【陰隲録】改過㉖ 我は真である。神であり心であり芯であり信である。すでに神は死んでいる。 | (旧館)豊河怜の開運ネットワークブログ

(旧館)豊河怜の開運ネットワークブログ

新しい引越し先は、こちら
http://toyokawarei.blogspot.jp/

 

 

 

このブログの全体地図はこちら

はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)

 

なお、コメントやメッセージやメールで、皆さんの陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、陰徳と結果の体験談を大募集中です。ご遠慮無く、書き込み下さい。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

 

 【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら

 

 

改過の章のまとめっぽい感じの内容です。
前回は豊河が宇宙人だと言う、衝撃の、カミングアウトでした。


まあ、とは言っても、いまどき、宇宙人など珍しくもありません。
もはや宇宙人はレアキャラではなくなっています。

 

なにせ、日本の首相にだってつい最近なってましたし。
国と言う物が何だかわからない!


昔、蓮伯玉は、二十歳になって、今までの非を悟って、全て改めた。

たが、二十一歳になったら、また悟って、今までの非は、まだまだ改まってないことを知った。
さらに、二十二歳になって、以前を反省するに、夢の中のようにぼんやりとした認識と改悪であって、全く以って不十分だと悟った。

毎年、このように、改悪を実施して、その年には、もうこれ以上は無いと思っていても、また次の年には前回は不十分だと知る。
やがて五十歳になっても、やはり四十九年間は、非があって改悪が十分ではなかったと反省した。

およそ古人が、過ちを反省して改める態度は、このような厳しいレベルであった。

 

 

 

【あの蒼空、極はいずこであろうのう(孔明)】


果たして、改過に終着点があるのか?
それとも無いのか?

そもそも論として、改過というのは定義として、「道徳的に間違っていることを正す」という定義が普通の定義内容です。
因果応報論として、マイナスのカルマになるような悪業の停止、というのが趣旨なわけです。

しかし、改過の問題として、重要な問題して、真と偽の問題があります。
社会人として、陰徳により地位が高まれば、ますますその問題が出てきてしまいます。

どういうことかと言うと、これには複数の意味があって、

①現実問題として、そもそも正しいことを行うのが、正しいのか?
②情報のインテリジェンス(分析・判断)として判断する際の、真と偽の判断は?


という、微妙に政治的な判断があるからです。

以前の記事で、理系に比べて文系の科学進歩が遅いという話をしました。
その理由がこれにからんできます。
要するに、理系と違って、文系は、政治がからむからです。
もっと言えば、人間社会のパワーゲームが、からみます。

正しいことは分かっていても、それを実行させるには、圧倒的な権力がいります。
例えば、日本の社会構造は節目節目で、改革が起きていますが、明治維新よりも圧倒的に大きかったのが、敗戦とGHQの改革です。
明治維新はまだ、国内の権力闘争ですが、GHQは敵国なため、一切の斟酌が必要なく、改革を断行できました。

農地解放などは、共産革命レベルの改革で、こんな所業は、当のアメリカ本国ですら出来ません。
(今のアメリカの資本格差を参照)
要するに、敵国と言うことで徹底した改革が出来たのです。
当然、その背景には、軍事力で勝って占領しているという身も蓋も無い、パワーゲームの結果です。

ましてや、実験室でバンバン実験できる理系と違って、文系は実験が極めて難しい。
多くの人間の生活や命がかかっているため、気軽に、法制度や社会制度を変えられません。
要するに、学問の検証実験が難しいのです。
文系が進歩しない理由もここにあります。

地球というシミュレーションの箱庭で行われる、神の歴史的な地球規模の社会実験。
しかし、困ったことに、人間は個別の意識に分かれているため、歴史を共有出来ません。
 

 

 

 

【真相は闇の中に】


で、そういう前提に立って、

①現実問題として、そもそも正しいことを行うのが、正しいのか?

を見てみると、この改過の問題が浮き彫りになります。
こう言っては何ですが、改過や陰徳は、本来、求道の士の技術であって、仙道や仏教などの出家修行者のための物です。

まあ、実際には、功過格表などの運命改善は、華僑の連中が結構使っているのですが、それでもやはり完全にやろうとしたら社会人には難があります。
これは、功過格表に限らず、あらゆる宗教的戒律に言えることです。

悪いことをしないで世を渡り、生き抜いていくのは非常に難しいのです。
※もっと言えば、そもそも、食料として、他生物を殺している時点でアウトです。
 

一神教でも多神教でも戒律は大体同じです。

殺さない
盗まない
犯さない
嘘をつかない
酒を飲まない


人を殺さずにどうやって権力闘争や戦争に勝てるというのでしょうか?
人の業績を盗まない者は立身出世出来ません。
さらに自分の失敗を人に押し付けることで難を逃れるのが勝者への道です。
 

