箱根の甘酒茶屋さんを出て

一路沼津を目指したコアラ隊。

 

肉肉星人だった私にアジなど

お魚の美味しさを教えてくれた

お気に入りの静岡・沼津港で

2019年最後のランチタイム。

 

 

本日のお店は‥‥‥

 

 

港に隣接のマーケットモール

「 沼津みなと新鮮館 」内の

あじやさんに決定。

 

2人仲良く「 お刺身定食 」

 

 

 

▶︎ あじやさん「 お刺身定食 」

( 静岡県沼津市千本港128-1 沼津みなと新鮮館 )

 

アジのお刺身ほか甘エビ、シラスなど

どれも新鮮で文句なしの美味しさ!!

 

 

 

 

そして忘れてはならない

大好きな「 アジフライ 」

 

 

 

▶︎ あじやさん「 アジフライ 」

 

周りの衣はサクサクで中はふんわり柔らかい。

これ程肉厚なアジフライは都内では味わえない

 

 

 

この「 アジフライ 」には

キャベツやトマトのほかに

ポテトサラダもしっかりついていて

それがいつも楽しみだったりする。

 

しばらく来ないうちに

さりげなく骨せんべい まで

トッピングされていたりして

なんだか嬉しい演出。

 

「 沼津みなと新鮮館 」の中で

もう1つお気に入りなのが

お茶を販売している

マルニ茶業さん。

 

その場ですぐいただける

お抹茶ソフトクリームや

テイクアウトしていただく

お茶がとても人気のお店。

 

渋い緑茶が大好きで

小学生の頃から

ほぼ毎朝欠かしたことがなく

お茶の飲み過ぎで怒られていた

おじいさんの様な子どもだった私。

 

今日も忘れず大好きな

「 愛鷹茶 」に手を伸ばす。

 

 

 

 

▶︎ マルニ茶業さん「 愛鷹茶 」

 

あまりのお手頃価格に始めは恐る恐る購入。

コクのある美味しいお茶でまとめ買い必至

 

 

 

 

 

慶應4年(1868年)

8 月

 

 

 

 

15代将軍・徳川慶喜公に代わり

若干5歳の田安亀之助が

徳川家達(いえさと)と改名し

徳川宗家を継承。

 

朝廷への政権返上を諸外国に発表し

わずか70万石の一大名となって

駿府・遠江(現;静岡県)への

移住を開始した。

 

 

 

 

▶︎ 徳川家達公(1863〜1940)

出 典;国立国会図書館

 

田安徳川家第7代当主・静岡藩初代藩主。

家達公の近習をつとめた川村清雄は

勝海舟の手厚い庇護を受けた画家。

勝への思いをその絵に観ることができる

 

 

 

 

 

その際ともに江戸から移住したのは

徳川家に仕えた幕臣たちとその家族。

 

2万人以上ともいわれる一団は

生活の見込みがないまま

家族共々駿府・遠江へと移り住み

困窮を極めることとなった。

 

移住者の1人、旧幕臣の江原素六は

江戸開城後も「 撒兵隊頭 」として

旧幕府軍の大鳥圭介らと

市川・船橋の戦いに参加するも

九死に一生を得て

榎本武揚らの箱館行きの誘いを断り

静岡への移住を決意した人物である。

 

 

 

 

▶︎ 江原素六(1842〜1922)

出 典;Wikipedia 

 

昌平坂学問所・講武所に学ぶ。

維新後は教育者、政治家として活躍。

校長を務めた「 東洋英和学校 」を分離独立させ

東京麻布に「 麻布中学高等学校 」を創立した

 

 

 

 

彼はその後この沼津のまちで

旧幕臣たちのための教育機関である

「 沼津兵学校 」ほか

数多くの学校を創設。

 

 

 

▶︎ 「 沼津兵学校趾 」

( 静岡県沼津市大手町3-5-16 )

2015年8月9日撮影

 

最新式の学問と技術を備えた士官養成機関。

初代頭取には当時の有識者・西周が就任した

 

 

 

 

 

それと同時にともに移住した

数多くの士族たちが

自分たちの力でこれからの

人生を歩んでいけるよう

「 牧畜 」「 製茶業 」を

今後の生業にすべく

積極的に指導していった。

 

