アインシュタイン・フロイト 浅見昇吾訳『ひとはなぜ戦争するのか』講談社学術文庫:20世紀を代表する2人の「知の巨人」による往復書簡。「人間は戦争というクビキから解き放たれるのか」を議論するも2人の足元ではナチスが台頭、2人は亡命を余儀なくされる。私たちはなぜ戦争に強い憤りを覚えるにもかかわらず戦争はなくならないのか、この問いはいまもわたしたちに突きつけられた課題であるが、本書から学ぶことは少なくない。
伊東壮著『1945年8月6日 ヒロシマは語りつづける』岩波ジュニア新書:ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の真実の姿を広い視野から記述する。原子の構造や核分裂の仕組みの説明もわかりやすい。絶望ではなく希望を語る核問題絶好の入門書である。挿絵は丸木俊さんの筆になる。
テーマ31 人間は戦争というくびきを解き放つ
【課題提起】テーマを1つ加えました。避けて通れない核兵器から戦争の未来を考えてみましょう。
いま世界には核兵器を保有する国は8ヶ国あります。核兵器保有数は12,241発(2025年1月)といわれ、約90%を米ロが保有しています。核兵器保有数が最大になったのは1980年代のなかば、6万発を超える時代がありましたが、米ソ冷戦の終結に伴って核軍縮が実現しました。現在も全体的には減少していますが、中国は増加傾向にあり、配備弾頭数は600発を超えると推定されています。
地上に核兵器が誕生したのは1944年7月16日午前5時半、米国のニューメキシコ州の砂漠地帯アラモゴールドでした。巨大な光とともに火球が出現し、その後爆風が吹き荒れました。それから1ヶ月も経たない8月6日と9日、同じことが今度は生きた人間が暮らす都市の上空に起りました。原子核の分裂が引き起こす巨大なエネルギーは多量の放射性物質を放出して人間そのものを破壊するものでした。
この「悪魔の兵器」は20世紀の科学理論と技術が組み合わされて生み出されたものです。科学理論は1905年に発表された相対性理論です。提唱したのは20世最大の物理学者のアルベルト・アインシュタインです。その中の1つに「質量とエネルギーの同質性」という問題があります。質量とエネルギーは1つの実体の別の表現にすぎず、質量はエネルギーに変えることができるという、それまでの物理学の常識をひっくりかえす理論です。研究者たちはその理論を着々と実証していきました。
舌を出したアインシュタイン。72歳の誕生日に笑顔を要求され、とっさにとった仕草といわれる。
「死とは何か」と質問されて「モーツァルトが聴けなくなること」という名言を残した。
学問と芸術そして平和を愛した人だ。
原子核には物質の質量が集まっています。それをエネルギーに変えるには原子核を分裂させるのですが、分裂した原子核の質量は合計すると、分裂前の原子核の質量より少し軽くなります。それだけエネルギーが放出されたことになります。
アインシュタインはこのエネルギーと質量の関係を次の方程式に表しました。
E=mc2 (E=エネルギー、m=質量、c=光の速度)
この方程式で計算すると、1gの物体がすべてエネルギーになれば、(9千億×10億)エルグ(エネルギーの最小単位)となります。これがどれほどのエネルギーかといえば、1gの水がすべてエネルギーになると、100万トンの物体を1万メートルの山頂に運ぶことができるというものです。
物理学の真理を探究することは人類社会に大きな進歩をもたらしてきました。莫大なエネルギーをうみだすという科学理論を技術に応用すれば、人類は無尽蔵の新しいエネルギーを手にすることができるかもしれません。敵を圧倒する新兵器の開発も可能です。
1938年12月、ドイツのカイゼル・ウィルヘルム研究所のオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが元素ウランに中性子をあてるとウラン原子核が2つに分裂することを発見しました。そのニュースがもたらされると、欧州の名だたる研究者たちも実験に取り組んで核分裂の仕組みが次々解明されていました。研究者たちはその成果にわきたちました。
しかし欧州では1932年に成立したナチス政権がユダヤ人への迫害を強め、第三帝国を建設するといって周辺地域の併合をおしすすめていました。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発する1年前のことです。カイゼル・ウィルヘルム研究所は「国防に科学を役立てる」を目的に設立された組織です。人類は新たな科学技術をめぐる大きな岐路にあったのです。