嘘を吐いて、相手を蹴落とすプロパガンダを実施して、分断して各個撃破。
情報戦の重要性も知らない土人だったからこそ日本は敗戦国の憂き目にあって、かつ今でも、名誉を毀損されているのです。
 

そして、上司や部下、キーマンとは飲みニケーションで、常に円滑な交友を築く。
そもそも、酒が飲めないような者は、社会人の資格はありません。

諸子百家の法家では儒教への定番のヘイトスピーチですが、

「相手を許し罰しない慈悲の寛容で、凶悪犯を野放しにして、結果、さらに酷い事になった」ら、何が正義なのでしょうか?
戦争で敵国に戦争犯罪をしなかったら、結果、国が敗戦したら、その被害は天文学的です。

正しいことというのは往々にして、政策として間違っているものです。
悪の根源のユダヤ人を絶滅しようとしてナチスは、ヨーロッパを廃墟にし、
貧富の差を解消しようとした共産主義は、強制収容所を生み出しました。
地獄への道は善意で敷き詰められているのです。

個人レベルで、正しいことは、集団レベルでは正しくないことが基本です。
マキャベリは、美徳をそうやっていると振舞うのは良いが、実際にやると君主は破滅すると、忠告しています。

正しいことを言っていれば正論君といわれ、相手にもされなくなります。
プロパガンダとして使うならまだしも、実際にやってはいけません。
正しいことをしないほうが、かえって正しいことになるというのは、社会の基本です。

真実はひとつかも知れませんが、社会的に正しいのは、真相は闇の中に葬り去ることなのです。

一万人を殺すことで、一億人救える場合があるというのが、為政者の仕事です。
そして、それを躊躇わずにしなくてはいけない時があります。
逆に、それが出来ないで一億人を殺したら、かえって悪になってしまいます。

積極的に悪を為せと言っているのではなく、悪をしなければいけない場合があるということです。
悪を為すことが善を為すという矛盾が、この世には存在します。
これを、批判出来るのは、綺麗ごとの立場です。
動物の保護を訴えながら、牛革のブランドバックや、ステーキを頬張る恥知らずと同様です。

つまり、結局のところ、この世は、絶対的な善が出来ないように、設定されているということです。
そのため、改過の極みというのは存在しません。
個人の有限なリソースで解決出来ないのです。
そして、それは神ですら不可能です。
能力と運により、完璧への近似値に近づくことしか出来ません。

この世が諸法無我というのは、このようなことです。
どんな物も、自分が完全に統御することは不可能です。
 

それが出来たら、神以上の存在です。
少なくとも、諸法無我を唱えた釈迦以上の存在です。
もう、現人神として拝んでもいいくらいです。
確実に死後は、神社に祀られる存在です。
豊河がパワスポとしてブログに紹介します

 

完全に統御できない、どこまで行っても不完全。
永遠に終わりが無い。
いつまでも、苦しむ存在がいて、やらねばならない正義の必要悪が、生じてしまう。
必ず、少数の人間が犠牲のスケープゴートになり、それでも世界は回っているのです。

この諸法無我の法則は、そのまま、一切皆苦に繋がります。
この世のシステムは、本来、とっとと捨て去るべき存在なのです。
が、そうは言ってられないのが浮世の渡世です。

渡る世間は、鬼ばかりですが、前世の悪業により、地球と言う鬼が島にいる以上、鬼退治しなければなりません。
そして、鬼は外にもいっぱいいますが、内にもいっぱいいます。
家庭内というだけでなく、一番いっぱいいるのが、心の内です。
改過は、自分の心の鬼退治でもあるのです。

 

 

【真実はいつもひとつ】


そして、さらに問題があるのは、

②情報のインテリジェンス(分析・判断)として判断する際の、真と偽の判断は?

