~虚ろな月によせて~ by TOY MOON 

~虚ろな月によせて~ by TOY MOON 

作家を目指して日々修行中です。 自作の短い小説や日々のつぶやきを載せてゆきます。

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そろそろ夕方の散歩もつらくなってきた。


今年は夏がやけに長くて、日が落ちる頃の涼しさは随分と心地良かったけれど、気がつけばもう十一月。夏休みの終わりに帰省したタカシは、父親が倒れてしまったとかで戻ってこないから、もう三ヶ月も会っていない。まったく、大学生というのは気楽なものだ。

タカシとは駅前の飲み屋で知り合い、春からは一緒に暮らしている。仕送りでのらくら日々を過ごしている気楽なタカシを見ていたら、働きながらマンガを描いては投稿しているのが何だか急にバカバカしくなって、蕗子は夏を前に会社を辞めてしまった。不思議なもので、以前より自由な時間は増えたのに作品はちっとも出来上がらない。生活だって、今は貯金を食いつぶしているけれど、それもそろそろ限界だ。


「今日は何をしていたの?」タカシからは毎晩十時に電話がある。一日中何もせずに家に居たと言うと、受話器の向こうからは、きまって小さな溜息が聞こえてきて、それは蕗子をこのうえなく憂鬱にさせる。それでもタカシは蕗子を咎めたりはしない。「一日に一度くらいは外の空気を吸ったほうがいいと思うんだ」いつだって静かにそう言うだけだ。外の空気だったら毎日窓越しに吸っているのに、と思いながら蕗子は答える。「そうね、明日は外に出るわ」

蕗子は夕方になると家の近くを散歩する。ベッドサイドにはタカシとふたりで夜桜見物に行った時の写真が飾ってあるけれど、タカシの不在は今では当たり前で、自分の肩を抱いて幸福そうに微笑んでいる若い男が、蕗子には会ったことのない他人にすら思える。だから夕方の散歩は、一日も欠かさずに電話をしてくるタカシへの、いわば罪滅ぼしみたいなものだ。

蕗子の散歩コースはアパートの裏にある川沿いの土手で、広瀬さんと出会ったのも散歩の途中だった。広瀬さんはフリーのデザイナーで、仕事の息抜きと称して土手のあたりをブラつくのを日課にしている。近頃はその息抜きが少し長くなって、タカシとのツーショット写真のある部屋で、蕗子に全裸でポーズをとらせたり、たっぷり時間をかけて抱いてみたりもする。

十一月の夕方、外気はかなり冷たくなってきたから、蕗子は充分に着込んで外に出る。靴ひもを結びながら、今夜タカシはため息をつかなくていいし、私はそれを聞かなくてすむんだなぁとぼんやり思う。胸の奥がじんわり温かくなって、蕗子はなんだか幸せな気持ちに包まれる。


(了)




 一階に降りると、フロントにも朝食ルームにも宿の主人の姿はみあたらなかった。
「今朝はね、父はサッカーの練習に行っているんです。ご近所でやっている草サッカーで、
大して強くもないんですけど、毎週土曜日には欠かさず練習をしているんですよ。」
 予定より一日早いチェックアウトを告げた私に、フロントの美しい女性は嫌な顔ひとつ
せずに教えてくれた。今頃気づいたのだが、どうやらこの気持ちの良い宿は、家族経営だ
ったらしい。
 
 朝食後、汽車の時間にはまだ少し余裕があったから、宿の主人にお別れを言おうと草サ
ッカーの練習場に行った。練習場といってもホテルの近くの公園にあるグランドで、ゴー
ルなんてポールが二本、両側に立ててあるだけだ。
 ピッチ脇で大声をあげて指示を飛ばしていた宿の主人は、少し離れたところに立った私
に気づいて右手をあげると、小走りにやってきた。
「お発ちですか?」
「はい。そろそろ家に帰ることにしました。」
「そう。また、来てくださいね。」
「はい、必ず。もう酔っ払って泣いたりしませんから。」
 宿の主人はハハハと笑って首を振ると、右側のゴールのポールを指差した。
「カイにも会っていくでしょう?」
 なるほど、ゴールキーパーはカイだった。

