世界遺産「 二条城 」は

江戸幕府の初代将軍

徳川家康公によって

築城されてのち

15代将軍・慶喜公によって

大政奉還されるまで

徳川家の栄枯盛衰と

日本の変わりゆく歴史を

見つめてきた名城である。

 

 

 

▶︎  世界遺産「 元離宮 二条城 」

( 京都市中京区二条通り堀川西入二条町541 )

2019年12月14日撮影

 

後水尾天皇の行幸に合わせ

3代将軍の徳川家光公が改修。

現在の「 二条城 」の規模となった

 

 

 

 

 

世界遺産登録から25年。

コアラは16年ぶりの入城。

 

 

 

▶︎ 「 世界遺産登録25周年を告げる金屏風 」

 

平成6年(1994年)ユネスコ世界遺産に登録。

現在では全域が世界文化遺産および史跡となった

 

 

 

 

いざ車寄(入口)から

二の丸御殿の中へ。

 

 

 

▶︎ 「 二条城 」見取り図(部分)

出 典;世界遺産・元離宮二条城公式ホームページ

 

左手側「一の間 」「二の間」が

大政奉還の行われた大広間である

 

 

 

 

徳川幕府約260年間の中で

幾たびも老中職に就いていた

先祖の主君・松平家と

 

 

 

▶︎ 松平乗全公( 1794〜1870 )

盛厳寺蔵

 

老中・松平乗寛公の長男として誕生。

弟君は長岡藩主となった牧野忠恭公。

大老・井伊直弼時代に老中に再任。

私の五世祖父は近習(側近)を務めた

 

 

 

本多家(忠勝系本多宗家)

 

 

 

▶︎ 本多忠民公(1817〜1883)

出 典;『 岡崎市史 第弐卷 』

 

徳川四天王の1人・本多忠勝公から数えること

15代目の三河国本多岡崎藩の藩主。

将軍・家茂御代に2年間老中を務めた

 

 

 

彼らが控えていた

「 老中の間 」に

遠き時代、主君の側近だった

父上たちは出入りできたのだろうか。

 

 

 

▶︎ 文久元年の『 武鑑 』

トップページ

 

江戸時代に出版された大名や幕府役人の

氏名や家紋などを記した年鑑形式の紳士録

 

▶︎ 文久元年の『 武鑑 』

本多岡崎藩部分

 

忠民公のお名前、老中という役職ほか

御用人部分に私の高祖父の父や

親族たちの氏名が記載されている

 

 

 

 

残念ながら城内は撮影禁止。

 

遠い昔の息吹を感じ

“ 鴬張り ” の床を踏みしめながら

二条城でもっとも格式の高い

2つの大広間へ。

 

 

 

 

▶︎ 大広間「 一の間 」「 二の間 」

出 典;世界遺産・元離宮二条城公式ホームページ

 

将軍と大名や公卿衆との公式の対面所。

松や孔雀の荘厳な障壁画は狩野探幽筆

 

 

 

約150年前のその日 

この場所にずらりと

大名たちが並んでいたと思うと

なんとも感慨深い気持ちになる。

 

 

 

 

 

▶︎ 「 大政奉還図 」邨田丹陵筆

出 典;聖徳記念絵画館公式ホームページ

 

実際には「 黒書院 」で行われた大政奉還。

その翌日在京10万石以上の諸藩重臣を召集し

老中首座の板倉勝静がその意思を伝えたとされるが

私は二条城・大広間のこのイメージを大切にしたい

 

 

 

 

神仙蓬莱の世界を表した

「 二の丸庭園 」

 

 

 

▶︎ 特別名勝「 二の丸庭園 」

 

池を中心とした書院造庭園。

慶長8年(1603年)築城に合わせ造営。

数多くの名園を手掛けた小堀遠州により

一部改修が加えられ今日に至っている

 

 

 

天守閣跡からの眺望

 

 

▶︎ 「 天守閣跡 」

 

かつてこの場所にあった五層の天守。

寛永3年(1750年)落雷により焼失。

再建されることはなく現在に至る

 

▶︎ 二条城天守台(中央石垣)

出 典;産経新聞デジタル

 

高さ21㍍の二条城天守台には

伏見城から移築された五層の天守が

建てられていたという

 

 

 

 

歴史を感じる数々の景色の中で

心惹かれたのは

「 旧二条城の石垣 」

 

 

 

▶︎ 移築された「 旧二条城の石垣 」

 

永禄12年に織田信長が足利義昭を

庇護するため築いた城の石垣。

二条城の西側でいまもともに時を刻む

 

 

 

織田信長の庇護の下

将軍職に就いた、足利義昭。

 

2人の間にはやがて齟齬が生じ

元亀4年(1573年)には

織田信長が足利義昭を追放。

 