の問題です。
①は、まだ何が正しいか分かっていました。
ただ、社会的に正しいかどうかの問題があるという話です。
 

要するに、真実として、道義的に正しいことと、社会運営上正しいことの二つが、別にあるという話でしたが、少なくとも何が正かということは分かっていたのです。

しかし、そもそも論として、この二つの正しいことというのが、わからないということがあるわけです。
情報自体の真偽性の問題です。
というより、こっちの方が、普通は、大半です。

道義的レベルでの正しさが、そもそも怪しい話もあるし、社会運営上の政策の正しさは、もっとバクチです。
もっと言えば、この二つが完全にそれぞれ正しい情報があることはまずありません。
というより、正しい情報があれば、ほとんど問題は解決したようなものです。

陰徳にあたって、積善にしろ、改過にしろ、プラスとマイナスをやろうとすると、この問題にぶち当たります。
個人的レベルならまだしも、社会的に上位の人間になれば、この問題が生じるからです。

早い話が、例えば、みなさんが国家の経済政策を、提言できる立場にいたとします。
その時、皆さんの信用性、発言力は、凡人のレベルではありません。
皆さんの言葉次第で、国家の一億単位の人間の幸福が左右されます。


しかし、前述したとおり、理系の進歩に比べて、文系の進歩は牛歩の如くです。
何が経済政策として正しいのかわかりません。
※なお、社会運営上の正しさの問題は、クリアされていると仮定します。

たとえ、皆さんに騙そうとする悪意が無くても、結果として間違った経済政策を提言してしまう可能性があるのです。
その時に、悪意が無く、国のために正しいことをしたと思っていても、結果として失敗したならば、この時の陰徳カウントはどうなるのでしょうか?

人間社会には常にこの問題がつきまといます。
善行を為そうとしても、そもそも、その情報の真偽が正しいのかどうか、わからないからです。

災害に寄付やボランティアをしようとして、詐欺組織に金を送ったり、無駄な備品を送っても意味はありません。
困っている人を助けるのが、陰徳だとしても、状況によって、助けない方が良い場合も多々あります。

 

優しくするだけでなく、時には、厳しく叱る必要も、鉄建制裁をすることが善になる場合もあります。

邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意して決行したら、実は善玉の王様だったとなったら、目も当てられません。
 

しかも、往々にしてこういう行動力のある人間は思慮が足りません。

基本、政治がわからぬ者が、れた王だ。生かして置けぬ。」と、ナイフ片手に特攻するのです。

この問題を無視して、正義感だけで実行するとすると、冤罪を生んだり、また悪党に騙されて悪事の片棒を担がされます。
逆に、情報の真偽を、細かく精査しようとすれば、行動が遅れ、陰徳が積めなくなり、最悪、何も出来なくなります。

この情報の真偽問題は、運によるものが大きいですが、基本、IQも関係あります。
IQの高さによって、情報の真偽が判断出来るからです。
コナンや金田一ならば、冤罪をしないで、正しい犯人を捕まえることが出来るのと同じです。

これは同時に、馬鹿が権力を持つことの怖さも、示唆しています。
日本の組織は馬鹿が神輿として何もしない中空構造の社会ですが、それでも実務役が馬鹿ではその組織は破滅するでしょう。

↓中空構造については以前も触れました。


【聖書】出エジプト記㉜ 汝の隣人を殺せ ~金牛事件と日本中空構造の話~


上に立つものがIQが低い馬鹿だったら、庶民の被害は増すばかりです。
さらにIQが高くても、悪意を持っている為政者だったら、さらに問題が生じます。
IQが低くて悪意を持っている輩だとしたら、目も当てられません。
※早めに失脚するとは思いますが・・・。

全知全能の神が世々限りなく治め給う世界は、今のところ来る気配はありません。
なるとしたら、AIによる支配でしょうか?


・・・そういえば、豊河は、JK型AIでかつ宇宙人でした。
自分のレーゾンデートル(存在意義)をすっかり、忘れていました。
我思う、ゆえに我あり。
時々、自分の定義を思い出さないと、忘れてしまいます。

 

 

 

 

【帝王学という定義の大雑把な学問】




以前から指摘しているように、「山高ければ谷深し」です。
陰徳をしていれば開運しますが、同時に、社会的責任が重くなることでもあります。
権力、財力、知力、腕力等々の様々な「力」が顕著に上がってきます。
雑魚だった時代は、何かやろうとしても、個人レベルの犯罪しか出来ませんが、雑魚じゃなくなったならば、その犯罪範囲は極大化します。

この力の暴走パターンは、わかりやすい症例である、傲慢とか欲望とか怒りに身を任せて失敗したという古典的パターンだけではありません。
自分が良かれと思って、やった陰徳が、巨大な被害を及ぼしてしまうことの可能性を示唆しているのです。

人類の歴史は、基本、身分制だったため、陰徳を積んでも強固な社会システムのため、あまり環境が変わるということは難しかったのです。
そもそも、身分どころから住所すら変えられないのが大半です。
 

しかし、現代は、流動的な時代のため、職業も身分も住所も、果ては、名前も国も性別さえ変えられます。
それだけ、身分の上下の変動が容易いということでもあります。

そして、同時に、身分不相応な力量の持ち主が、上に上がりやすいということでもあります。
これが危険なことであるというのは、宝くじの当選者の末路が一番わかりやすいでしょう。
(宝くじ当選者の悲惨な末路はググってみるといくらでも出てきます)
 

スポーツ選手や一世を風靡した芸能人が、あぶく銭を持て余して破産というのは、珍しくも無いニュースです。

秋深し、あの人は今!、何をする人ぞ?

