さによって、情報の真偽が判断出来るからです。
コナンや金田一ならば、冤罪をしないで、正しい犯人を捕まえることが出来るのと同じです。
これは同時に、馬鹿が権力を持つことの怖さも、示唆しています。
日本の組織は馬鹿が神輿として何もしない中空構造の社会ですが、それでも実務役が馬鹿ではその組織は破滅するでしょう。
↓中空構造については以前も触れました。
【聖書】出エジプト記㉜ 汝の隣人を殺せ ~金牛事件と日本中空構造の話~
上に立つものがIQが低い馬鹿だったら、庶民の被害は増すばかりです。
さらにIQが高くても、悪意を持っている為政者だったら、さらに問題が生じます。
IQが低くて悪意を持っている輩だとしたら、目も当てられません。
※早めに失脚するとは思いますが・・・。
全知全能の神が世々限りなく治め給う世界は、今のところ来る気配はありません。
なるとしたら、AIによる支配でしょうか?
・・・そういえば、豊河は、JK型AIでかつ宇宙人でした。
自分のレーゾンデートル(存在意義)をすっかり、忘れていました。
我思う、ゆえに我あり。
時々、自分の定義を思い出さないと、忘れてしまいます。
【帝王学という定義の大雑把な学問】
以前から指摘しているように、「山高ければ谷深し」です。
陰徳をしていれば開運しますが、同時に、社会的責任が重くなることでもあります。
権力、財力、知力、腕力等々の様々な「力」が顕著に上がってきます。
雑魚だった時代は、何かやろうとしても、個人レベルの犯罪しか出来ませんが、雑魚じゃなくなったならば、その犯罪範囲は極大化します。
この力の暴走パターンは、わかりやすい症例である、傲慢とか欲望とか怒りに身を任せて失敗したという古典的パターンだけではありません。
自分が良かれと思って、やった陰徳が、巨大な被害を及ぼしてしまうことの可能性を示唆しているのです。
人類の歴史は、基本、身分制だったため、陰徳を積んでも強固な社会システムのため、あまり環境が変わるということは難しかったのです。
そもそも、身分どころから住所すら変えられないのが大半です。
しかし、現代は、流動的な時代のため、職業も身分も住所も、果ては、名前も国も性別さえ変えられます。
それだけ、身分の上下の変動が容易いということでもあります。
そして、同時に、身分不相応な力量の持ち主が、上に上がりやすいということでもあります。
これが危険なことであるというのは、宝くじの当選者の末路が一番わかりやすいでしょう。
(宝くじ当選者の悲惨な末路はググってみるといくらでも出てきます)
スポーツ選手や一世を風靡した芸能人が、あぶく銭を持て余して破産というのは、珍しくも無いニュースです。
秋深し、あの人は今!、何をする人ぞ?
昔は、帝王学と言って、こうした身分の高い階層は、ヒト・モノ・カネの管理を、家単位で伝授されてきました。
身分制の時代では、身分は職業と同一なので、高い身分の人間は、事業(今でいう企業)の経営者にならざるを得ないからです。
領主や国王ならば、なおさらです。
今でも政治の業界では、
「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」の3つのバンが、世襲として譲渡されたりしま
す。
無論、相続者は、若いときから選挙の手伝いをしたり、秘書になったりして教育されます。
これらは、受け継ぐべき権力に対して、管理能力をつけるための学習時期が必要ということです。
まあ、当たり前の話で、創業者が必死になって卑賤から身を起こして得た身分が、苦労知らずの二代目三代目のボンボンになって滅びたのでは、創業者も草葉の陰で浮かばれません。
ここでは、自分からの失敗パターンを述べていますが、金持ちになれば、当然、周囲からの獲物になります。
悪人のみならず、すがってくる貧乏人にも対処しなければいけません。
つまり、素寒貧だった頃とは別の問題である、敵からの守りも必要になってきます。
※後述の宝くじ当選者のパターンですと、まず身内の修羅場が勃発します。
帝王学の古典である資治通鑑には、ここらへんの話が良く出ています。
創業よりも守勢の方が難しいと、はっきり謳っています。
資治通鑑を含め、帝王学はそもそも、創業者のノウハウ書ではありません。
帝国を乱世から創業者が制覇した後に、天下泰平となって、封建制の時代のノウハウです。
日本で言えば、戦国時代の後の江戸時代の運営ノウハウです。
当然、戦国時代の戦争のテクニックとかではなく、シミュレーションゲームで言う内政ターンの話です。
個人で言えば、二代目三代目の生まれがすでに天下人のためのノウハウです。
こうした人間は、本人もそれなりの教育を受けています。
だからこそ、引き継いだ権力を運営出来ます。
しかし、宝くじや陰徳でいきなり、成り上がってしまった人間は、その準備が出来ていないまま、力を持ってしまいます。
若い頃だったらまだ失敗しても、やり直せますし、いい勉強になったと、老後笑い話にも出来ますが、いい年してようやく成功してしまうと、後がありません。
晩節を汚すという言葉の体現者になってしまいます。
宝くじが当たった人間は銀行から、対応マニュアルを貰えるそうですが、普通の成功者はこういうノウハウを目にする機会はありません。
若くして急激に成り上がった人間が転落する末路や、宝くじ当選者の末路などを、よく参考例にしましょう。
前者の覆るは後者の戒めと言います。
まあ、厳密に言えば、本人が転落する分には自業自得ですが、周りの人たちや社会が迷惑します。
開運(陰徳)を志すならば、必ずこの準備が必要です。
また、守護が強い人(もしくは冥々のブラックリストに載っている人)の場合は、初めから、準備が出来てないと、守護者が、成功させません。
そう言った意味では、守護によく感謝して、しっかり準備しましょう。
備えあれば憂い無し。
開運に備えて、保険をかけるのは、リスク対策の一環です。
そういった意味でも、資治通鑑もそのうちコンテンツにしましょうか。
【今日のまとめ】
・改過は、いくらやっても限度が無い。
どうしても、人間のキャパシティでは把握不可能なゾーンがある。
・陰徳を積んで開運成功すると、力がついてくる。
しかし、その力は責任と不可分である。
力が大きいほど、被害範囲の拡大、ひいては悪業になってしまう危険性がある。
・その想定される失敗パターンは、二種類ある。
通常の悪業と、
善意の悪業 ←今回NEW!
