マイケル・ムーア監督『ボーリングフォーコロンバイン』2002年:1999年4月20日、コロンバイン高校でボーリング好きの在学生2名が高校に乗り込み銃を乱射、12人の生徒と1名の教員を殺害して自殺した。この事件を通してアメリカ銃社会の病理と私たちに潜む暴力性を問いかけるドキュメンタリー映画。

酒井隆史著『暴力の哲学』河出文庫:暴力と非暴力を根底から考察し、それらをこえる反暴力をラディカルに構想する。『ボーリングフォーコロンバイン』を取り上げ、恐怖の問題を掘り下げている。

 

テーマ9  個人の武器所持は不可侵の権利である

 

【課題提起】戦争の歴史は1万年に及びます。その間、兵器は進歩し戦争は進化しました。大量殺人、大量破壊が可能になりました。しかしそうであっても人間は戦争をなくそうと努め、平和に生きる権利を確立して、戦争の自由は少しずつ制限されてきました。そしていま、戦争は「自衛」を除けば正当化・合法化する根拠はなくなりました。ではわたしたちは将来、「自衛」の手段から戦争という暴力を排除することはできないのでしょうか。

 人間には生物としての自己保存の本能があり、自衛権は人間の自然権といわれます。国家の自衛権もこの考えが根拠です。自然権であるがゆえに、国家は互いに巨大な軍事費を使って軍備拡張をはかって自衛に努めたといっていいでしょう。しかし歴史をふり返ると、結果は自衛どころか、破滅への道でした。

 しかし国家がたどってきた道とは裏腹に人間はどうでしょうか。いま個人で武器を保有または携帯する人はほとんどいません。事実、日本をはじめ多くの国では個人の武器所持は法律で禁じています。人間の社会には個人間においてもたくさんの対立が存在し、権利と権利、主張と主張…さまざまな利害関係がぶつかりあいますが、もしこれを暴力的に解決しようとすれば、傷害罪や殺人罪に問われます。正当防衛を主張してもその基準はかなり厳格です。同じく自衛権があるといいながら、国家は人類の存亡にかかわるほど軍備を膨張させる一方で、個人はほとんど丸腰状態にあるのです。ではもし個人が国家のように自衛権を根拠に互いに武装して身の安全を守ろうとしたらどうなるのでしょうか。

 この問いを考えるために取り上げてみたいのがアメリカ合衆国です。というのもこの国は今も憲法によって個人の武器の保有・携帯を認めているからです。

 「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」(アメリカ合衆国憲法修正第2条)

 アメリカでは建国以来、一般の国民も民兵となって国を守ることが必要とされ、人民の武器保有権が侵してはならない政府の義務となっています。このため銃は日常生活においても普通に存在し、人口3.2億人に対して3.6億丁もの銃(2013年)が個人所有されています。しかも銃の使用に寛容です。たとえばアメリカ人にとってわが家は自分で防衛するもの、だから屋敷内に侵入しようとした者を射殺しても犯罪にはなりません。ハロウィンの日、訪問先を間違えて勝手口に入ろうとした日本人留学生が射殺された事件がありました。家主は無罪でした。生命の危険を感じたならば、銃で相手を殺傷してもほとんどの場合、正当防衛となります。

 ところが周知のようにアメリカ国内では銃の保有・携帯をめぐって国論を二分する深刻な対立が長く続いています。銃犯罪が多発しているからです。次のグラフをみてください。

 統計はやや古いのですが、銃による殺人事件は現在も年間1万件を超え、銃を使った自殺者は2万人にのぼります。身の安全のため銃を保有しているのに、かえって身を危険にさらす結果になっています。このためにアメリカでは銃規制の強化がくり返し議論され、とくに2018年の全米を巻き込む大規模な抗議行動は記憶に新しいものです。

(左)銃規制を挙げて抗議行動をおこなうアメリカ市民。(右)銃規制に反対する全米ライフル協会会長チャールトン・ヘストン(マイケル・ムーア監督『ボーリングフォーコロンバイン』パンフレットより)

 

 この年、フロリダの高校で17名が犠牲になる銃乱射事件が起き、これを機に立ち上がったのは高校生でした。高校生による銃規制強化の訴えはSNSを通してたちまちのうちに拡散し、全米で100万人を超える人びとが抗議行動に参加しました。

 しかしこの時トランプ大統領が提案したのは、学校現場の教員に銃を所持させて事件を未然に防ごうというものでした。銃をもって銃を制すというわけです。また全米ライフル協会は「銃を取り上げ個人の自由を制限しようとする社会主義の波が米国を襲っている…銃乱射事件の悲劇という機会に乗じて、銃規制の拡大や米国民の銃保有権撤廃を進めようとする者がいる」と銃規制に反対する声明を出しました。

 個人による銃の所持は規制すべきか否か、あなたはどう思いますか。

【意見交換】グラフのようにアメリカでは今でも銃による犯罪や事件は増加傾向にあります。銃の規制強化は一向に進展していないようです。その背景には個人による武器の保有・携帯は侵害してはならない権利であり、国家の自由、個人の自由を守るという自衛の意識が働いています。あなたは次の2つの主張のいずれを支持しますか。その理由を明確にして、自由に意見交換をしましょう。