 カイとは、昨夜ホテルの前で別れた。
「本当は、トウコちゃんを僕の部屋に連れて帰りたいけれど、今は、君も僕も気持ちが弱っ
ているからね。いつか、二人とも、もっと元気になった時に。」
 そう言って小さなキスを一つすると、私の鼻先を人差し指で軽くはじいて、カイは帰っ
て行ったのだった。
 
 休憩時間になると、カイが走ってきた。私の旅行かばんにチラッと目をやって、芝生に
ごろんと寝転がった。汗のにおいがした。
「帰るの?」
「うん。大学に戻ろうと思って。」
「そう。」
「それから、お母さんにも会おうと思っているの。蓉子ちゃんは何も言わないけど、本当
はお母さんの居場所なんかも全部知っているはずだから。お母さんに新しい家族がいても
構わない。お父さんと別れた時の約束なんて私は知らないし、ただ私がお母さんに会いた
いから、会いにいこうと思うの。」
 カイは身体を起こして、ゆっくり二度うなずくと、それがいいよと優しい声で言った。
「本当はね、カイには手紙を書こうと思っていたの。ちょっと恥ずかしかったし。でも、
ちゃんと元気になって、また会いにくる、絶対。」
 差し出した私の小指に、カイの小指が絡んだ。
「ん。待ってるよ。さぁ、それまでには、僕も元気いっぱいにならなくちゃね!」
空を見上げて笑ったカイは、いきなり私の顔を両手ではさむと、ふっと真面目な顔になっ
て、射抜くように私を見た。心臓がバクバク鳴った。
「つらい事があったら、いつでも僕を呼ぶんだよ。いいね。」

 送ってくれると言うカイを断って、グランドの喧騒を背に、ひとりで駅に向かった。北
の街の太陽はなんだかやけに高く見える。
 
 春になったらお母さんに会いに行こう。そして冬にはまたこの街で、きっときっと月の
氷を見る。カイと一緒に。二人手をつないで。


(了)




 ホテルまでの帰りは、ガス灯が並ぶ運河沿いの道を歩いた。
「トウコちゃんはお母さんに会いたくない?」
「・・・・わからない。」
「何か気になることがあるの?」
「・・・お母さんが私に会いたいかどうか。会って嬉しいんだったらいいけど、つらく思う
んだったら、会わないほうがいいのかもしれない。新しい家族がいるのかもしれないし。」
「そっか。僕は、僕の父親がどんな風に受け止めるとしても、探し出して、いつかは会いた
いと思ってる。母のためにも。もちろん僕自身のためにもね。」

 凍てつく冬の空に浮かぶまぁるい月が、水面に白く映っていた。
「知ってる?こういうのを月の氷って言うんだよ。」
「ツキノコリ?」
「ん? ツキノコリじゃなくて、月の氷。水の中で月が氷っているみたいに見えるでしょ。
僕の両親も昔一緒に見たんだって。母の日記に書いてあった。」
 私の両親は、どんな風景を一緒に見たんだろう?どんな風に出会って、どんな風に恋に
落ち、そして、どんな思いで離れることを決めたんだろう。
 カイの指が頬をなぞって、私はようやく自分が泣いていることに気付いた。涙はあとか
らあとからあふれ出て、カイは何も言わずにずうっと私を抱き締めていてくれた。
 それから、私達は手をつないで、黙ったまま、運河沿いの道をホテルまで歩いた。月の
氷が白く光って揺れていた。

 その晩、私は夢を見た。夢の中の私は小さな子供で、父の膝の上で、ピアノに合わせて
幸せそうに身体をゆらしていた。ピアノを弾いているのは母だった。夢の中の小さな私は、
突然イヤイヤをして父の膝から降りると、おぼつかない足取りでピアノを弾く母のところ
に行き、左足にしがみついた。振り向いた母が、にっこり微笑んで私を抱き上げると、小
さな私はキャッキャッと声をあげ、ふっくらした手で鍵盤をバンバン叩いた。父も母もそ
んな私をただ微笑んで見ていた。母は私を膝にのせると、右手の人差し指で“ミ”の鍵盤
を叩いた。私も母の真似をして“ド”の鍵盤を押した。母は私に頬ずりをすると、髪をな
でながら「透子。私の可愛い透子。大人になっても、いつまでも一緒にピアノを弾きまし
ょうね。」そう言って、私をぎゅうっと抱き締めた。
 