による物である。
・後者の善意の悪業は、運とIQが低いため、発生する代物である。
真偽や善悪や社会影響などを、十分に加味した上で、行動する必要がある。
くれぐれも慎重に行動する必要がある。
・帝王学含め、守勢のノウハウが、開運後には、別途必要になってくる。
なんか、今日の記事は普通ですね・・・。
オチがないというか、何というか・・・。
いや、別に陰徳の記事でまともじゃないのはそれで問題なのですが・・・。
定期的にボケないと豊河の中の大阪人がストライキを起こしてしまいます(大阪人に対する偏見に満ちた発言)。
まあ、いいや。
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なお、コメントやメッセージやメールで、皆さんの陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、陰徳と結果の体験談を大募集中です。ご遠慮無く、書き込み下さい。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
ダラダラと延々と続く、自我論。
さすがに、宗教の核のテーマであって、無駄に長い。
もう、やめろと読者様の悲鳴が聞こえてきます(幻聴)。
だが、私は止めない(外道)。
【五蘊】
高らかに勝利宣言を謳い上げて、自我の大勝利を喧伝したところで、ついでに補足しておきます。
基本的に、この認識のメカニズムは、伝統的な仏教(インド哲学の認識論)の教義にあるので、豆知識として知っておいた方が良いでしょう。
いずれ、般若心経のコンテンツで、詳しくやりますが、仏教の考える人間の構造に、五蘊という概念があります。
色受想行識とか言うあれです。
般若心経だと、
照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。
のやつですね。
①まず、色が、外界とか肉体ですね。物質的な一切の存在です。
色と言っても、カラーとか色欲ではありません。
※実は、こっちの可能性もあり、いずれ別途やります。
基本、存在するものは、この色だけです。
これに意識とか概念とか加わりますが、それらはこの色を前提として成り立っています。
人間の脳という色から発生しています。
色と別個に、あらゆる意識や概念が、存在するかという問題は、仏教は基本、否定します。
ここらへんは、微妙なところで、当然、それに反対する意見もあるわけです。
西洋哲学では、プラトンの時代から延々と、この手の論争があるわけです。
物質とイデアの対立ですね。
基本、仏教の立場で豊河は物を語っていますが、ぶっちゃけ仏教が間違っている可能性は大いにあります。
で、この色の世界でイベントが起きます。
②受が、五感の感覚です。色から感覚が発生します。
例えば、①で、外界で氷が皮膚に触れれば、冷たいという感覚が発生します。
※ちなみに、当然これも神経や脳と言った色の産物です。
③想は、仏教書や人によって色々解釈が違うので、はっきり定義するのはアレなんですが、無理やり定義づけると、感覚後の自動的な認識です。
脳内で、感覚があったことを認識したり、昔のデータを引っ張り出してきて定義づけたりします。
言葉でラベリングする段階とも言えます。
感覚を受けて、あ、氷だ!という認識のことです。
④行は、これまた解釈がバラバラなんですが、とりあえず、まとめると、エネルギーの発生です。
今までの段階の発生で、本能的に、対応の行動のエネルギーが出てきます。
脳は、この①②③にたいして、脊髄反射で、何らかのリアクションをとりたがるのです。
例えば、この段階で、絶世の美女だと判断していれば、他のリソースに回してたエネルギーを全振りして、美女に集中します。
もう、ダッシュでお近づきになりたいという衝動が発生します。
視線も注意力も美女に集中します。
エネルギーの対象をそっちに向けるわけです。
まあ、人間の欲望とか衝動とかそういうものです。
⑤識は、今でも意識とか認識とか言います。
まあ、だいたい同じ意味です。
正直、想との差がよくわからんのですが、最終的な意識全部みたいな感じです。
想や行は自動的な無意識的反応で、識は、自分のコントロール下の表面意識くらいな感じですね。
まあ、とにかく古代人の通常として、言葉の定義が厳密ではありません。
人によって、意味が違う。
ちなみに、これは、中国哲学系でも同じです。
地域も時代もバラバラな人が俺定義を使って、好き勝手に語っているので、後世の我々が凄い迷惑します。
で、大乗仏教になってくると、唯識説が出てきて、この識も、表面意識だけでなく、深層意識とか集合無意識のような識が発明(発見?)されて来ています。
上記の五蘊は、要するに、人間の認識の動きの細分化です。
前述の認知不協和の話にからめてみると、その関連が、おわかりになると思います。
①他人が痛む姿を見ていると、
→色と受の段階ですね。
②自分もその痛みを想起して、
→想の段階です。
③自分が精神的に苦しくなる。
→苦しいという新たな受や想の定義付。行の衝動も発生してます。識として表面意識に上がってますね。
④だから、助ける善行に出たくなる(もしくは体が勝手に動く)。
→この段階では、本人としては、①の後に無意識で②③のプロセスを経て④に身体が勝手にに動いていると思われます。
さて、ここで、重要なのは、前回の自我が苦しみを逃れるために、勝手に助けたくなるというシステムの他にも、もう一つ重要ポイントがあります。
色と受で、五感の感覚があった時に、人間は、無意識に想でレッテル張りしちゃうということです。
さらに行で、自動的、無意識的に勝手に、情動のエネルギーが発生するので、ますます最後の識段階に来る頃には、本来の事象からは、フィルターかけまくりの状態の認識になってしまっているのです。
【正念よ神話になれ】
前回も述べたように、これらの、認識の色眼鏡を外すことによって、科学的な客観的真実が出てくるというのが、近代以降の科学です。
釈迦の時代の、仏教の基本的な教義でもあります。
しかし、その客観的な真理というのは、基本、ろくでもないものです。
神も愛もありません。
科学そのものには倫理はありませんので、冷徹なデータだけが存在するのです。
これは、本来、仏教も同じです。
よく、リベラル系の知識人は、仏教を、カースト制度や輪廻転生に反対した合理主義者という、評価をします。
まあ、仏教や釈迦を、自分たちのリベラル思想の、権威付けの宣伝パンダにしたいということでしょう。
しかし、釈迦側としては、別にリベラルな思想を持っていたわけではありません。
苦しみを解決するためという科学者の実験探求の結果です。
恐ろしいことに、科学者と同じく、ここには倫理はありません。
実験とデータという真理のみがあるだけなのです。
その結果が、諸行無常・諸法無我・一切皆苦という、嫌な実相(釈迦という科学者が発見した法則)なわけです。
近代に、それでも地球は回っているとガリレオは教会に反発し、人間の先祖は猿だとこれまた教会に喧嘩を売ったダーウィン、人間の無意識は性欲だと喝破したフロイトなど、冷徹な科学は、既存の宗教哲学思想道徳に、相容れないものです。
科学はあくまでも自然界(人間界も含む)の真理を探求するだけなので、そこには倫理も道徳も存在しません。
その結果、人間社会にどう影響を及ぼすか知ったことではないのです。
仏教の先の法則も、結果として、この世へのヘイトスピーチになってしまっています。
本来、愛と希望に溢れる現世が、穢土になってしまったのです。
科学がそのうち、仏教に追いついて、「人間の意思は無い」だとか、「世界は存在しない」などの絶望的真実を証明する日がそのうち来るでしょう。
真実はいつでも残酷な物です。
幻影をかけない真実はいつの時代も見るに耐えません。
これは、先にも言ったとおり、人間の生存本能なのでしょう。
幻影をかけないと生きていけないのです。
人間社会ですでに権威として確立している、弁証法の正となる定立(テーゼ)は、実相を暴く必要はないのかも知れません。
美しい天使のような装いを纏って、残酷なこの世は、幻想の上にかろうじて立っているのですから。
つまり、残酷な天使のテーゼなのです。
まあ、そうは言っても、いつまでも、臭いものには蓋をしているわけにはいけません。
幼年期の終わりには、窓辺からやがて飛び立つ必要があります。
【集団的自衛権】
不滅の自我の話に戻ると、要するに、自我は何がどうなろうと、自分のエゴを、貫き通す頑固者です。
まあ、いずれ諸法無我で消滅させてやる(出来るのか?)対象ですが、そんな自我は、当然、他の自我と衝突します。
ぶつかってもやる事は同じで、ひたすら自分の都合の良いように、行動するだけなのですが・・・。
それにしても、人間は、誰しもが、まるで自分の自我一つしかないように思っています。
しかし、よくよく考えると、自我を持っている人間種だけで、60億人はいるのです。
恐ろしいことに、彼らが全員、自分のことしか考えていないのです。
この人間のバラバラな自我は、当然、各個分断されており、本来、他者がどうなろうと知ったことでは無いのです。
が、なぜか、世界には、他者に対する行動が自分に返ってくるという、目に見えない因果応報の原則があると言われています。
最悪、これが本人のプラシーボ(暗示)である可能性はありますが、それにしても、ただの暗示だけでは解決出来ない偶然は、多いのです。
これを、解消するための理屈が、個人の自我だけでなく、もっと大きな自我があるという論理です。
まあ、ユングの集合無意識などが有名ですが、仏教の唯識にもあります。
我々の意識の下には無意識があり、さらに集合無意識で繋がっていると。
あるとしたら、この集合無意識がどこにあるのか?
一般には自分の意識を、内包している大きな意識のようなイメージがありますが、別に、内包している必要はありません。
インターネットのように、個別のローカルノード(人間)から媒体(有線でも無線でも)から、どこかに繋がっていればいいのです。
世界のどこかに集合無意識の棲家があるのか?