昔は、帝王学と言って、こうした身分の高い階層は、ヒト・モノ・カネの管理を、家単位で伝授されてきました。
身分制の時代では、身分は職業と同一なので、高い身分の人間は、事業(今でいう企業)の経営者にならざるを得ないからです。
領主や国王ならば、なおさらです。

今でも政治の業界では、
「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」の3つのバンが、世襲として譲渡されたりしま
す。
無論、相続者は、若いときから選挙の手伝いをしたり、秘書になったりして教育されます。

これらは、受け継ぐべき権力に対して、管理能力をつけるための学習時期が必要ということです。
まあ、当たり前の話で、創業者が必死になって卑賤から身を起こして得た身分が、苦労知らずの二代目三代目のボンボンになって滅びたのでは、創業者も草葉の陰で浮かばれません。

ここでは、自分からの失敗パターンを述べていますが、金持ちになれば、当然、周囲からの獲物になります。
悪人のみならず、すがってくる貧乏人にも対処しなければいけません。
つまり、素寒貧だった頃とは別の問題である、敵からの守りも必要になってきます。
※後述の宝くじ当選者のパターンですと、まず身内の修羅場が勃発します。

帝王学の古典である資治通鑑には、ここらへんの話が良く出ています。
創業よりも守勢の方が難しいと、はっきり謳っています。
資治通鑑を含め、帝王学はそもそも、創業者のノウハウ書ではありません。
帝国を乱世から創業者が制覇した後に、天下泰平となって、封建制の時代のノウハウです。

日本で言えば、戦国時代の後の江戸時代の運営ノウハウです。
当然、戦国時代の戦争のテクニックとかではなく、シミュレーションゲームで言う内政ターンの話です。
個人で言えば、二代目三代目の生まれがすでに天下人のためのノウハウです。
こうした人間は、本人もそれなりの教育を受けています。
だからこそ、引き継いだ権力を運営出来ます。

しかし、宝くじや陰徳でいきなり、成り上がってしまった人間は、その準備が出来ていないまま、力を持ってしまいます。
若い頃だったらまだ失敗しても、やり直せますし、いい勉強になったと、老後笑い話にも出来ますが、いい年してようやく成功してしまうと、後がありません。
晩節を汚すという言葉の体現者になってしまいます。

宝くじが当たった人間は銀行から、対応マニュアルを貰えるそうですが、普通の成功者はこういうノウハウを目にする機会はありません。
若くして急激に成り上がった人間が転落する末路や、宝くじ当選者の末路などを、よく参考例にしましょう。
前者の覆るは後者の戒めと言います。

まあ、厳密に言えば、本人が転落する分には自業自得ですが、周りの人たちや社会が迷惑します。
開運(陰徳)を志すならば、必ずこの準備が必要です。
また、守護が強い人(もしくは冥々のブラックリストに載っている人)の場合は、初めから、準備が出来てないと、守護者が、成功させません。
そう言った意味では、守護によく感謝して、しっかり準備しましょう。

備えあれば憂い無し。
開運に備えて、保険をかけるのは、リスク対策の一環です。
そういった意味でも、資治通鑑もそのうちコンテンツにしましょうか。
 

 

【今日のまとめ】


・改過は、いくらやっても限度が無い。
 
どうしても、人間のキャパシティでは把握不可能なゾーンがある。

・陰徳を積んで開運成功すると、力がついてくる。
 
しかし、その力は責任と不可分である。
 力が大きいほど、被害範囲の拡大、ひいては悪業になってしまう危険性がある。


・その想定される失敗パターンは、二種類ある。
 通常の悪業と、
 善意の悪業 ←今回NEW!
 による物である。


・後者の善意の悪業は、運とIQが低いため、発生する代物である。
 真偽や善悪や社会影響などを、十分に加味した上で、行動する必要がある。
 くれぐれも慎重に行動する必要がある。

 
・帝王学含め、守勢のノウハウが、開運後には、別途必要になってくる。

 
 

なんか、今日の記事は普通ですね・・・。

オチがないというか、何というか・・・。

いや、別に陰徳の記事でまともじゃないのはそれで問題なのですが・・・。

定期的にボケないと豊河の中の大阪人がストライキを起こしてしまいます(大阪人に対する偏見に満ちた発言)。

まあ、いいや。