猪口邦子著『戦争と平和』東京大学出版会:「戦争を防ぐためには戦争を解明しなければならない(ライト)」の問題意識のもとに戦争の構造や力学について巨視的分析に挑戦した力作。著者は学問の世界から政治家に転身したが、その英知をどう政治の世界で活かすのであろうか。

 

テーマ6 同盟は平和をもたらさない

 

【課題提起】軍備とともに戦争の抑止力として採られてきた政策に軍事同盟があります。軍事同盟とは一般に安全保障のために2ヶ国以上の独立国家が、条約を結んで相互に軍事的な援助をおこなうことです。日本で言えば日米安全保障条約もその1つですが、歴史上たくさんの軍事同盟が存在しました。では軍事同盟は戦争の抑止力になったのでしょうか。

 猪口邦子著『戦争と平和』によると、同盟締結から5年以内に戦争が勃発した割合は16~18世紀までは平均して約75%、19世紀は28%と例外的に低いのですが、20世紀は87%に及び、2ヶ国以上の大国による軍事同盟の場合はさらに割合が高く、16~18世紀は90%、20世紀は100%です。軍事同盟の締結は戦争の先行現象となっています。

【課題探究】なぜ軍事同盟と戦争生起は関係が深いのか、第一次世界大戦の参戦過程を軍事同盟という観点から調べて自分の意見をまとめ、軍事同盟の是非について意見交換しよう。

(自分の意見            )

【コメント】第一次世界大戦は、ヨーロッパ列強の帝国主義政策によって複雑化した同盟・対立関係が絡み合って起きた戦争です。その引き金になったのが1914年6月28日、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人の一青年に暗殺されたサラエヴォ事件でした。サラエヴォがあるバルカン半島は当時、ヨーロッパの火薬庫といわれました。諸民族間の領土紛争が絶えず、小国間の対立を利用してロシアやオーストリア、オスマン帝国がこの地域の支配を図っていました。サラエヴォの一発の銃弾が国際関係のバランスをもろくも崩しました。

 14年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦しました。するとロシアがオーストリアに宣戦、ついでドイツがオーストリアに宣戦、フランスがドイツに宣戦、イギリスがドイツに宣戦、そして日本がドイツやオーストリアに宣戦したのは8月23、25日のことでした。わずか1ヶ月の間に大国がこぞって参戦しました。

1914.6.28 サラエヴォ事件が起きる

1914.7.28 オーストリアがセルビアに宣戦

1914.8.1 ドイツがロシアに宣戦

1914.8.3 ドイツがフランスに宣戦

1914.8.4 イギリスがドイツに宣戦

1914.8.6 オーストリアがロシアに宣戦

1914.8.11 フランスがオーストリアに宣戦

1914.8.12 イギリスがオーストリアに宣戦

1914.8.23 日本がドイツに宣戦

1914.8.25 日本がオーストリアに宣戦

1914.10.30 ロシアがトルコに宣戦

1914.11.5 イギリスがトルコに宣戦

1915.5.23 イタリアがオーストリアに宣戦

1915.10.14 ブルガリアが参戦、セルビアを攻撃

1916.8.27 ルーマニアがオーストリアに宣戦

1916.8.28 イタリアがドイツに宣戦

1916.9  ブルガリアがルーマニアに宣戦

1917.4.6 アメリカがドイツに宣戦

1917.8.14 中国がドイツ、オーストリアに宣戦 

(日比野丈夫編『世界史年表』河出書房新社より作成)

 

 その参戦経過をみると、図のような同盟関係が参戦の連鎖反応を起こしたことがよくわかると思います。

 その結果は、英仏露日に遅れて参戦した伊米中の連合国と、独墺にオスマン帝国、ブルガリアなどを加えた同盟国が、植民地・属国を巻き込んで全面対決する世界戦争でした。その特徴は総力戦です。互いに国力のすべてを傾ける戦いは持久戦・消耗戦となりました。4年間の戦争で犠牲者となったのは、戦死者900万~1500万人、戦傷者2200万、その他に非戦闘員死者1000万人といわれていますが、その実数は分かりません。軍事同盟を結んで戦争の抑止力とする考えは未曾有の破壊と犠牲を記録して破綻しました。

 そもそも軍事同盟という外交政策は勢力均衡論というヨーロッパ伝統の国際秩序から生み出されたものでした。国同士が国境を接するヨーロッパでは領土争いが頻発していましたが、そのため強国に領土侵食されないために同盟を結んでバランスをたもつ必要が生まれたのです。19世紀後半のヨーロッパは、オーストリアとフランスと、遅れて統一をなしとげたドイツとイタリアの4つの強国が併存し、東のロシアと島国のイギリスが加わって、いわば列強という巨星が衛星を従えるような国際関係ができあがっていました。

 しかし1871年の普仏戦争後、第一次大戦までの44年間、ヨーロッパ内では戦争がほとんど皆無でした。その平和の立役者はドイツの宰相ビスマルクです。かれの外交政策の要は隣国フランスの孤立化と大国イギリスとの対立回避でした。このために巧みな外交手腕を発揮して作り出された同盟関係がいわゆるビスマルク体制です。

 しかしビスマルクの死後、ドイツの皇帝ウィルヘルム2世が中東進出政策を強めると、イギリスは孤立主義という外交政策を転換、フランスや日本、ロシアと同盟を結び、ドイツとの対抗関係が明確になりました。これを背景に植民地の再分割をめぐって勃発したのが未曾有の世界大戦です。半世紀近く続いたヨーロッパの平和は、内部に巨大なマグマをためこんでいました。軍備拡張です。これが大噴火となったのです。飛躍的に発達した工業技術と軍事力は一端開戦となると、もはや制御不能でした。

 こうして軍事同盟によって勢力を均衡させ平和を維持する勢力均衡論はもろくも崩れ去りました。そしてその結果もたらされた未曾有の戦禍は欧米その他の参戦国に痛切な反省をもたらせました。そこから生み出されたのが「戦争の違法化」という考え方です。それは戦争観の根本的な転換でした。国際法上、国家が戦争に訴える自由を否定し、戦争は違法であるという基本的合意をなすべく、その具体的な取り組みがはじまりました。

 平和のための国際機構として国際連盟が設立され、勢力均衡論にかわって集団安全保障という考えが形成されていきました。国際連盟規約は集団安全保障をこう規定しています。

「戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響があるか否かを問わず、すべて連盟全体の利害関係事項であり(連盟規約11条)」、「約束を無視して戦争に訴える加盟国は、当然に他のすべての加盟国に対して戦争行為を為したものと見なす(同16条)」。

 戦争に訴える国があれば、すべての加盟国が共同して対処する、これが集団安全保障の考えです。国家を「友と敵」に分けて軍事同盟を結ぶ考えとはまったく異質のものです。19世紀から20世紀初頭にかけて同盟関係がつくり出した平和と戦争の歴史から学んだ知見といっていいでしょう。そしてその動きはさらに大国間の軍縮条約となって実現し、不戦条約の締結によって、国際紛争を解決する手段としての戦争が放棄されることになります。

 しかしその平和の理想を現実化しようとする期間はのちに「戦間期」と括られることになりました。第二次世界大戦の勃発です。なぜ平和の創造は頓挫したのか? そして2度目の世界戦争の惨禍を通して何を学び、何が実現されていくのか? 次の課題としましょう。

 テーマ6について感想や意見をまとめておきましょう。

(感想・意見                )