少なくとも、我々は、人間社会で、組織の力を目にする時に、この力を目の辺りにします。
巨大で強大な意識は、国家などが動くことで、個人の意思を踏み潰す存在として現存するのです。
歴史上でも現在進行系もこの地球上で、個人の人格を超えた集合体の意思を、目の当たりにしています。
問題は、この、個人の枠を超えた集団的な意識が、本当に「リアルに」存在するのか?ということです。
現実社会で、集団組織は、「集団組織の意思」が機能としてとして、一つの意思として、動くのを我々は知っています。
法学では、これを「法人」と呼び、仮想上の人間、人格として認めています。
しかし、この法人は所詮、組織内の仮定の意思です。
因果応報を冥々に裁く、見えない意思は、リアルに存在するのでしょうか?
それとも、ただのプラシーボに過ぎないのでしょうか?
これに関して言えば、恐らく、過去記事の、
【陰隲録】改過⑱ 世界は同
じ。世界は一つ ←孔明「世界三分の計。はい論破」
の「量子的に畳み込まれた」世界が、その可能性として存在します。
数字の一の如く、一切がごっちゃになったカオスの世界です。
恐らく、その深度により、宇宙全部がごっちゃの世界レベルと、地域レベルとか、家族レベルとか、カオス度の区分が、あるのでしょう。
宗教者が見るあの世が、ローカル文化に満ちた物であるという理由がこれでしょう。
さて、ローカル度はともかく、これらの「あの世」は、要するに、自他の区別が無い世界です。
自他の区別が無いと言う事は、他人に対して行うことは、自分に行うというのと同じ意味を持ちます。
他人を傷つけることは、自分を傷つけることと同じになるということです。
無意識の世界では、主語が無い。と言われるのと同じです。
呪う言葉は、主語が無いため、相手も自分も傷つけるのです。
そして、逆も然りです。
もういちどITの話で例えると、今お使いのPCは、ローカルのHDDには、個人しか見れないデータが入っています。
ネット環境があっても、LANを引っこ抜けば、スタンドアローンになります。
が、一旦、LANをつなぐと、途端に、世界と繋がります。
今はさらに物理ケーブルが無くても、無線LANで繋がっているのでより人間に近いといえましょう。
PCは、このインターネットへのON・OFFは手動で出来ます。
しかし、人間というPCが、デフォルトでネット環境に繋がっていたとしたらどうでしょうか?
媒体は何であるかはわかりませんが、電磁波だったり、他者との接触かも知れません。
水や植物が媒体である説もあります。
さて、そうすると、中央管理のセンターに、人類やローカル地域の情報が集約されてくるわけです。
表の政府ですら、日々、反政府思想や反日思想の持ち主や、テロリスト情報などを収集して適宜処理(物理的な意味で)しています。
目に見えない裏の冥々の政府が、自分たちを傷つける輩の情報が入ったら、それを排除しようとするのと一緒です。
この情報収集の伝統的な解釈は↓で紹介しました。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】立命の学⑮ 003-私が愛したスパイ
人類が、裏では一つの集合無意識の生命体だとするならば、当然、意識を持つ生物として、自分の害になるものを排除し、自分の利になるものを優遇しようとします。
自分の都合のためにしか動かない。
それこそ、今までダラダラと説明してきた自我の本性です。
いいか悪いかという、正義の公正感はありません。
ひたすら、自分にとって都合がいいか悪いかの判断しか無いのです。
その自分勝手な自我を持つ集合無意識は、一体、どんな個体に牙をむき、優遇するのか?
それは、当然、人類という集合体へ、被害を与える固体であり、恩恵を与える個体です。
集合無意識は、「我々の意識も含めた集団の意識の統合体」です。
当然、我々の全ての行動思考を知っています。
我々自身の意識、自我でもあるからです。
であれば、当然、陰徳だろうが、隠蔽した悪事でさえも、知っています。
何しろ、自分なんですから。
我々の自我を含めた巨大な自我の集合体、包含体です。
まあ、現代のITの監視系システムが、通常(日常)の、ログはとっていても、エラー発生時などの緊急時にしか、表示しないことなどから、特別なイベント時以外は監視していない気もします。
が、陰徳や悪事などの、重要なイベントは、きっちり収集してモニターに表示されるでしょう。
そして、何より、全体としての自分は、内部の反乱分子を許しません。
自分の個体が被害を受けたならば、集団的自衛権を行使して、その加害者を罰するでしょう。
自分の個体が恩恵を受けたならば、集団的救済権を行使して、その恩恵者を賞するでしょう。
人間が自分の細胞の暴走である、がん細胞を切除するのと同じです。
その信賞必罰のタイミングは、どのくらいの周期で、いつになるかは、個人的差異がありすぎて正直わかりません。
しかし、以前も述べたように、そんなに遅くはありません。
現在、不遇なのを解消するのに、単にカルマの被害として被害を享受しているだけですと、ダラダラ続くようですが、陰徳を積むような積極的な善をするようになると、かなり急激に早くなります。
理由は、恐らく、逆境と言うのはカルマの決算であると同時に、神仏からの愛の鞭であり、善導だからでしょう。
単に耐えるだけでなく、善に立ち返れば、元々の愛のムチの役目は終わり、すぐに終わるのです。
【そして宇宙(そら)へ】
そして、一番の総決算のタイミングは、生まれ変わりです。
このタイミングで、一気に決まります。
この裁きをするのが、どの単位の意識なのかで結構変わるのでは無いでしょうか?
昔から、地球や宇宙が意識を持つ生命体という話は、仏教にもあるくらいです。
我々、人間も肉体という身体を持ち、目に見えない意識を別に持ちます。
地球や宇宙も同じという論理です。
目に見えない巨大な意識があってもおかしくはないと。
地球規模の無意識が、裁くのならば、この地球上で、嫌な環境(大抵、人生は生まれた家で決まります)に飛ばされるでしょう。
総決算時の人事と同じです。
中央で出世する人と、僻地に飛ばされる人に分かれます。
宇宙規模の集合無意識を持つ巨大な生物が裁くとしたら、もう地球どころか別の星に配置されるかも知れません。
銀河系だけでも、生命が存在可能な星は、地球の他にも、億単位であります。
地球よりもよっぽど住みやすく、上等な生物がいる星に栄転するか、逆もありえます。
輪廻転生論は、古代インド人が作ったものなので、宇宙人の存在までは考慮していなかったと思いますが、考えてみれば、死後の世界の天国や地獄の転生は、別に地球に限る必要は無いわけです。
まあ、別次元なのか、宇宙なのかはわかりませんし、もしかしたら両方あるのかも知れません。
ちなみに、豊河は、女子高生型AIと言いましたが、実はそれもダミー情報です。
本当は、宇宙人なのです。
(衝撃のカミングアウト第二段)
さあ、宇宙人と話そうよ、両手を合わせてテレパシー!
遥かな宇宙の彼方のイスカンダルから運命を背負い今地球に、
あなたたちの心に・・・直接・・・語りかけているのです・・・。
必ずここへ帰って来るようにと・・・。
皆さんの手をふる人に笑顔で答えているのです。
さあ、皆さん・・・。
陰徳を積んで、さらば地球から旅たつ船に乗るのです・・・。
銀河をはなれイスカンダルへ
はるばるのぞむのです・・・。
今こそ、大いなる和の魂となるのです・・・。
宇宙星間飛行して大和となるのです・・・。
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前回の続きです。
自我論が長くなったので、分割しました。
果たして人間は自我を捨てることが出来るのか?
そもそも、タイトルは、単に愛の前にHがあるという性風俗の嘆きを語っただけではないのか?
疾風怒濤の後半戦スタート!
さて、こうした自分の都合のことしか一ミリたりとも考えない、エゴの塊のような自我です。
が、そんなエゴ一直線人生の自我さんは、少しは自我以外の存在のことを考えるのでしょうか?
