結局、その夜ジェロームが手にしていた小さい花束は、サビーヌの部屋までは行かずに私のデュラレックスのコップに飾られることになり、それから毎週木曜日の午後、私たちはカフェで待ち合わせをすることになった。といっても、別にそれはデートなんかではなくて、大学の宿題を難なくこなすほどには語学が出来なかった私と空手用語以外の日本語を覚えたかったジェロームの交換授業の場だったのだけれど。空手バカの高校生にしか見えなかったジェロームは、サビーヌに寄れば、法学部主席卒業間違いなしの将来有望な秀才なんだとか。もっともジェロームの知っている日本語は見事なくらいに空手用語ばかりだったけれど。
最初の印象は最悪だったのに、いや最悪のラインから評価曲線が始まったせいか、毎週のように話しをしていると、ジェロームの誠実な人柄や、豊富な知識、誰にも分け隔てのない正直さなんかに驚かされることは何度もあって、私はいやおう無しに彼に惹かれていった。だいたいジェロームは、私の宿題を添削してくる先生なのだから、尊敬せずにいるのは難しかったし、それにここはフランスだった。私はひとり暮らしで、うるさく詮索する親も保護者みたいな智行もいない。恋をするには申し分のない環境だ。ジェロームにしても、私は彼の愛する空手ワールドを広げてくれる女神だったから、私達が恋に落ちたのは当然と言えば当然の成り行きだったのかもしれない。
やがて毎週木曜日にカフェで待ち合わせをするこのもなくなり、私の寮の部屋には“からて”と平仮名で大書きしてある不思議なTシャツとかシェービングセットとか、やけにおっきな歯ブラシなんかが置かれるようになった。毎夜私の部屋にやってくるようになってからも、真面目で律儀なジェロームは、私の宿題を熱心に添削してくれたし、日本語の勉強にも一生懸命で、私が出す妙な宿題も嫌がらずにやっていた。
そうやって、私達の日々は穏やかに過ぎて行った。時々は喧嘩もしたし、旅行にも行った。確実に離れ離れになってしまう日が、1年後には来てしまうことを除けば、私達は、ごく普通の学生カップルと何も変わりがなかった。最初は、留学中のおみやげ話が出来るかなくらいの軽い気持ちでスタートさせた付き合いだったのに、実際はそんなふうにはいかなかった。
仕事を始めて10年が経ったいまとなっては、そんなのは大した障害ではないと心から思えるけれど、その頃の私達にとって、卒業したら上の学校に進んでまだまだ勉強を続けようと決めているジェロームの状況と、エスカレーター式の大学を卒業して直ぐ、深い考えもなく留学し、帰国したら中学二年の時から付き合っている智行と結婚するものと両親や智行自身も含めた周囲の人みんなに思われている私の状況は、全てを八方塞がりにするのには充分だった。
そしてその八方塞がりでどうしようもない状況の中におかれた私達は、お互いの想いをどんどん深めていくしかなかった。もしかすると、どんな恋愛も一歩一歩終わりに向かって歩いていくことに変わりはないのかもしれないけれど、確実に別れがくると自覚している私達は、まるで死を宣告された病人がふたり寄り添っているようで、どうしようもなかったのだ。
(つづく)