高橋典幸、保谷徹、山田邦明、一ノ瀬俊也共著『日本軍事史 』吉川弘文館:本書は日本列島でどう戦争が行われ、どう現在に繋がっているのかを辿った軍事の通史である。日本の軍事が転換期を迎えているなかで、歴史的文脈の中で日本の軍事を見通すことは無意味ではない。

 

テーマ13 戦争が日本に国家と文明をもたらした

【課題提起】日本にはいま、銃剣類はどのくらい存在するのでしょうか。「許可を受けた銃砲刀剣類の数」(警察庁2021年)によると、銃砲は189,970件、そのほとんどは猟銃、また刀剣類は2,100件で、風俗慣習用となっています。2023年に日本で報告された銃器発砲事件は7件、この10年の推移をみても発砲による死亡者は年間、数名を数えるに過ぎません。日本では1958年に施行された「銃砲刀剣類所持等取締法」により、一般市民の銃所持が厳しく規制され、庶民にとって銃などの武器は遠い存在です。ただ陸上自衛隊が保有する小銃(89式や20式)は約30万丁です。暴力装置は完璧に国家の独占状態にあります。

 日本で戦争という社会現象がはじまったのは弥生時代以降、2000年以上にわたって戦争が周期的にくり返されてきました。幸運なことにわたしたちの国は戦後80年近く戦争をおこなわず、個人としても武器とはほとんど無縁ですが、長い日本の歴史をみれば、それは例外と言って差し支えありません。わたしたちは戦争や武器にどう向き合ってきたのでしょうか。欧米から再び目を日本に向けてみましょう。

 日本で戦争がはじまった弥生時代は、戦国時代とならんでもっともはげしい戦乱の時代でした。それを象徴するのが集落の周りを壕や土塁で囲む環濠集落の出現です。そのようすは佐賀県の吉野ケ里遺跡(写真上)等で復元されていますが、愛知県の朝日遺跡(写真下)の発掘調査からわかってきたのは、城塞のようなリアルな防御施設の具体的な姿でした。

 弥生時代中期、紀元前3世紀頃の居住域には築かれた環濠と土塁、その外側には、枝がついたままの木をからめた逆茂木、斜めに打ち込まれた乱杭など、何重ものバリケードがつくられていました。このころ近隣の集落どうしの絶え間ない争いが続いていたようです。そして勝者が敗者を従えながら、地域をこえた争いによって、「ムラ」から「クニ」が形成されていきました。

 ところが紀元後3世紀になると、日本各地に存在した環濠集落は姿を消していきます。代って登場するのが古墳です。古墳は地域を支配する豪族の墳墓です。その地域が有力な豪族のもとに「クニ」としてまとまっていたことを物語っています。

 この古代国家形成のようすは中国の歴史書にも記録されています。それによれば、紀元前後の倭人の社会は「楽浪海中に倭人あり分かれて百余国あり」(『漢書』地理誌)とありますが、2世紀末になると「使訳通ずる所は三十国」が相争う状態であった(『魏志』倭人伝)と伝えています。100余りが分立した「クニ」が30に統合されていたというのです。

 そして3世紀半ば、忽然と現れたのが前方後円墳という独特の形状の古墳でした。その最大のものは墳丘長486mもあるような巨大な墳墓であり、祀られたのはヤマト王権の大王でした。その勢力は大和を中心に九州から関東に及び、各地の有力な豪族を従えるように連合国家を形成しました。豪族たちはヤマト王権に服属する証のように競って自分の支配する地域に前方後円墳を造成していきました。古墳の石室には大陸や朝鮮半島からもたらされた数々の文明の品々が副葬されました。

 弥生時代後期から古墳時代後期、日本に古代国家を形成しようという動きは先進の文明をもたらしましたが、その推進力は武力でした。他の有力豪族に打ち勝つには優れた武器が必要でした。今でいえば最新兵器です。ロボット兵器やドローン兵器でしょうか。では当時の最新の武器とは何だったのでしょうか。またそれらの武器はどのようにつくり出され、どのように手に入れたのでしょうか。

【課題探求】国立歴史民俗博物館は、戦争や争いが存在した証拠として次の6点を挙げています。(1)武器、(2)防御施設、(3)殺傷された人の遺骸、(4)武器が備えられた墓、(5)祭器化した武器、(6)戦争や戦いの様子を表現した芸術作品・モニュメント、です。この「6つの証拠」をたよりに戦争に使われた、当時の最新兵器について調べてみましょう。