彼が暮らしていた「 旧二条城 」は

解体され、その一部は

安土城の建設に使用されたという。

 

もう1つなぜか心惹かれて

写真におさめた「 釣鐘 」

 

 

 

▶︎  「 二条城に鎮座する2つの釣鐘 」

 

かつて京都所司代の屋敷内に設置され

火事等の緊急事態を周辺に知らせていたが

慶應3年同職の廃止とともに二条城に移された

 

 

 

 

朝廷や大名を取り締まっていた

江戸幕府の出先機関だった

「 京都所司代 」

 

調べてみると前述の本多忠民公が

安政3年から安政4年までを

直系先祖の主君・松平乗寛公が

老中に就任する前の4年間

この職を務めていたことがわかった。

 

もしかしたらこの釣鐘たちは

遠き日に出逢った

旧西尾・岡崎藩の仲間たちを覚えていて

私になにかを伝えようとしたのかもしれない。

 

 

 

▶︎ 「 大政奉還百五十周年記念植樹 」

 

 

 

 

「 二条城 」で日本の歴史の

移り変わりを見つめた後は

天下人たちが愛した天ぷらを

好きなだけいただける

「 天ぷらオーダーバイキング 」へ。

 

 

 

 

▶︎ 町家ダイニング「 TEM-PU 」

( 京都市中京区東堀川通御池上ル押堀町27-1 )

 

大政奉還150年の記念年である

2017年にオープンしたお店

 

 

 

 

京都の町家を改装して造られた

落ち着いた雰囲気の店内。

 

様々な魅力溢れるメニューあれど

もちろん2人揃って

 

「 天ぷらオーダーバイキング 」

 

 

 

▶︎ ランチタイム限定の

「 天ぷらオーダーバイキング 」

 

 

 

ごはんにお味噌汁そして

おばんざいも食べ放題。

 

 

 

▶︎ 「 TEM~PUさんランチタイムのおばんざい 」

 

おくらのお浸しや玉子焼きなど

プラスαのおもてなしが嬉しい

 

 

 

スタンダードな天ぷらのほか

明太子や巻き寿司、梅干しなど

かなり個性的なものも!!

 

あれこれ注文表に書き込み

 

 

 

▶︎ 胡麻豆富にカレーライス??

全て「 天ぷら」のメニュー

 

 

 

60分1本勝負に備え

食卓を万全に整える。

 

 

 

▶︎ 天ぷら用のお塩も複数あり

「 カレー塩 」「抹茶塩 」をチョイス

 

 

 

 

まずは第一陣の

チーム海老天が到着。

 

 

 

▶︎ プリプリした海老に大満足

「 これから先が愉しみになった 」

照れ照れアップアップ

 

 

 

続いて第二陣

 

 

▶︎ 豚肉や明太子にししとうのほか

京都ならではの生麩なども

 

 

 

ごはんやお味噌汁も

しっかりお代わりしながら

第三陣を待つ。

 

 

 

▶︎ 大葉に茄子に海老にししとう

明太子の天ぷらがとにかく美味しい

 

 

 

 

静かな雰囲気の中でいただく

揚げたて天ぷらは

本当に美味しくて愉しくて

京都旅の素敵な思い出になった。

 

照れ照れラブラブラブラブ

「 ご馳走さまでした 」

 

 

 

▶︎ 「 TEM-PUさん」店内

中庭の見える席で心ゆくまで味わった

 

 

 

大政奉還が行われた

二条城を散策しながら

家康公が愛した天ぷらを

好きなだけ味わった

京都旅2日目。

 

私事ではあるが母の実家は

明治前期から東京で

天ぷら屋を営んでいる。

 

自宅での夕食にお店と同じ味の

天丼を好きなだけ味わえたことが

いまとなってはとても懐かしい。

 

食の思い出もまた

人にとって大切な財産。

そしてそれはやがて

家族の歴史の1ページになっていく。

 

大政奉還から150年を迎えた

伝統溢れる二条城。

 

この場所を舞台に

新たな歴史を刻み始めた

若き天ぷらのお店。

 

愉しい思い出をくださった

「 TEM-PU 」さんに

東京からそっとエールを送りたい。

 

 

 

▶︎ 『 徳川慶喜家の食卓 』

( 徳川慶朝著/文春文庫 )

 

「 豚一様 」とあだ名されるほど

豚肉が好物だったという慶喜公。

直系の曾孫が語る食のエピソード

 

▶︎ 今度来る時にはゆっくりと庭園散策をしたい

 

時間が限られていたこともあり

後半は庭園をプリケツ状態で闊歩

 

▶︎  世界遺産 「 元離宮・二条城 」

( 京都市中京区二条通り堀川西入二条町541 )

 

二条城全域は昭和14年(1939年)11月30日に

「 旧二条離宮(二条城)」の名で史跡に指定された