資料1(上)ヘイトスピーチ解消法のポスター:法律は成立したが、ヘイトスピーチは繰り返される。法律による規制は必要だが、市民一人ひとりは「差別を許さない」を差別者集団だけに向けるのではなく、自らの加害性も問い返していかなければならない。杉田水脈のような国会議員がまずは自覚しなければならないのだが…(画像は法務省HPより)

資料2(下)合理的配慮のポスター:障害者差別解消法が改正され、合理的配慮の提供が民間事業者の義務となった。シラカシ(仮名)の発表授業では話し合いのテーマにはならなかったが、関心を持ち続けることが社会から壁を取りはらっていくことにつながる。(画像は内閣府HPより)

対話が省察を促すということ

 シラカシ(生徒仮名)には教室でもらった仲間からのたくさんの言葉があります。お年寄りに席をゆずること、スーパーの商品の並べ方…無意識のうちに差別していると打ち明け、みずからの加害性を言葉にした生徒もいます。背が低いこととそれを笑うことの違い、また知ることは大切としながらも、一つ間違えればおこがましさや傲慢さにつながるという声も挙りました。人間がもつ言葉によって差別は変えられるという意見、忘れることより差を意識していきたいという主張も聞こえてきました。

◆差別に悪意がなくても…差別をしていることには変わりはない…障がい者、健常者、差別用語で使いたくない…電車でお年寄りに席をゆずって年寄り扱いするなって怒られたりする、気遣いのつもりが何か違うものと捉えられてしまうこともある。…そう思うと数えきれない差別をしてきたのだろうなー。(RK)

◆差別って難しい。無意識の内に私たちも差別をしているのか? しているつもりなくてもしてしまっているのか~…スーパーのバイトで…私は健常者の人たちに向けて商品を並べているけど、からだの不自由な人からしたら大きなかべでしかないんだなと思って、私も無意識の内に差別をしているんだなぁって思った。(HY)

◆…何か劣っているものを見下すのも本能的なものだろう…背が低いが故に高所に不便であることは正当な理由を持つために差別ではない。しかしそれを見て笑うことは差別である。背が低いことと、笑うことは何の関係もない。それはつまり笑った者の中で何かに置換されたのだ…結局、人が変わるしかない。(KT)

◆個人としては差別を受けている人の現状だとか歴史を知り、学んでいきたいと思うけれど…私は知っている、理解してやっているんだからありがたく思えという、おこがましさや傲慢さがあってはいけないと思った。差別の壁は、自分たちが代わってやって理解を向けてやることでしかなくならないんだ、という含みをよく感じるけれど…理解自体は素晴らしいと思う。(HN)

◆(他の動物とは違う)人間の差別は変えられる。違うものの排除という本能は言葉の論理で考え方は変化する。そのためにはまず知る必要がある。(RK)

◆配慮や歴史を忘れてしまった方が良いのか、お互いの差を積極的意識して行動していくのか。やっぱり僕は後者のスタンスを取っていきたい。差別がなくならなくても、良い世の中を維持するには考え続けて行動していくしか他ない。(RI)

 一部を抜粋して紹介しましたが、共感的な感想、批判的な意見…シラカシはその立場のいかんに関わらず受けいれ、「自分が加害者になっている差別はたくさんある。今回のレポートで今ある差別意識に気付き改めていければと思う」と締めくくりました。「レポート作成や授業は差別意識にあたる」として、差別を学ぶこと自体を疑問視するところから大きく抜け出た言葉です。かれにとって差別は「気付き改め」るべき、意識化の対象になったのですから…。

 ジモリは観を育てることを教育目標に掲げます。観の形成はみずからおこなうものです。それはつくっては壊し、つくり直してはまた壊すの連続といえますが、シラカシのレポート作成と発表は、その連続する過程の、大事なポイントになったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ぼく自身を語ると、シラカシのレポートには虚を衝かれました。ぼくにとって差別は授業でもっとも取り上げてきたテーマですが、逆差別を正面から扱ったことはありません。女性専用車両やレディスデーを取り上げて男性差別か否かを論じ合うならば、もっと取り上げるべきテーマがあると考えてきました。でもシラカシの逆差別の切り口はぼくを揺さぶりました。どうしてなのか? 思案しながらふと気がついたのは、差別を授業の「ネタ」にする、自分のなかに潜む無意識の差別でした。頭をよぎったのは40年も前の出来事です。

 ぼくが教員に成り立てのころ、歴史の授業で繰り返し部落差別を扱ったことがありました。そのとき、中3の生徒から「先生は何度も部落のことを扱うけれど、先生は部落民じゃないの?」と質問されたのです。ぼくは返答に窮しました。

 「差別を許さない」という人権標語は多々ありますが、その主語はだれでしょう? 全知全能の神様ではありません。社会のうちに組み込まれた差別構造から容易には逃れられないわたしたち自身です。しかし日ごろ「正しいことを教える」教員は自らが差別構造のなかにいることを日ごろ忘れがちです。そして無意識のうちに差別や人権を教えるネタにしてしまうのです。

 あのときの中3生は「あなたの立ち位置はどこか」を聞きたかったのでしょう。シラカシが逆差別を潜在的差別と結びつける思考もそのことを訴えたかったのです。

 40年という時間を隔てて、ぼくはシラカシの言葉と出合い、若いころの苦い経験を思い起こしました。ただ今回大きく違ったのは言葉から対話が生まれたことです。教室で交わされた議論を通して生徒同士が学び合い、シラカシはみずからが提起した差別を省察する時と場をえました。ぼくも改めて潜在的差別を意識化することができたし、差別を扱う授業づくりを再考していく機会ともなりました。対話が省察を促し、認識の転換をはかってくれたのです。(続く)