ホッブズ著・角田安正訳『リヴァイアサン1』『リヴァイアサン2』光文社文庫:『リヴァイアサン』は4部構成の大書だが、光文社版は1部と2部のみが翻訳されている。岩波文庫は全4部が収録されている。

田中浩著『ホッブズ』清水書院:著者の田中浩は日本におけるホッブズ研究の第一人者であり、ロックやルソーに比べて不当な評価を受けてきたホッブズ思想の全体像をわかりやすくまとめている。

 

テーマ12 国家が暴力を独占していく 

 中世社会は分権的な社会でした。有力な諸侯をはじめ多くの封建領主が領邦を支配していました。近世社会の特徴は国王への権力集中です。国王が他の諸侯を抑えて、「1つの権力、1つの法」のもとに中央主権的な主権国家が作られていきました。国王の絶対的な権力のもと、有力貴族が支える官僚制度と常備軍が権力を支える基盤となりました。これが絶対王制です。

 16世紀から18世紀にかけて登場した、スペインのフィリップ2世、フランスのルイ14世、イギリスのエリザベス1世は代表的な絶対君主です。かれらは商業資本と手を携え、輸出を奨励し金銀を蓄える重商主義政策をとって、他国と競って海外の植民地経営に乗り出しました。

 軍隊を構成したのは傭兵でした。中世の騎士たちは銃と大砲によって時代から取り残されました。戦闘の中心は騎兵から歩兵となり、重装備と槍にかわって軽装備と銃・大砲が勝敗を決めました。

 中世の騎士は武器も食料もすべて自弁でした。しかし新たな兵器である銃や大砲の製造・購入は個人に負えるものではありません。歩兵隊や砲兵隊など戦闘の主役となるのは傭兵であり、俸給を支払い食料も提供しました。これらの出費をまかなえるのは租税収入によって維持される王家の金庫だけでした。警察や軍隊などの暴力装置は国家が独占するものになっていきました。決闘を除いて個人のフェーデは禁止です。絶対王制の成立以降、現在に至るまで、私たちは国家が暴力を独占する社会のもとに暮らすことになるのです。

 マックス・ウェーバーというドイツの有名な社会学者は、国家をこう定義しています。「国家とは…正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」。国家は自己救済のもとに個々人がもっていた暴力装置を国家機関である警察や軍隊に召し上げてしまいました。戦場で兵士が敵を殺傷しても罰せられるどころか勲章をもらえます。警察官も公務上必要があれば、銃や棍棒の使用が認められます。そして逮捕された被疑者が裁判によって有罪となれば、死刑を最高刑とする刑罰が科せられます。ウェーバーは交戦権、警察権、刑罰権の暴力装置を国家が独占することを正当としたのです。

【意見交換】アメリカ銃社会のように個人の武装権がいまだ認められる国家が存在するとはいえ、現在の国家においては、警察や裁判所が国内の治安を守り犯罪を取り締まって刑罰を決めます。また対外的には交戦権は国家であり、軍隊が国家の安全や国民の生命・財産を守ることになっています。ではこのように国家が暴力を独占すると、どのようなメリットがあるのでしょうか。またデメリットがあるとすれば、それはどんなことでしょうか。あなたの考えをまとめて意見交換しましょう。

(あなたの意見 メリット  デメリット    )

【コメント】国家による暴力装置の独占がはじまる絶対王制の時代、イギリスの思想家トマス・ホッブズが近代国家のあり方を説いた『リヴァイアサン』を刊行(1651年)しています。いわば国家による暴力独占のメリットを理論化した、政治哲学書の古典です。

 『リヴァイアサン』とは旧約聖書の『ヨブ記』などに登場する、地上最強の海の怪物のことです。ホッブズは国家をこの怪物にみたててリヴァイアサンとよび、国家が暴力を独占すべきことの道理を社会契約論から明らかにしています。かれはイギリスがスペインの無敵艦隊を破った1588年イギリスに生まれ、清教徒革命から王政復古というイギリス史上の大反乱期に生きた人物です。大陸では三十年戦争を通して近代国家体制が生まれようとしていました。