A「銃による事件を防止のために個人が銃を所持する権利は規制すべきである」

B「個人の命や自由を守るために個人が銃を所持する権利は尊重すべきである」

あなたの意見( A  B  どちらともいえない )

その理由(                   )

 【コメント】まずぼくの個人的な意見をのべると、普段意識しませんが、暮らしのなかで銃やナイフを持たなくても安心して外出できることに感謝しています。日常生活の平穏はこれからも守っていきたいので、Aを支持します。しかしこれでは学びになりません。銃を必要と考える社会が存在する以上、なぜそうなのかを探ることは他者理解の第一歩です。

 武器の個人所有を考えるとき、アメリカ史の独自性をみておく必要があります。アメリカの国家としての歴史は1776年の独立宣言にはじまります。イギリスとの独立戦争に勝利して1787年、憲法が制定されて合衆国が成立しました。その過程で自ら武器をとってイギリス軍と戦ったのが民兵でした。独立以前のアメリカには正規軍はなく、民兵が立ち上がってイギリスの圧政に抗する自由と独立の市民革命を勝利に導いたのです。政府の圧政に対する抵抗はアメリカ人民の権利です。

 憲法修正第2条はこうして生まれました。いくら銃犯罪が多発しようと、アメリカ建国の精神である自由のための権利は譲れない、この意識はいまもアメリカ国民の間に深く浸透しています。だから銃規制の声はあがっても廃絶の声はあがりません。個人の武器所持は不可侵の権利なのです。

 民兵としてイギリス軍と戦ったのはヨーロッパから移住してきた開拓民でした。国家の正規軍もなく身近に警察官がいるわけでもないなかで、かれらにとって開拓した土地や家族を守るために銃は欠かせませんでした。銃口は危険な動物や無法者、悪漢に向けられました。でも最大の被害者は先祖代々の土地を奪われた、インディアンとよばれた先住民でした。かれらは抵抗むなしくヨーロッパから持ち込まれた銃によって殺戮され、生き残った者は居留地に強制収容されました。最初の開拓民がやってきた1600年代およそ110万人といわれる先住民の人口は1860年代4万人にまで激減しました。それと同時に開拓民はアフリカから連行した黒人を奴隷として働かせました。その管理に銃が活躍しました。先住民の征服が完了する頃、400万人をこえる黒人たちが奴隷解放令によって自由人になりましたが、銃による抑圧は続きました。黒人の銃所持は禁じられました。銃所持の自由は白人の権利であり、他人種を抑圧する道具だったのです。今も銃犯罪の犠牲者は圧倒的に有色人種です。銃がつくり出した自由の国アメリカの病理です。

(左)コロンバイン高校の図書館で起きた銃乱射事件(右)ヨーロッパから移民した開拓民は銃で先住民を征服した。(マイケル・ムーア監督『ボーリングフォーコロンバイン』パンフレットより)

 

 なぜアメリカは銃に依存する社会になったのか? この問いについて、映画監督のマイケル・ムーアはこう語っています。

 「銃そのものは真の問題じゃない…問題はアメリカン・メンタリティ、アメリカの精神構造なんだ。アメリカはなぜ、譲り合ったり話しあったりして問題を解決することができずに、暴力で事を決してしまうのか。恐怖が原因だ。…恐怖とそのために起る暴力は、いまやアメリカの文化の一つになってしまった」(マイケル・ムーア監督『ボーリングフォーコロンバイン』パンフレット)

 かれが言うところの恐怖とは征服と抑圧の歴史と固く結びついているのではないでしょうか。また暴力と非暴力をラジカルに問いかける哲学者の酒井隆史は、武器と人間との関係をこう説いています。

 「暴力的装置を人間が手段として使いこなすなどという考えは幻想にすぎない。むしろいつのまにか、人間のほうが暴力的装置に使いこなされ、ふりまわされている」(酒井隆史著『暴力の哲学』(河出文庫)

 銃をもつことで安心をえたつもりが、返って恐怖にかきたてられ、みずからの暴力性をひきずりだしているというのです。銃で恐怖は消えません。増殖させるだけです。繰り返される銃犯罪はこうして生み出されてきたのではないでしょうか。

 アメリカ銃社会のあり方は世界の中でも少数派です。人権の時代にあって時代錯誤ともいえます。しかし日本の歴史も200年さかのぼれば、武士の帯刀は権利でした。わたしたちが考えるべきは、個人の武器所持は不所持の時代よりはるかに長い歴史があることです。丸腰のまま安心して町中で出られる社会はいつどのようにできあがってきたのでしょうか。もう少し個人と武器の歴史を探ってみましょう。

【課題探求】アメリカ銃社会と先住民、黒人奴隷との関係を次の文献を使って調べてみよう。

清水知久アメリカ・インディアン』1971年  中公新書

清水知久『米国先住民の歴史』1992年 明石書店

本田創造『アメリカ黒人の歴史』新版1991年 岩波新書

本田創造『私は黒人奴隷だった』1987年 岩波ジュニア新書