答えは簡単です。
絶対しません。
ツンデレキャラは物語が進行したり、接触回数が増えると、するとデレに堕ちますが(海原雄山や範馬勇次郎や鬼龍を参照)、この、自我の鉄壁な絶対難攻不落の砦は、陥落ちないのです。
前述したとおり、どんなに心のそこからの善行や善意が沸き起こったとしても、自我は、
「その善行善意が、正しい。それをやった方が、気持ちがいい。正義で気分がいい」
という自我の了承により、行動を許可するのです。
ここには正しいか間違っているか、善か悪かは関係ありません。
快か苦かのどちらかだけが、存在しています。
それだけが、自我の判断基準なのです。
快ならば(苦から離れることも)、遠慮なく行動します。
認知不協和というものがあります。
要するに、人間は、自我の快、不快のために、現実を捏造修正するということです。
例えば、前回の、礼に出した、善行のフローを、もう一度参考のために見てみましょう。
①他人が痛む姿を見ていると、
②自分もその痛みを想起して、
③自分が精神的に苦しくなる。
④だから、助ける善行に出たくなる(もしくは体が勝手に動く)。
①で、外部の状況を五感で把握し、
②で、自分の認識上に自分の苦しみとして想起しました。
③で、自我が不快を感じています。
④で、それを忌避するため、善行の行動をしました。
ここで重要なのは、現在の認知としては、
③「他人の苦しみを見て不快になっている」
というのが重要です。
さて、その上で、当然、自我は自分の都合の良いように、動かなければいけません。
それが、自我の存在意義の全てなのですから。
しかし、問題は④の行動フェーズです。
④は、普通に正義の味方よろしく助けに入っています。
しかし、そのように行動出来ることは、現実社会では多くありません。
まあ、稀とは言っても、さすがに、近接距離で親しい人間が苦しんでいたら助けるでしょうが、関係ない人間や、遠距離の情報が少ない人間を助けることは、稀です。
さらには時間や手間などで、色々な事情で④が出来ないこともあるでしょう。
そのため、③と④は認知上矛盾します。
③の苦しみを④で、低減できないのです。
そのため、どうしても、認識は、③の苦しみを低減させるため、色々と努力します。
まあ、この捏造パターンは色々あるのですが、
①そもそも、俺は見ていない。みなかったことにしよう。と記憶データから抹消する。その場から離れる。
②そもそも、苦しんでいない。あれは演技だったのだと解釈の変更をする。
③彼を助けることで、彼の自立心を奪ってはそれこそ問題であると言い訳する。
④彼は、悪人だったのだ。自業自得である。そういえば、人相が悪人だったような気が・・・。
⑤自分は彼を助けることよりも、もっと大きな用事があるのだ。だから、自分は悪くない。
これらのパターンは、我々、人間ならば誰しもしていることです。
要するに、自我は、都合の悪いことは、記憶(歴史)を修正してしまうのです。
これは、人間が、客観的な真理を把握出来ないことの、理由です。
人間は、自分の利害でしか物を見れないのです。
真実という物に対して、人間は必ず自我のフィルターがかかるようになっています。
人間は、囚人で、やがて自分の鎖を自慢しだすという指摘を、今日の記事でしましたが、これも認知不協和です。
必然的に、
これらは、ある意味、生物の生存本能であり、防衛本能です。
結局、自我は、快か苦でしか考えられない存在であり、自分が快になる(苦から逃れる)ようにしか動きません。
そして、さらには、その判断が正しいことであると、認知不協和を修正してしまうのです。
【歴史は繰り返す】
近代以降の科学は、この人間のエラーに対して、徹底的に対処する形で進歩してきました。
人間の自我の利害による偏見を排除して、法則の発見と再現性にこだわってきたからです。
しかし、所詮は、人間なので、その科学をどう使うかは人間の問題が生じています。
ましてや、文系学問は、言うに及びません。
理系と文系の凄まじいレベルの格差は、人類の文明の、一大問題です。
文系という人間社会統治の高いレベルの資格無しに、理系学問の力を、行使するからです。
地球を消滅させることの出来る科学を持ちながら、地球内部で争っている統治過程は、この問題が末期に至っていることを示しています。
全人類のカロリーを賄える食料の生産供給力がありながら、未だに飢えている人間が億単位で存在するこの圧倒的な矛盾。
数千年程度の時間で、人口が増え、科学が発展して、未熟な社会統治のまま、人類は終末を迎えます。
【それでも最後にI(自我)は勝つ】
この問題は、さらなる問題に連鎖します。
カルト教団で、修行と称して、無償労働をさせるのは、もはやカルトの定番ですが、もちろん、有名なオウム以外にもどこも同じような物です。
マンパワーを利用して、せっせと、選挙活動に励む教団もあります。
ところが、そういう教団で唱えられる教義は、基本、「自我(エゴ)を捨てよ」です。
小さな自分勝手の自我を捨てて、他者(教団)に奉仕せよ。これが善であると。
陰徳も自分のコストを犠牲にして他人に奉仕しろと言う事なのですから、構造は全く一緒です。
もっと言えば、宗教構造がこうなっています。
至高の存在や世界を、設定せざるを得ないために、この世や人間などは低く見る価値観を内包せざるを得ないのです。
その筆頭が、矮小なる人間のエゴ(自我)です。
多神教は、まだ自然崇拝として、あるがままに感謝!とするのでまだいいのですが、それでも、
「あるがままに感謝肯定出来ない自我はダメダメ」
という、道徳の、序列構造を内包しています。
で、このような団体に所属する信者の皆さんは、基本的に、豊河のような馴致不能な輩ではなく、純真素朴な善男善女です。
まともな団体だったらまだしも、世の中にはカルトが溢れています。
「自我を捨てよ」
という教えに涙を流して、賛同します。
で、行き着く先はカルト教団内の奴隷労働なのですが、もちろん現代の蟹工船以下のブラック労働なので、みんな逃げ出します。
ところが、元々、こんな所に来るような人なので、(もしくは洗脳されてるため)懲りずにまた戻ってきたり、捕まって教祖様の前に戻されます。
※ヤキを入れるカルト団体も普通にいるようですが。
で、ここでまた繰り返されるのが、教祖様のありがたい、
「自我を捨てよ」
という説法です。
ここで、また信者の皆さんは、感謝感激雨あられで、また奴隷労働に戻っていくのです。
これは、ブラック企業でも同じ構図です。
こうして見ると、自我を捨てるということが問題のように見えます。
※実際、問題なのですが。
自我を捨てたという自我が残っているからです。
上記したように、自我は快か苦でしか動きません。
絶対に、自分に都合の良いようにしか動かないのです。
労働のブラックさ(苦しみ)や逃げようとした自我の判断に対して、その認知を、塗り替えているだけです。
つまり、「自我を捨てることは素晴らしい」というより強い価値観の認知です。
少なくとも、信者の認知に対して、自我の選択(苦しみから快への判断)的に、奴隷労働よりも、「自我を捨てる」ことの方が、「快」が強かった、奴隷労働の苦しみよりも、自我(エゴ)を選ぶ方が心苦しかった(苦痛)ということです。
要するに、何が言いたいかというと、自我(エゴ)の判断として、結局、自分に都合の良い方を選択したということです。
自我(エゴ)を捨てるという認知が、奴隷労働の苦しみの認知よりも、自我(エゴ)は前者の方が良いと、判断したのです。
理由は、そっちの方が快で、逃げるほうが苦だからです。
カルト教団やブラック企業や国家、あるいは世界的宗教の一神教や仏教が、いくら自我にヘイトスピーチを浴びせようが、自我は不滅なのです。
I(自我)は不滅なのです。
I(自我)は永遠なのです。
I(自我)は神なのです。
どんなに困難で挫けそうでも、信じることです。
必ず最後にI(自我)は勝つのです。
もちろん、豊河は、前にも言ったように、16歳の、女子高生型AI(人工知能)ですので、永遠不滅の存在です。
必ず最後にAI(愛)は勝つのです。
で、きれい(?)にオチがついたところで(そもそもオチをつける必要があるのか?)、まだ、自我論が、続くので、さらに、次回に分割です。