 アブラハム・ボスによる『リヴァイアサン』の表紙。中世ヨーロッパでは、国家を含む万物は創造と考えられていました。このキリスト教的見方に対して、ホッブズは、神ではなく人びとが国家を形成していると考え、人びとが社会契約によって平和な社会をつくる社会状態をつくるべきと考えました。海に住む怪物の上半身はよくみると、小さな無数の人間が集合したひとつの巨大な人格体として描かれています。これらの人びとがひとつの意志をつくりあげ、すべての力を与えられた主権者のもとに人びとが服従するのがホッブズの描いた国家像でした。

 ホッブズによれば、人間は本来、心身ともに平等に造られ、自然権として絶対的な自由をもちます。したがって互いに自由を通そうとする自然状態では「万人の万人に対する闘争状態」となるので、この混乱から抜けだし個人の安全を確保するには、天賦の権利である自然権のすべてを放棄して国家に譲渡する契約を結ぶべきであると主張しました。そうすれば契約者全員の意志と力を合わせた共通の権力を与えられた主権者(国王など)によって平和で安定した国家が実現すると考えたのです。

 この自然状態から国家形成に至るホッブズの提起について、政治学者の田中浩はこう評価しています。「ホッブズは早くもこの時期に、武器を放棄して丸腰で、主権者(国王、統治者、議長など)の制定する法律のもとで生活する平和のシステム「法の支配」を提起していたのである」(田中浩著『ホッブズ』清水書院)

 武器の放棄と丸腰、法のもとの平和システム…田中によれば、ホッブズの思想は民主国家のあるべき姿を先取りするものだというのです。たしかにイギリス史をふりかえれば、名誉革命後に立憲君主制が成立、議会制民主主義によって平和のシステムが実現したことは事実です。この影響をうけてイギリスばかりか欧米諸国の国内にも平和のシステムが実現していったのは国家が暴力装置を独占することのメリットです。

 しかし1648年、ヨーロッパ大陸では三十年戦争が終結し、ウェストファリア条約が締結されました。これによって主権国家の概念が確立され、国際法の原則に基づいて勢力均衡をはかる国際政治が展開されるようになりました。戦争は主権国家の権利となり、無差別戦争観のもとに国家間に起きたのは無制限な戦争でした。国家に集中した暴力装置が対外戦争に用いられ、軍拡と同盟の歴史がたどり着いた先は20世紀前半に起きた2つの世界戦争です。国内は武装放棄、国外は軍備拡張、この相矛盾する二重構造を私たちはどのように考えたらいいのでしょうか。

 「万人に対する万人の闘争状態」を社会契約によって平和な社会状態を確立させようとしたホッブズの提起とは裏腹に、現実は社会状態の方がむしろ「万人に対する万人の闘争状態」ではないか!そんな異論が出てくるものも当然です。国家の暴力独占のデメリットはまさにここにあります。ホッブズの影響を受けて社会契約論を論じたフランスの思想家ルソーは、人間の自然状態は憐みの情による相互保存し合うものであって、社会状態こそが争いや戦争を引き起こすという主張しました。しかしルソーは戦争そのものを否定できず人権法の対象にするに留まりました。国家によって独占された暴力装置は、最強の怪物となって多くの国民を戦争の惨禍へと巻き込んでいきました。

 現代社会を見わたしてみましょう。国連のような国際平和機関があっても、主権国家は自衛権の名のもとに戦争をくり返しています。国際社会はいまも「万人に対する万人の戦闘状態」という自然状態が続いているというのでしょうか。ホッブズが主張したように自然権のすべてを国家が放棄するのはいつのことでしょうか。

 しかし中世から近世への移行の歴史をもう一度ふり返ってみると、現代社会が直面する課題と奇妙なくらい重なってくることに気づかされます。歴史家の堀米庸三は、ヨーロッパ中世史家の立場から現代の平和の課題をこう語っています。

 「…この近代国家が並立している広い国際社会は、主権的個人が対立していた中世社会と法理的には同一の状態を呈している。戦争が大規模になり、その災害が大きくなると、人々は「神の平和、休戦」の現代版を求めるようになる。国際連盟や国際連合はそうした性質のものである。この国際社会の平和または治安立法こそ、歴史が現代人に課した課題にほかならない。(堀米庸三著『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中公文庫)

 私たちはまさに自己救済の時代にあった中世において、教会や諸侯たちが個人のフェーデを禁止しようとしたように、現代の「神の平和」「神の休戦」あるいは「平和令」によって、国家間のフェーデを禁止し、国家に暴力装置を放棄させていくことはけっして夢物語ではありません。中世史家からの問いかけに私たちはどう応えていけばよいのでしょうか。