その舞台となったのが

富士山の裾野に広がる

愛鷹(あしたか)山。

 

命の綱ともいえるこの大切な場所が

国有地として没収された際には

人々の先頭に立って

決して諦めることなく

取り戻すための運動をし続けた。

 

人々の強い団結で勝ち得た

豊かな土壌は長い長い時を経て

今日私が口にしている

「 愛鷹茶 」へと繋がっていく。

 

 

 

▶︎ 「 沼津市明治史料館 」

(静岡県沼津市西熊堂372-1)

2015年8月9日撮影

 

沼津の偉人となった江原素六の記念館。

静岡徳川藩の藩校「 沼津兵学校 」の資料ほか

江原素六関連資料8,000点を所蔵する

 

 

 

 

私の古い家族の大切な人は

江原素六同様、旧幕府軍として

戊辰戦争に参加した人物。

 

彼の所属部隊となった

「 遊撃隊 」の出発地点も

またここ沼津の地だった。

 

 

 

▶︎ 「 兜率林 霊山寺 」

(静岡県沼津市本郷町25-37)

2015年8月9日撮影

 

旧幕府軍・遊撃隊が滞陣した霊山寺。

この場所にやってきた彼は伊庭八郎らと面会。

第3軍岡崎隊として部隊に参加、三島へと向かった

 

 

 

 

その後、會津浜街道を転戦北上。

箱館戦争までを戦い抜き

維新後この沼津のまちに移り住んだ。

 

「 沼津兵学校 」の二等教授だった

乙骨太郎乙から英語を学んだ彼は

福澤諭吉率いる「 慶應義塾 」に入学。

 

その後もその巧みな英語力と

三河武士ならではの不屈の精神で

新しい人生を切り拓いていった。

 

 

 

 

▶︎ 乙骨太郎乙(1842〜1922)

資料提供;「 沼津市明治史料館 」

 

幕末明治期の洋学者・翻訳者。

妻のつぎは杉田玄白の曾孫。

沼津兵学校教授を経て新政府に出仕。

大蔵省翻訳局に勤務した

 

 

 

 

彼にとって新しい人生の

原点となった沼津の地は

私にとってもまたゆかりあるまち。

 

江原素六が明治の昔に

幹事・校長を務め運営した

「 東洋英和学校 」は

私の母校・東洋英和女学院なのだ。

 

 

 

 

▶︎ 明治18年設立当時の「 東洋英和学校 」

(のちの私立麻布中学高等学校)

出 典;東京都港区公式サイト

 

明治16年「 東洋英和学校 」開設計画を知った

ミス・カートメルが設立者の協力を得て

創設したのが「 東洋英和女学校 」だった

 

 

 

 

沼津のまちを訪れるたび

遠い時空のへだたりを超え

とても近くに感じる強い絆。


彼の存在なくしては

明治・大正という時代をよりよく

生き抜けなかったかもしれない

私の古い家族たちにとって

その存在は決して忘れて欲しくない

とても大切なものなのだと思う。

 

 

 

 

▶︎「 沼津兵学校 」の門柱

(東京都目黒区・森田達氏寄贈)

 

「 沼津兵学校 」の校門として使用されていた門柱。

兵学校兵部省に移管されたのち民間に払い下げられた。

乙骨太郎乙に英語を学んでいた彼も目にしていただろう

 

 

 

 

遠い遠い昔このまちに暮らし

戊辰戦争で命を失った

仲間たちを1人心で弔いながら

新しい人生の指針を探し続けた彼。

 

“ いま ” という時を生きる私の人生とは

決して交わることはなくても

感謝と尊敬の気持ちを忘れない限り

いつでもこの沼津の地が時を超え

2人の心をしっかりと繋いでくれる

そんな気がする。

 

 

 

 

▶︎ 「 沼津市明治史料館」前から

まちを見守る江原素六先生

 

▶︎ 『 箱館戦争と榎本武揚 』

(樋口雄彦著/吉川弘文館)

 

著書の樋口雄彦先生は「 沼津市明治史料館 」元主任学芸員。

若き日の私の大切な彼の写真もこの中に掲載されている。

旧幕府軍たちのその後の人生に光をあててくれた先生に深謝

 

▶︎ 「 沼津市明治史料館 」

(静岡県沼津市西熊堂372-1)

詳細はコチラ