~虚ろな月によせて~ by TOY MOON  -3ページ目

~虚ろな月によせて~ by TOY MOON 

作家を目指して日々修行中です。 自作の短い小説や日々のつぶやきを載せてゆきます。

結局、その夜ジェロームが手にしていた小さい花束は、サビーヌの部屋までは行かずに私のデュラレックスのコップに飾られることになり、それから毎週木曜日の午後、私たちはカフェで待ち合わせをすることになった。といっても、別にそれはデートなんかではなくて、大学の宿題を難なくこなすほどには語学が出来なかった私と空手用語以外の日本語を覚えたかったジェロームの交換授業の場だったのだけれど。空手バカの高校生にしか見えなかったジェロームは、サビーヌに寄れば、法学部主席卒業間違いなしの将来有望な秀才なんだとか。もっともジェロームの知っている日本語は見事なくらいに空手用語ばかりだったけれど。


最初の印象は最悪だったのに、いや最悪のラインから評価曲線が始まったせいか、毎週のように話しをしていると、ジェロームの誠実な人柄や、豊富な知識、誰にも分け隔てのない正直さなんかに驚かされることは何度もあって、私はいやおう無しに彼に惹かれていった。だいたいジェロームは、私の宿題を添削してくる先生なのだから、尊敬せずにいるのは難しかったし、それにここはフランスだった。私はひとり暮らしで、うるさく詮索する親も保護者みたいな智行もいない。恋をするには申し分のない環境だ。ジェロームにしても、私は彼の愛する空手ワールドを広げてくれる女神だったから、私達が恋に落ちたのは当然と言えば当然の成り行きだったのかもしれない。


やがて毎週木曜日にカフェで待ち合わせをするこのもなくなり、私の寮の部屋には“からて”と平仮名で大書きしてある不思議なTシャツとかシェービングセットとか、やけにおっきな歯ブラシなんかが置かれるようになった。毎夜私の部屋にやってくるようになってからも、真面目で律儀なジェロームは、私の宿題を熱心に添削してくれたし、日本語の勉強にも一生懸命で、私が出す妙な宿題も嫌がらずにやっていた。


そうやって、私達の日々は穏やかに過ぎて行った。時々は喧嘩もしたし、旅行にも行った。確実に離れ離れになってしまう日が、1年後には来てしまうことを除けば、私達は、ごく普通の学生カップルと何も変わりがなかった。最初は、留学中のおみやげ話が出来るかなくらいの軽い気持ちでスタートさせた付き合いだったのに、実際はそんなふうにはいかなかった。


仕事を始めて10年が経ったいまとなっては、そんなのは大した障害ではないと心から思えるけれど、その頃の私達にとって、卒業したら上の学校に進んでまだまだ勉強を続けようと決めているジェロームの状況と、エスカレーター式の大学を卒業して直ぐ、深い考えもなく留学し、帰国したら中学二年の時から付き合っている智行と結婚するものと両親や智行自身も含めた周囲の人みんなに思われている私の状況は、全てを八方塞がりにするのには充分だった。

そしてその八方塞がりでどうしようもない状況の中におかれた私達は、お互いの想いをどんどん深めていくしかなかった。もしかすると、どんな恋愛も一歩一歩終わりに向かって歩いていくことに変わりはないのかもしれないけれど、確実に別れがくると自覚している私達は、まるで死を宣告された病人がふたり寄り添っているようで、どうしようもなかったのだ。




(つづく)


 凍った月が空に昇ると、なんだか昔のことを思い出す。


 最近、フランスでは各地で暴動がおきていると聞いた。


 もう10年も前、留学先の大学を決めかねていた私に「田舎ではテロはおきませんからね」そういったのは、退官間近の担当教授だった。


 その言葉に従ったわけではないけれど、私が2年間を過ごしたのは、北の方にある田舎町で、そんな小さな町も今回は暴動にまきこまれたらしい。今はもう海辺の病院で穏やかに日々を送るだけの元教授には、きっとそれは理解できないだろうことは、せめてもの救いだ。


 ジェロームに会ったのも、あの小さな田舎町だった。


 大学の寮からバスに乗って20分もかかるハイパーストアの駐車場で、いきなり声をかけられた。

「あなたは日本人?」

「ええ、そうよ」

「じゃあ、空手に詳しいよね?」

「いいえ、残念ながらほとんど知らないの」

 重たい荷物のおかげで随分と不機嫌になっていて無愛想に首を横に振る私に向かって、おサルみたいな顔の男の子は構わず空手の型をやってみせた。上段、中段、下段。 私には、それが正しいのか正しくないのか、上手なんだか下手なんだか、そんなことすらわからなかったのだけれど、彼はそんなこと気にしていないみたいだった。本場の日本人にそれを披露していることだけで、充分に満足そうだった。


「お茶をおごらせてくれないかな?」

「悪いけど、知らない人にはおごってもらわないことにしてるの。それに今はお茶をする気分じゃないし」

 私には、それ以上フランスの空手バカにつきあう趣味も親切心もなかった。


 空手バカとの再会は以外と早くて、3日後の夕方、彼は私の部屋のドアを叩いた。小さな花束を持ったサル顔の少年はドアを開けたのが私だったことにたいそうびっくりしていた。

「ここって、サビーヌの部屋じゃないの?」

「違うわ。ここは東棟の303で、サビーヌの部屋は西棟の303よ。中央階段の反対側の廊下をまっすぐいったところ」

 

サビーヌは結構な御発展家で、月にいちどはこの手の迷子が発生していた。うんざりして、ドアをしめようとした私に、サル顔の君は嬉しそうに言った。

「ねぇ、君って、この前カルフールで会った日本人の人だよね?」

「んっ?」

「自己紹介をしてなかったよね?僕はジェローム。法学部の3年生なんだ」

 私は駐車場であった空手バカのことなんか心の底から忘れていたのだけれど、ジェロームはやたらと嬉しそうに、もう一度空手の型を披露してくれた。上段、中段、下段・・・。




(つづく)