19世紀のフランスの生化学者・細菌学者のルイ・パスツールは「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」という有名な言葉を残しています。科学研究は何のためにおこなうのか、物質や宇宙の本質を解明して人類全体の福利に役立てるのか、それとも国家や社会の要請にしたがって軍事利用を認めるべきなのか、研究者たちも否が応でもその選択を強いられました。科学研究と国家社会との関係を考えてみましょう。
【意見交換】天才といわれたアインシュタインは少年時代、数学を除いて成績はあまりふるいませんでした。大学受験に失敗したこともあり、物理学もほとんど自学自習で学んだようです。かれにとって物理学を学ぶことは宇宙とそれを成り立たせている物質を究明することでした。古代ギリシアの哲学者デモクリトスは物質の基礎は「原子」ではないかと唱えましたが、それが空論ではないことが19世紀末から20世紀はじめにかけて次第に明らかになっていました。かれはその難問に向き合う学究の人でした。その反面、かれは平和を強く希求する平和主義者でした。生涯に2度の世界大戦に痛恨の思いがあったと思います。
アインシュタインの平和活動は第二次世界大戦後の反核運動がよく知られますが、精神分析で知られるジークムント・フロイトとの間で交わされた往復書簡はかれの平和主義者として側面を強く印象づけるものです。時は1932年、ドイツではナチスが台頭し、翌年、ヒトラー政権が成立します。世界恐慌のあおりを受けて欧州ではファシズムが勢力を増し、再び戦雲が漂いはじめていました。アジアでも日本が満州事変を起こしていました。
フロイトはウィーンに小さな診療所を開き、昼は患者と向き合い、
夜は研究に没頭して精神分析という学問を創始した。経済的には厳しかったが、
多くの弟子や文化人に支えられ、その思想的な影響は多分野に及んだ。
このとき、アインシュタインがフロイトに問いかけたテーマは、「人間は戦争というくびきを解き放つことはできるのか」です。物理学者である自分は「人間の感情や人間の想いの深みを覗くことには長けていない」ので、「人間の衝動に関する深い知識で(戦争という)問題に新たな光をあてていただきたい」とフロイトの知見に期待を寄せたのです。
フロイトからの書簡はかなりの長文の、人間の攻撃的な欲動を肯定しながらも戦争をなくす方向を示唆するものでした。二人の書簡は、「人はなぜ戦争をおこなうか」を人間の心の問題に立ち入った深い考察ですが、この時、世に知られることはありませんでした。ナチスのユダヤ人排斥の動きが強まり、ユダヤ人であるフロイトとアインシュタインはそれぞれ亡命を余儀なくされたのです。
しかしそれから程なくしてアインシュタインは亡命先のアメリカで、ルーズベルト米大統領宛てに一通の手紙を認めることになるのです。内容は、核物理学の科学理論は急速に深化しており、軍事技術への転化の可能を説いて原子爆弾(核兵器)の開発にふみ出すことを訴えるものでした。ナチスが世界に先んじて原子爆弾を製造することを恐れたのです。
この手紙を書くように説得したのはハンガリー生まれの物理学者レオ・シラードです。ナチスによる核兵器開発にもっとも危機感を抱いた人物です。シラードの努力が功を奏し、ルーズベルトは巨額の費用と人的資源を総動員した国家的巨大プロジェクト「マンハッタン計画」を実行に移しました。その成果が1944年7月のアラモゴールドの成功でした。完全な秘密裏のもと原子爆弾が誕生しました。純粋な科学研究はこうして原爆という人殺し兵器の開発に手を貸すことになったのです。
では平和主義者のアインシュタインはなぜ原爆製造を進言したのでしょうか。その後、かれはヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の事実を知って強いショックを受け、戦後の核廃絶を目指す平和運動に率先して取り組むことになるのですが、このとき、戦争をなくすという平和主義者の思想と原子爆弾という武器製造の提言はどう結びついていたのでしょうか。科学者として人間としての葛藤はなかったのでしょうか。かれの心の中のなかで何がおきていたのか、みんなと意見交換してみましょう。
アインシュタインの心の中で何がおきていたのか?