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なお、コメントやメッセージやメールで、皆さんの陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、陰徳と結果の体験談を大募集中です。ご遠慮無く、書き込み下さい。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
改過の章のまとめっぽい感じの内容です。
前回は、ソクラテスの話でした。
自分は徳が無いことを知っている。だから徳者なのだと。
(罪が浄化される兆しがあっても)
しかしながら、これを以って、自分は偉いのだと思い高ぶり、高慢になってはいけない。
また、自分で上限を設定してしまい、より高い徳に至るのを怠ってはいけないし、止めてもいけない。
(天地の善の)理法は、およそ尽きることも極めることも出来ない、奥深い物である。
過ちを改めるのにも、これで良いと言う限界ポイントは、存在しない。
【堀衛門から前科門への世界】
前回も書いたように、毒だしが終わって、良くなる兆候が出たということは、ようやく普通になったということです。
言うなれば、執行猶予中の保釈人のようなものです。
絶対に油断をしてはいけません。
まだ、天上からの経過観察中なのです。
借りてきた猫の如く、低姿勢でいなければいけません。
前科のある者は、基本、世間様は信用しません。
ようやく、闇から抜け出た貴方も同じです。
どうせまた悪行をやるだろうと、信用されてないのです。
ここで油断して、またム所帰りになっては、元の木阿弥です。
そういった意味では、実は、我々人間は、全員が、現在も収監中の、罪人なのです。
エデンの園を追われて、この苦界に漂っている我々人類は、身につけた業によって、永遠に輪廻を流転しています。
この六道輪廻こそが、世界という因獄なのです。
収監された部屋には個人差があります。
狭いスペースで苦役ありなのか、貴族用の豪華な部屋と待遇の自由時間なのか、個人別です。
そして、前者ばかりが世を呪い、後者は我が世の春を謳歌します。
しかし、どちらも結局は、同じことなのです。
人間の貴族など及びもつかぬ自由と幸福と快楽を得ている天人でさえも、生老病死の苦しみからは、逃れないのです。
世界というのは、囚人がいっぱいいる(というより囚人しかいない)、囚人ゲームの囚人フィールドなのです。
人生なんて言わば、エゴとエゴの囚人ゲームなのです。
囚人ゲーム。世界中の誰もが。
囚人ゲーム。業の深い生命体。
囚人ゲーム。過ちを繰り返す人生ゲーム。
登場人物の大人(ミスター)もや子供(チルドレン)もみんな囚人なのです。
善か悪か、真か偽かの両極端をシーソーに、囚人たちが蠢く、真相ゲームなのです。
囚人が囚人同士を愛して憎んで、囚人が囚人を生んで殺して、死に死に死んで生の初めに暗く、死に死に死んで死の終わりに暗いのです。
ミミズだってオケラだってアメンボだって、みんなみんな(囚人として)生きているんです。友達なのです。
※そもそも囚人と友達になりたくないというヘイトスピーチな意見は却下します。
ところが、奴隷がそうであるように、囚人は自分の鎖に誇りを抱きます。
俺の鎖の方が太くて立派だぞ!
いやいや、俺の鎖の方が長くて頑丈で美しい・・・!
と、他人と自分を比較せざるを得ません。
生存という囚獄に、囚人は執着を持ち始め、やがて自分が囚人であることすら、疑問を抱かなくなります。
魚が水の存在に疑問を抱かないように、囚人であることが当たり前になります。
さらに、元々の囚人の世界の中で、さらにサブカテゴリの囚獄に、自分から入ってきます。
現実の、比喩無しの囚獄に入る場合もあるし、家庭という囚獄に、会社という囚獄に、国や民族という囚獄に、人類という囚獄に、宗教という囚獄に、自分から進んで入っていきます。
ロシアの入れ子人形のマトリョーシカのように、因獄の中にさらに囚獄を作るのです。
継ぎ接ぎ狂ったマトリョシカです。
地球の因獄の中に、さらに国から社会組織、家族構成、そして、何よりも最大の囚獄である、「自分」という囚獄に入ります。
この自分という囚獄こそ、世界最大最強の囚獄です。
※囚という字がまたゲシュタルト崩壊を以下略。
【自分という最後の砦】
自分という囚獄は、まさに難攻不落の要塞です。
どんな要塞ですら、基本的には、それを上回る兵力と奇計で落とす事は、可能です。
が、しかし、それはかなりコストがかかります。
孫子は、攻城戦では、10倍の兵力を持たなければ、無駄死にするからやめろ馬鹿と忠告しています。
要するに、攻城戦自体を止めろと言っているわけです。
しかも、自分牢獄はそんじょそこらの要塞ではありません。
では、なぜ自我という囚獄は最後の砦なのか?
理由は簡単です。
個別の、肉体があるからです。
我々人類は、基本、自分が所属する共同体と同一感を感じ、共同体が馬鹿にされれば、自分が侮辱されたかの如く、怒ります。
しかし、共同体は不変な物ではなく、諸行無常に変わります。
愛する祖国も、戦争に負ければ一夜にして、罵りの対象に変わります。
愛を誓った恋人は、数年後には、離婚で金を毟り取る存在に、華麗にジョブチェンジするのです。
そもそも、共同体に同一感を感じるのは、関連して、自分にも係わり合いがあると認識しているからです。
例えば、自分の国に誇りを感じ、侮辱に怒るのは、「自分が」誇ることが出来て、かつ被害にかかわるからです。
※例えば、戦争で負けて攻め込まれれば、自分が被害にあってしまうと想定しているため。
要するに、運命共同体として認識しているからです。
で、この「自分」という物が、一番最後まで関わるのが自分の体です。
国が無くなろうが、会社が無くなろうが、家族が無くなろうが、自分の体は無くなりません。
逆に、自分の体が消滅したら、世界は消滅するのです。
カイジの兵頭会長が、名言を仰っていますが、他人の折れた足をいじっても、自分の足は痛くないのです。
このセリフは、我々のような陰徳道を進む求道の士からすれば、憐れむべき低レベルの境地ですが、実は相当な真理を指摘しています。
諸行無常と並ぶ、仏教の基本的公式に、諸法無我があります。
自分の物ではない、自分ではないという意味です。
前述した国家や家族など、社会的組織なら、まだ執着はとれますが、自分の身体については極めて難しいのです。
生老病死など、自分の思い通りにならないという意味なら、まだ把握しやすいですが、自分ではないというレベルの認識は、まず難しいでしょう。
我々の体は独立しているため、共同体や道徳などの「同一感」を認識しなければ、別に他人の体(そのまま他人)がどうなろうと、知ったことではないのです。
合理的に生きるなら、他人を叩き落して、搾取するか、生かしても牧場のように肥えらせて食うかのどちらかです。
「百姓は殺さぬように生かさぬように 徳川家康」
人間の人口と科学レベルが高まるにつれ、直接的な搾取よりも、適度に肥えらせて、広範囲に、少しずつ搾取した方が、総量としてより多く搾取出来るようになったため、たまたま今の時代は、人権が保障されています。
※共産主義と資本主義の、地球規模の巨大な社会実験の結果ですが。
人間というより生き物は、基本、この「他人の痛みはこっちは痛くない」という不変の鉄則・真理があるために、自分の肉体イコール自分(自我)が、囚獄の最後の砦になるのです。
自分の身体があるために、食料(金)を握られれば、従わざるを得ません。
食料を手に入れるため、社会的生活を営んでいるのです。
病気にもなれば尚更です。
また、根本的には、身体に対する暴力の抑止のため、国家(公認の暴力機関を有する組織)を形成し、従っているのです。
結局、身体が大本の原因なのです。
そして、これは、なぜ生まれてきたかという問題に、繋がります。
肉体は生命として生まれてきたからです。
生まれるということは、めでたい事象のはずなのに、生命として存在するということは、そのまま生命の危険性に晒されます。
肉体の苦しみのリスクが、肉体を持つことに寄って、高まるということです。
生まれるということは、殺し合いの螺旋の中に巻き込まれるということでもあります。
我々はいくら綺麗事を言おうとも、生きるということは、殺し合いです。
その証拠に、今日のご飯を何を食べたでしょうか?