 写真2枚は埴輪挂甲武人(けいこうぶじん)です。東京国立博物館所蔵の甲冑をまとい武装した6世紀代の人物形象埴輪です。「6つの証拠」の(6)に該当します。群馬県太田市飯塚町の長良神社境内で出土しました。像高は130.5cm、最大幅39.5cm、脚部に白色・赤色の顔料がみられ、美しく彩色されていたようです。考古学的資料であるとともに古代の優れた美術工芸品の国宝です。

 次は挂甲武人が身にまとった武器・武具の名称と概要を表にまとめたものです。その中から、①衝角付冑②小札甲③大刀④弓矢について、「6つの証拠」にそって博物館や資料館等のHPを開き、表の空欄をうめていこう。また素材や実際の姿その他わかったことを発表しあって意見交流をしよう。

 

【コメント】①~④について、ぼくが調べたのは次の表の通りです。

①衝角付冑と②小札甲

 2つの防御用武具は大阪府藤井寺市の前方後円墳・市ノ山古墳から出土しました。写真は復元したものです。竪穴式石室の家形石棺が納められ、その周囲に衝角付冑、小札甲など埴輪挂甲武人と同じ武具一式、その他馬具や須恵器などが副葬されていました。衝角付冑は縦長の鉄板を鋲留めしたもので、小札甲は小札(小さな長方形の鉄板)の穴に紐を通してつなぎ合わせてありました。

 出土した市ノ山古墳は5世紀後半に築造された前方後円墳です。古市古墳群を構成する古墳の1つであり、宮内庁は第19代允恭天皇の陵に治定しています。実際の被葬者は明らかではありませんが、関東の有力豪族とヤマトの大王が同じ武具をまとっていたことは中央と地方の権力との深い関係を裏づけるものです。

 また長野県諏訪市の小丸山古墳(6世紀末に築造)からは甲1具分と推定されるほどの鉄製の小札が出土しています。注目したいのは奈良県明日香村の飛鳥寺跡からも同じタイプの小札が出土していることです。飛鳥寺は蘇我氏の私寺であり、これも中央と地方の関係を考えるうえで興味深い事実です。

③大刀と④矢尻

 2つの攻撃用武器もともに鉄製です。鉄製の大刀や矢尻は各地の古墳から多数出土していますが、この大刀は銘金象嵌花形飾環頭大刀といい、日本で出土した最古の鉄剣です。長さ110cm、刀身の棟の部分に「中平」(後漢の年号184~190年)紀年銘が金象嵌されています。つまり制作されたのは中国であり、制作年代は2世紀後半となります。中国から下賜されたものでしょうか。

矢尻は長さ3~12.2㎝ の鉄鏃です。出土した東大寺山古墳(推定140mの前方後円墳)の築造年代から制作されたのは4世紀と推測できます。

 

 ここで注目してほしいのは、①~④の武器がすべて鉄製であることです。弥生時代には木製や革製の甲が使われましたが、古墳時代には鉄製の小札が素材となり、大刀は石剣→銅剣→鉄剣、矢尻は石鏃→銅鏃→鉄鏃と進歩しています。鉄剣や鉄鏃は紀元前1世紀ころから中国で実用化され、日本でも紀元後1世紀になって登場します。ただ日本にはまだ製鉄の技術はなく、朝鮮半島からの輸入にたよるしかありませんでした。ヤマト王権や他の有力首長たちは輸入のルートを確保するとともに鉄の国産化をはかろうと凌ぎを削っていました。

 次の写真をみてみましょう。これは奈良県のウワナベ古墳から出土した鉄鋌(宮内庁所管)の一部です。鉄鋌とは刀や矢尻、甲や鎧などに加工する以前の鉄素材です。ウワナベ古墳は墳丘長270~280mの巨大な前方後円墳です。5世紀前半に築造され、応神天皇の娘、仁徳天皇の皇后である八田皇女の陵墓参考地に治定されていますが、被葬者は不明です。終戦後まもなく、この古墳の陪塚を潰して米軍施設が作られる事態となり、鉄鋌282点,小鉄鋌590点が出土しました。総重量約140㎏にも及びます。これだけの大量の鉄鋌を所持すること自体が王権の力を示すものでした。

 この大量の鉄鋌は鉄生産の先進地帯であった朝鮮半島の加耶からヤマト王権にもたらされたものです。これらの鉄鋌は武器や農工具などに加工され、日本各地の服属する豪族に配分されるなどしてヤマト王権の権力基盤を強固にしました。服属せざる豪族に対して、鉄製の武器がどれほど威力を発揮したかは想像に固くありません。

 埴輪挂甲武人を手がかりに古代国家形成と武器について調べてみましたが、どのようなことをみんなは感じましたか。感じたこと、考えたことを文章にまとめておきましょう。

感想・意見(                )