( あなたの想像 )
【コメント】ここではアインシュタインとフロイトの往復書簡に立ち入ってコメントしましょう。フロイトがアインシュタインに宛てた返信は2つの内容から成ります。前半は人間の歩みと戦争の結びつきについて、後半は精神分析の立場から人間の欲動と戦争の関係についてです。前半を要約するとこうなります。
① 人間は動物と同じくものごとを暴力で解決する。
② 人間の暴力には「むき出しの暴力」と「才知に裏打ちされた暴力」がある。
③ 「才知による暴力」は支配者を生み出し「法による支配」をつくりだす。
④ 「法による支配」となっても暴力による問題解決はなくならない。
⑤ 暴力は強大な権力を生み出し、権力で暴力を管理することが可能となる。
後半でフロイトが説いたのは、人間の2つの欲動についてです。「愛の欲動」と「憎しみの欲動」です。この2つは善悪に分けることができない、生命のさまざまな現象の根源のようなものであり、人間から攻撃本能は取り除けず、すぐに戦争を根絶させることには悲観的です。ただしフロイトはこう切り返します。わたしたちが戦争に憤りを感じることは正当であり、人間の攻撃性を戦争という形に発揮させないことは可能だというのです。人間は文化を発達させることで知性を強め、攻撃性を内面化してきました。この人間の心と体の変化について、フロイトは「これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません」と断言して、いつのことかはわからないが、戦争をなくせることに期待をよせたのです。
フロイトの主張は人間の暴力や攻撃本能を認めたうえで、2つの点から戦争をなくす可能性を説きました。1つは大きな権力が暴力を管理できること、2つ目は攻撃性を内面化する文化の力です。アインシュタインもこの返書を読んで多くを共感したと推測できます。ただ問題は未来における戦争の終焉ではなく、現に起きようとしている戦争をどうするかでした。
アインシュタインが原爆製造を訴える手紙を書いたのは1938年8月のことです。「人類史上かつてなかった実験」として期待を寄せた国際連盟の権力は地に落ちていました。イタリアのエチオピア侵攻にはまったく無力でした。日独伊が次々と脱退していきました。新たな戦争の危機が身に迫るなかで、「法の支配」を守るには暴力が必要であり、アメリカという強大な権力が原子爆弾という暴力を獲得すれば、その権力で暴力を管理することができるのではないか、アインシュタインの心のなかで、現代の核抑止論に通じるような方程式がなりたったとしても不思議ではありません。
しかし現実はアインシュタインの願いとはまったくちがう方向に突き進みました。1945年5月、ドイツが降伏し、完成した原子爆弾の使い道が途絶えたとき、ルーズベルト大統領の突然の死によって大統領となったトルーマンとわずかな要人たちは原爆をすみやかに日本への投下する決定を秘密裏に下しました。「建物に取り巻かれている軍事目標」に対して「事前通告なし」に使用するというものでした。連合軍の勝利はすでに確定し、同盟国の暴力は管理化に置かれていました。にもかかわらず何の警告もなく、民間人を巻き込む無差別大量殺りくが2度にわたって実行されたのです。2発の原爆が奪った命は20万人を超えました。
科学技術はたんに科学理論の正しさを実証する道具でもなく、暴力を抑止するものでもありませんでした。いったん技術化されれば、それ自体が有用性をもつ実用品であり、それだけの対価を要求するものでした。マンハッタン計画は20億ドル(当時の日本円で90億円、日本の一般会計予算約71億円)を使って、3000人の科学者を含む54万人が動員された巨大プロジェクトです。「作ったが使わない」では済まないのです。この論理のまえに科学者の良心などひとたまりもありません。原爆の完成に見通しがついた1944年の終わりごろ、開発に協力した科学者たちは原爆投下に反対を表明し、やがて訪れる核開発競争をおそれて核兵器の国際管理を求める意見書をまとめています。しかし政治家や軍人たちが耳を傾けようともしませんでした。かれらの頭のなかには「いかに原爆をうまく使うか」しかなかったのです。