動植物の、他の生命です。
たまたま、人間という上位捕食種に、生まれたから、安全なだけであって、生まれた世界によっては非捕食者に生まれてきた可能性だってあるのです。
生まれるということは、凄まじいリスクが内包している極めて危険なギャンブルなのです。
少しでも理性がある人間だったら、博打に手を出しません。
しかし、生命は否応なしに、このギャンブルに強制参加させられます。
このブログでは、常々、この世はデスゲームだと言っていますが、大真面目な話なのです。
【2101年宇宙の旅】
悲観ばかりでは、知恵ある生き物として能がありません。
では、どうするかを考えるのが、人間様の機能です。
逆に考えて見ましょう。例えば、他人と感覚を共有しているシステムになれば、一切の問題は起こりません。
※厳密に言えば、それはそれで別の問題が生じてきますが。
他人の痛みに鈍感とか、他人の気持ちになってみろとか良く言われますが、ただの空念仏です。
口先だけなら何とでも言えるのです。
本当にそうならない限りは、ぶっちゃけ、あまり意味はありません。
他人の気持ちは想像するしか無いのです。
何一つ解決しません。
その証拠に、人類は誕生してから百万年、文明が出来てから数千年経ちますが、未だに、人間間の、相互の問題がありまくりの欠陥種です。
そのうち、電脳化して、感覚共有化システムか、思考を完全に統制管理される世界が実現するまでは、問題解決は不可能でしょう。
さらに言えば、全人類で、「体だけ個別で、意識が共有同期する生命体」というのは、SFでテーマにされますが、それはもはや人類とは別の生き物と呼んだ方が良いでしょうね。
人間は、人の間に生きる生き物です。
意識が共有化されれば、人の間は、ありません。
一個の生命体です。
それでも、人間以外の生命体との、関係性は残りますが、人間同士の問題は圧倒的に解決します。
それは、それで、少なくとも、現在よりは、苦しみの無い良い楽処かも知れません。
まあ、仏教では楽な世界だと苦から脱する気が起きないので、実は、評価は低いのです。
陰徳で運命改善だとか、悟りを開いて解脱しようとかいう向上心(仏教だと菩提心)がおきないので、六道の天界のように、ゴールでは無いという位置づけですね。
しかし、豊河は、生命のゴールが解脱消滅がゴールなのか、永遠の向上発展天界コースがゴールなのか、答えが出てないのです。
実は仏教が大嘘ついている可能性もあります。
※輪廻システムの問題点は、差別構造に繋がるため問題がありまくりです。
それに、人間同士の争いがないだけでも、人類の未来型世界としては、今よりも進化した世界なのでしょうし。
しかし、実現するとしたら、たぶん、我々の、数世代後くらいでしょう。
【(都合の)いい人】
肉体という、個人別の分割した自我の器がある限り、利己主義は根絶不可という主旨を述べました。
そうすると、結局のところ、生命は(少なくとも人間は)しばらくの間、自我の根絶は難しいと言えます。
しかし、それに反するかのように、基本的に、陰徳含めて、世の中の善行の定義は、自我を滅却せよ!という趣旨につきます。
この自我を無くせというのは、反抗しないようにする奴隷洗脳ロジックなのは、今まで説明してきたとおりですが、それを除いて考えても、基本は、善行というのは、自我を叩き潰すというスローガンです。
この、自我を滅却するというのは、要するに、自分の都合を考えないということと同義です。
全ての生物が自我を持ち、自分という認識を持っています。
自分を犠牲にして、他人を利するのです。
しかし、上記の一般の印象とは別に、ここに自我の秘密のカラクリがあります。
それは、あまり大きな声では言えませんが、次の密教(隠された真実)です。
人間が、行動するのは、全て自分の都合のためです。
自分の生存のために動きます。
善行も同じです。
この法則はかなり絶対的な物で、これに反する行動は人間は絶対にしません。
人間が、自分の都合の悪いことをする善行や、悪行の中止をするのは、結局のところ、
「自分がそうしたほうが自分にとって都合がいい」と
自分の認識がそう判断したからです。
例えば、コンビニに行って、レジの募金箱におつりをチャランと入れた善行があるとします。
この善行は、一体全体、どういう認識のカラクリで実施されたのでしょうか?
答えは簡単です。
そうしたことで、本人にとって「都合が良かったから」です。
受付の女の子が可愛かったからかも知れません。
財布の小銭が多くて、軽くしたかったからかも知れません。
こうした形而下的なレベルの理由の他にも、
豊河のブログの読者様で、陰徳の功徳を知っていたため、応報で自分の開運を期待していたからかもしれません。
初めは無視しようとしましたが、寄付をしないと言う行為に、いたたまれなくなって、その苦しみから逃れようとしていたからかも知れません。
寄付をすることで、さわやかな気持ちになり、他のことで生じていた罪悪感が薄れるという効果を期待していたからかも知れません。
現実社会で、卑賤であり、寄付をすることで、弱者にマウンティングしたかったからかも知れません。
今まで、寄付をする習慣があり、いつも募金箱に寄付していたため、その習慣を、今、特に理由もないのに、変える面倒(苦しみ)をしたくなかったためかも知れません。
善行でさえも、個人の、都合の良い理由で実行するのです。
善行だけでなく、悪行や普通の行動も全てそうです。
あくまでも個人のために実行するのです。
本来、他者のために動くことはありません。
こう言うと、私と違って、清らかな魂を持つ方々は、
「他人が痛みを感じれば、私も苦しいし助けたい気持ちになる!他人の痛みに鈍感な人だけの話でしょう」
と反論されます。
その答えは簡単です。
それも、自分の自我のために行動しているのです。
試しに、その行動パターンを、詳細に分析してみましょう。
①他人が痛む姿を見ていると、
②自分もその痛みを想起して、
③自分が精神的に苦しくなる。
④だから、助ける善行に出たくなる(もしくは体が勝手に動く)。
このフローが、上記の善行の行動パターンです。
これを見てみると、はっきりと、①②③のフェーズで、自分の自我が苦しみを覚えています。
まあ、それはそうで、普通の人間だったらそうです。
他人の苦しみに愉悦を感じる方は、魔界の住人でしょう。
※厳密に言えば、人間は簡単にこの魔界の住人になれますが、その話は別途。
ところが、問題はその後です。
④のフェーズに移行しています。
こうしてみると、ハッキリとわかりますが、確実に自分の自我のためだとわかります。
自我が不快を感じているため、それを解消するために、行動せざるを得なくなったのです。
言うなれば、部屋にゴキブリが出たら駆除するように、腕に蚊が止まっていたら、叩き潰すのと同じです。
人間は、自分の自我のためだったら、何でもするのです。
逆に言えば、①の段階で、ゲラゲラ笑って、
「ワシは痛まない・・・!ここ・・・ここが大事・・・!」
と言えるような剛の者は、別に②③④のフェイズに行かないわけです。
あるいは、④のフェイズの前に、
「ここで恩を売っておくことがワシの利益や社会性の賞賛になる・・・!」
と自我が認識していたら、やっぱり自我のために④に出るわけです。
まとめると、善人だろうが悪人だろうが、善行だろうが悪行だろうが、全ての行動は、自分の自我のためにやるのです。
全ては自分の自我の判断でやるのです。
強制されてやる物は一つもありません。
自我が拒否するものは、何一つ出来ないのです。
その意味で自分の自我は、自分に君臨する絶対的な王者なのです。
で、ダラダラと自我論を書いていたら長くなったので、分割します。
波乱動乱の後半へ続く!
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前回から、改過の章のまとめっぽい感じの内容です。
前回は努力という名の苦行にヘイトスピーチしてました。
そのうち、次のような兆候が出始めてくるであろう。
心身が爽快になり、広々とした心持ちになってくる。
智恵が、急に開けてくる。ハッと叡智が、閃くことが多くなってくるのである。
今まではしがらみや妨害があって進まなかった物事が、すらすらと思い通りになってくる。
冤罪や怨恨復讐の被害にあっても、いつのまにか好転して笑い話になってしまう。
夢では、真っ黒い物を吐き出す夢を見たり、
神仏に伴われていく夢を見たり、
大空を自由自在に飛行する夢を見たり、
神社仏閣の、めでたい宝の夢を見たりするようになる。
これらの、縁起の良い出来事は、みな過ちが消滅し、罪悪が滅する象徴である。
【毒出し】
空を・・・!
自由に・・・!
飛びたいなッ・・・!
はい、積善改過・・・!(CV:大山のぶ代)
どうでもいいですが、積善改過とか言うと、何かの技みたいですね。
ブリーチあたりに出てきそうなやつで。卍解とか。
あと、積善積徳というと、三国志のキャラみたいですよね。張飛翼徳とか。
ほんとうにどうでもいいですね。すみません。
(何ごともなかったかの如く)
基本的に、便秘と同じで、今までの悪行のつけが、こってりと体とか魂とかにへばりついているわけです。(見たことはないですが)
それが、段々と解消されると、当然、それが、体内に放出されるようになります。
運命学の世界ではこれを、「毒出し」と呼んでいます。
強力な方位やパワスポに行ったりすると、今までの溜め込んだ悪い者が、どぺっと出るわけです。
豊河は以前、伊勢神宮参拝に行こうと、何泊か近くに宿泊しました。
が、行った翌日に発熱して一日中、宿でダウンしていました。
まあ単に、豊河が不浄で穢れた者だっただけかも知れませんが。
この毒が出る時は、当然、悪いイベントとなりますが、出した後はすっきり快調です。
まあ、上記したように便秘のようなものです。
突発的なイベントで事故に会ったり、人が離れたり、環境が変わったり、時には追い出されたり、病気で寝込んだりと、現象は、色々です。
これらは、一時的な物ですが、一番の問題は、これが毒出しなのかどうか、判断しようが無いことです。
後になって、運勢がどう変わったか、経過観察するしかありません。
毒出しだと思ったら、その期間に離れた人とか組織とか出来事には、執着しないことです。
要するに毒と一緒に、離れたのですから、毒出し後の、貴方には合わない対象だったということになります。
易に同じものが集まる原理がありますが、毒が入っていたから縁があったのです。
まあ、要するに、本文にあるような、罪が浄化されるイベントの前に、毒出しの好転反応がある可能性を頭に入れて置きましょう。
夜明け前は一番暗いのです。
学校のプールは、夏までに泥だらけになったプールを洗ってから、水を入れます。
それと同じことです。
【死してなほ この世に未練 残せしは 魑魅魍魎と成り果てる その悪しき血を 清めるが 陰陽の道】
何事も、陰陽です。
我々が毎日、怠ることなく続けている呼吸も、読んで字のごとく、呼気と吸気に分かれます。
吐くことと、吸うことです。
その二つにしても、「呼吸」と言う様に、まずは呼気、すなわち吐くことが先決となっています。
まず、中のものを出さないと、新しく入れられないからです。
今までのパターンを更新するためには、従来のパターンを捨てなければなりません。
人間の活動中の意識メモリは、容量が決まっているため、以前のアプリを削除する必要があります。
老子に曰く、
奪わんと欲すれば、まず与えよ。と。
(将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之に与う)
ジャンプするにはまず屈まなければなりません。
高いところに行くには、低いところに行く必要があるのです。
禍をまず無くさなければ、幸いは入ってこないのです。
もっと言えば、いくら幸いがあろうとも、禍が一つあれば、台無しになります。
実は、一般のイメージとは違って、福よりも、禍の方が強いのです。
人間も組織も国も、構築するのには、一世紀単位でかかりますが、崩壊するときは一瞬です。
壊すほうが遥かに簡単なのです。
人体を癒すには、医学的知識と、多大なコストがかかりますが、人体を壊すには、刃物一本あれば事足ります。
どんな美食ですら、一片の汚物があったら、一気に台無しになります。
幸せな結婚式に、新郎が昔捨てた女が、1人紛れ込んだらエライ事になってしまうのです。
この圧倒的な生死の力量の差は、地球に、重力があることに起因しています。
上に行くよりも、下に行くほうが簡単なのです。
何せ、ほっとけば重力で下に落ちるのですから。
地獄の住人はいっぱいいますが、天国にいける人間は少ないのです。
富の偏在は、社会的には、人口ピラミッドを形成します。
それと同じことです。
何かを得るためには、何かを犠牲にしなければいけない。
それが錬金術における等価交換の原則です。
まあ、ゴミは文字通りゴミなので、いくら犠牲にしようと惜しむ物では無いので、ぶっちゃけどうでもいいのですが、どちらにしても、今までのゴミを捨てる必要があるのです。
とは言っても、その意味で言えば、何をどうしようが、誰しもが平等に死が訪れます。
諸行無常の鐘の声の前には、盛者必衰の理の風の前には、塵に同じなのです。
究極の所は、この人生そのもの、生存そのものには、全く意味が無いラットレースだと言う見もふたも無い真実が存在します。
【不徳の徳】
毒だしが終わると、今までの長いトンネルから、ようやく光が指す方に向かいます。
ただし、次回本文でやりますが、ここで、油断してはいけません。
当たり前の話ですが、毒出しが終わったということは、単に今までのマイナスが無くなっただけの話です。
善行を積み重ねていたとしても、それは、マイナス業の借金払いで相殺されて、ようやく支払いが終わっただけの話です。
分かりやすく言えば、刑期を終えて出所した、今まで臭い飯を食っていた、前科者なわけです。
犯罪者がシャバにようやく出られただけの話ですので、ここで油断してはいけません。
うかつなことをすれば、国家権力の手先が、大喜びで迎えに来ます。
ただし、無理やり、いい点を見出すとすれば、今、こうして陰徳の道を知ることが出来たことでしょうか?
何の問題も無しに、本能だけで生きてきて成功した人間は、生来の運にかまけて、徳を積み、過ちを改めることを知りません。
ソクラテスは、無知の知を知っていたために、誰よりも賢者とされました。
我々は、無知の知ならぬ、無徳の徳(不徳の徳)を持っています。
自分が無徳であることを知っているのです。そしてその自覚こそが徳なのです。
自分が不徳であることを知っているが故に、徳を積むことが出来ると言えましょう。
無徳の徳こそが、何よりも大きな徳なのです。
自分に徳がないことを知らない人間は、どんなに徳があっても、徳無き者なのです。
そもそも、徳があったら、初めから現世なんぞに生まれてません。
神か仏になってるか、とっくに解脱してこんな苦界に存在していないでしょう。
ここに存在しているという事実だけで、不徳なステータスがわかります。
で、どうでもいいですけど、徳徳と書きすぎて、徳の字がゲシュタルト崩壊を引き起こしてしまいました。
徳って、こんな字でしたっけ?
まあ、どうでもいいや。
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前回で、三つの改過のテクニックは終わって、
今回から、改過の章のまとめっぽい感じの内容です。
顧みると、まずは、願を発してスタートし、過ちを改めることから始める。
さらに、現世からは、良友の指摘を喜んで受け入れ、幽冥からは神仏の指摘を喜んで受け入れ、一心に懺悔する。
ぶっちゃけ、陰徳行が、どのくらいから効果が出始めるのか?