ただアインシュタインは権力の恐ろしさを知らなかったわけではありません。かれはフロイトへの書簡で、平和に抗う悪しき力を働かせる2つのグループがあるといっています。「権力欲のグループ」と「権力欲を後押しするグループ」です。前者は国家の指導的な地位にいる者たち、後者は金銭的な利益を目当てに権力にすり寄る者たちで武器商人はその典型です。そしてこの権力者のグループは「学校やマスコミ、そして宗教的な組織すら手中に収め、その力を駆使することで大多数の国民の心を思うがままに操って」戦争に協力させようと図っているというのです。かれは戦争が起こされる構造を的確に理解していました。にもかかわらず権力を過小評価していたように思います。強大に組織化された権力の暴走に対して、人間の知力と攻撃性の内面化による戦争への憤りの感情はあまりに微力だったのではないでしょうか。
アインシュタインはヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の一報を受けて「ああ、何ということだ」と漏らしたといいます。そのときフロイトはすでに亡くなっていました。1939年9月、ナチスのポーランド侵攻直後のことでした。だから知る由もないことですが、もしかれが大戦や原爆投下の惨禍を目にしたとしたら、どんな言葉を漏らしたのでしょうか。二人の平和主義者の間で交わされた「人間は戦争というくびきを解き放つことはできるのか」という問いかけと考察にはどんな意味があったというのでしょうか。
ぼくは大切な財産を残してくれたと思います。
アインシュタインは核兵器禁止条約という反核運動の大きな礎をつくったと思います。はじめに書いたように人類は核兵器の恐怖に今も直面しています。核兵器は廃絶されるどころか戦争抑止の名のもとに開発され続けてきました。ヒロシマ型の原爆の破壊力はTNT火薬に換算して13キロトン、いまや核弾頭1発の破壊力は何十メガトンにも及びます。運搬手段の高度化によってミサイルの誘導技術は寸分の一もたがわない精度を誇っています。小型核兵器の開発が進み、核先制攻撃が現実味を帯びています。核抑止論の名のもとに、核兵器は着実に使える兵器として進化しています。いまも権力欲とそれにすり寄る一部の権力者たちは、暴力がもたらす利益に幻想を抱き続けています。
戦後最初の核実験(1946年マーシャル諸島):アラモゴールドの核実験以降、
核保有国がおこなった核実験は2058回を数える。
1996年の包括的核実験禁止条約によって
宇宙空間、大気圏内、水中、地下を含むあらゆる空間での核兵器は禁止されたが、
その約50年間、核実験は9日に1回おこなわれたことになる。
この間にどれほどの核汚染がすすんだことか。
なお核爆発を伴わない臨界前核実験(未臨界核実験)は、当条約の対象ではない。
ところがアインシュタインは、ソ連が核保有国になったことに対抗してトルーマンが水爆製造命令を出したとき、自戒の念をもって国家の安全を武装によって保障することはできないと批判しました。核抑止論が核開発競争を促すことを見通していたのでしょう。この時の確固としたかれの意思がいまに受け継がれ、核兵器禁止条約をはじめとする国際的な核廃絶運動につながっているのではないでしょうか。
最後にフロイトについても触れておきましょう。ユネスコ憲章の前文「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」はみなさんも聞き覚えのある一節ではないかと思いますが、これを読むたびに思い起こすのは、フロイトが説く人間の「愛と憎しみの欲動」です。かれの考察によれば、人間から攻撃本能を取りのぞくことはできなくても、「心の中に平和のとりで」を築けるはずです。人間は文化を発達させ知性を強めることで動物のようなむき出しの暴力を抑えることができるようになりました。もはや人間は「野生」そのものではなく、みずからを「家畜化」することで攻撃性を内面化させ、芸術や文化、ゲームやスポーツという形に昇華させています。これは未来の平和を展望させるものです。
よく軍備や核の縮小・廃絶は理想論とか夢物語とか揶揄されますが、けっしてそうではありません。なぜならフロイトが教えてくれたように、人間は着実に暴力の支配から法の支配にむかって前進しています。それにともなって心と体も変化して本能的な欲望に導かれることも少なくなっています。「平和のとりで」はこれからもわたしたちの心と体のなかで着実に堅固になっていくにちがいありません。
アインシュタインやフロイトの時代、戦争は防げませんでしたが、その惨禍を乗りこえて人類はふたたび平和を求める努力を重ねてきました。そこに残されたたくさん英知を受け継ぐことが次の平和をつくる礎になっていくにちがいありません。