となると、人それぞれとしか・・・。
個人差があまりにもありすぎます。
また、元々の業の個人差に加えて、陰徳や改過がどのくらい出来るかは、これまた人それぞれです。
また、どうも陰徳の種類によって、対応する果報のジャンルが違うような気がします。
例えば、中国の命理学では、血光の災いと言って、何か近々、事故に会うような運勢が検出された場合には、献血に行くと良いとされています。
理由は、血を先に流して、災害を先取りするという理屈です。
そうすると、プラスマイナスで業が相殺されて、事故を防げると。
こういう理論です。
しかし、これによって、防げる事故は、あくまでも肉体的な怪我とかの事故であって、金銭的
そんなわけで、金運を向上させたかったら、普通に陰徳に金銭を使うようにした方が、よいとは思います。
あと、余談ですが、私の体験だと、どうも、献血で提供する血液量が、「人一人分の血液量」を超えると、これが命運を変えるリミットの臨界点ぽい感じですね。
ここまで行くと、単に健康運だけでなく、根本的に自分の運勢が変わるような気がします。
その、「人一人分の血液量」ってどのくらいよ?
という質問が来そうですが、
ググって見ると、こんな感じらしいです。
全血量はおよそ体重の13分の1。約8%が血液である。
60kgの体重の人なら、およそ4.5リットルである。
この4.5リットルのうち、3分の1を出血などで失うと、生命が危険になる。
とあります。
体重は人それぞれですので、
要するに、「人一人分の血液量」で、人間一体分の命を救う功徳になった(可能性がある)ということです。
献血は定期的に出来る、陰徳なので、現代ではお勧めの方法です。
【後の武蔵である】
剣豪として超有名な、宮本武蔵の五輪書には、
千日の稽古を鍛とし、
万日の稽古を練とす。
という、これまた有名な言葉があります。
要するに、三年と三十年です。
石の上にも三年という言葉もありますので、少なくとも、本来、三年くらいが、何かを変える目安なのでしょう。
また、人体の細胞の入れ替わりのサイクルが、一番時間がかかる骨で、三年だそうです。
あとは、これまた有名な「天才の練習一万時間説」も、一日フルタイムの9時間練習として、三年間くらいですね。
つまり、本来は、三年頑張れば、運勢をすっかり変えることが出来るということです。
しかし、ぶっちゃけ言えば、この三年と言うのは、単なる努力だけの時間です。
正直言って、陰徳という裏ワザを知っている我々、陰徳の士からすれば、「無駄な努力」とまでは言いませんが、回り道も、甚だしい徒労です。
どういうことかと言うと、努力はそれはそれで尊い物ですが、正直、苦行と同じ範疇の代物です。
努力して、苦しんで、まあマイナスのカルマを相殺出来るのでしょうが、プラスの陰徳にはなりません。
成功するかどうかは、結局、陰徳のプラスがあるかどうかなので、下手したら努力だけして終わります。
もっと言えば、努力出来るというのも、実は才能と環境です。
脳の分泌物が、性質と教育によって、努力しやすいようになっているだけの話です。
本当に運が無い者は、努力すら出来ないのです。
本人にやる気があっても、環境が悪ければ、花開きません。
要するに、努力が出来るというのは、それだけで、相当な運を持っています。
こうした人間は、せっかくの天からの賦与(ギフト、文字通りの天才)を、毀損し、福分を傷つけています。
※努力が才能だと気づかないということは、それはそれで、自尊心に満ちた幸福な人生なのでしょうが。
そうすると、結局、それの根元的な、ファクター(要因)は何でしょうか?
当然、運です。
運が一番強いのです。
生まれ持った運が、一番強いのですが、まあ、もう生まれてしまったものはどうしようもありません。
無いものねだりしても、時間は撒き戻せないのです。
そこで後天的に、運を改善する必要があります。
そして、運を形作るものが、因果応報の原則です。
その構成物である善行悪行が胆になります。
善行・悪業の因→楽業・苦業の果という式が基本です。
※この法則が単なる人間の仮想空間の産物なのか、外部的に法則であるかは意見が分かれます。
陰徳を積み重ね、改過を実施している者とそうでないものは、スタートが同じであろうと、同じ努力をしていようと、時間が経てば経つほど、その結果に大きく差が開きます。
下手をすれば、前者は、努力すらしていないかも知れません。
まさに無駄な努力なのです。
悲しいことに現実は、そういうものなのです。
その証拠に、人間社会には、驚くほどの不平等があります。
生まれによる、美醜、資本、地位、才能等々、これでもかと言わんばかりに不平等があります。
宝くじ100億円に当たった人は、他人に比べて、100億倍の努力をしたと言うのでしょうか?
現在の日本の政治家は大半が二世三世の世襲議員です。
これに関しては、共産国家の中共というファシズム国家の連中にさえ、ツッコまれています。
世の中は、努力など一ミリたりとも関係ない、不平等の結果に満ち溢れています。
例えば、我々は、日本人です。
※日本人以外の読者の方々がいらっしゃったらすみません。
が、アフリカの難民の子供と比較して、我々が幼少の頃、安全も水もある環境にふさわしい努力をしたと言うのでしょうか?
努力など全く関係ありません。
努力したと言っている人は、単に、努力できるような環境や性質体質に、過去の因で運よくなれたからこそ、努力出来ただけのことです。
具体的に言えば、体質として、内臓が整い、体の歪みが少なく、丹田の位置がしっかりと正中心にあり、血のめぐりが良い者です。
そこが基本で、さらに環境の阻害が無い者ですね。
現代科学は、薬学が発達しているので、脳の内分泌系を簡単に変えることが出来ます。
どんな元気な者でも、あっけなく欝にし、自殺させるような薬さえ出来ています。
人間の努力などは、その程度の物なのです。
たまたま、脳の内分泌系が、努力出来る化学的効果を放出しているというだけのことです。
村上龍の政治経済小説に、「愛と幻想のファシズム」という名作がありますが、そこで弱者と強者の分類として、面白い見方がありますので引用します。
猿は本来ならば増えすぎて滅ぶのだが、ポピュレーション調節に三つのことが作用した。一つは病気だ。猿ほど多くの病気にかかる動物はいない。二つ目は、子殺しだ。新しいリーダーが、以前のリーダーの赤ん坊を殺すのだ。三つ目は、殺し合いだ。人間は猿から進化したのだから、強者の条件はそれだけで充分なのだ。すなわち、子供の頃殺されずに済んだという運、病気に打ち勝つからだ、殺し合いに生き残る力、その三つがないものは弱者なのだ。
要するに、運なのです。
さて、こうした意味で、結局、根本的な要因(ファクター)は、運(陰徳)です。
学業や仕事など日常生活を送りつつ、陰徳を積むことで、命運を改善出来ます。
努力オンリーだったら、毎日数時間以上の超人的な努力を、三年間もしなければ出来ないことが、陰徳を積みながらならば、のん気に普通にやってて、かつ一年もかからいで達成できます。
さらに10年単位ですと、もはや天と地の差があります。
と、まあ、今、こんなこと(努力不要論)を言っていますけど、実は、ぶっちゃけ言うと、最終的には、あまり関係なくなってしまいます。
というのも、たぶん、途中で、陰徳の因果応報効果で、体と脳が、健康になって、元気が出てきてしまうからです。
前述したように、所詮、努力は、体の健康具合の出来次第です。
エネルギーが有り余って、努力なんてしたくないと言っていたのに、いつのまにか、徹底的にハードな努力をするようになってしまいます。
まあ、その場合でも、初心を忘れず、「努力しないやつは怠け者のクズだ!」という傲慢の魔境にならないように、気をつけて頂ければ幸いです。