「おかあさぁーん。おかあぁさぁぁーん。」
 
 自分の声で目が覚めた。枕は涙でぐっしょりで、鼻もグジュグジュだ。この街に来て三
日、なんだか毎日泣いてばかりいる。
 ベッドを降りると熱めのシャワーを浴びた。泣きながら寝ていたせいで、まぶたが重く
腫れていたから、冷蔵庫の氷を乗せて冷やしてみたけれど、たいした効果はなかった。ま
ぶたに氷をあてながら、夢の中のお母さんがとても幸せそうにしていたこと、いつまでも
一緒にピアノを弾こうねと言ってくれたことをぼんやり思い出していた。


(つづく)



父の死後の細々したことの始末は、弁護士である蓉子ちゃんのダンナさんが全て引き受
けてくれた。蓉子ちゃんは私の学校の先生で、母の妹にあたる。通学に一時間以上もかか
るその学校に私をいれたのは、親に逆らえず、母と私を引き離してしまった父の、せめて
もの罪滅ぼしだったのだろう。
 母が、離婚後ピアノの勉強を再開するためにアメリカに渡ったまま一度も戻って来ない
事や、他に好きな人なんていなかった事なんかは全て蓉子ちゃんが教えてくれた。父は父
で最期まで母のことを思っていたのか、離婚後何度となく持ち込まれた再婚話には一切目
もくれずに、死ぬまで独り身を通した。父が亡くなった今となっては、もう私の名前もわ
からなくなった祖母をのぞけば、私が心から身内と呼べるのは蓉子ちゃんだけだ。
 
 どうやら大酔っ払いになった昨夜の私は、そんな話を、宿の主人とカイにぶちまけるだ
けぶちまけて、ビービー泣いて、そのままカウンターで眠りこけてしまったらしい。
 
 カイは、デザートのシャーベットを食べながら、トウコちゃんはどうせ覚えてないんだ
ろうからと言って、昨日もしたらしい身の上話をしてくれた。
 カイは私とは反対で、お父さんのことを知らない。ある高名な企業家の一人娘だったカ
イのお母さんは、二十歳の春に旅行先で出会った鉄道技師のお父さんと恋に落ち、カイを
身ごもって駆け落ちした。
 しばらくは、三人でおだやかに、それでもとても幸せに暮らしていたのだけれど、カイ
が三歳の秋に、お父さんは仕事中の怪我で入院し働くことが出来なくなった。世間知らず
で、仕事はおろかアルバイトもしたことがなかったカイのお母さんは、大怪我をしたお父
さんの治療費や退院後の生活の面倒を全てみるという交換条件に折れて、企業家の父親に
家に連れ戻された。以来、カイは祖父母と母親の四人で暮らしてきた。
 いつもどこか淋しげで身体が弱く、入退院を繰り返していたカイのお母さんは、カイが
大学を卒業した年に亡くなってしまった。カイはお母さんの遺品を整理していて偶然みつ
けた日記帳で、死んだと聞かされていた実の父親が生きているらしいこと、お母さんが死
ぬまでお父さんを思い続けていたことを知った。それからカイは、お祖父さんの会社に入
るのを断り、この街で建築関係の仕事に就いた。それが二年前のことだ。
「僕の両親はこの街で出会ったんだ。今僕がここで暮らしているのは、たまたまやりたい仕
事があったっていうこともあるけど、それが一番大きな理由かもしれないね。」
 カイは、お父さんと離れてしまったお母さんや、強引に娘を連れ戻したお祖父さんを恨
んだこともあるけれど、結局、自分のことを大きな愛情で包んでいてくれた二人を嫌いに
なったりは出来ないのだと言った。


(つづく)



 カイが連れて行ってくれたのは、港の外れにある小さなレストランだった。シンプルだ
けど内装も洒落ていて、陸揚げしたばかりの魚や、新鮮な野菜に丁寧な仕事が施された料
理は、どれも繊細な味付けで、とても美味しかった。
「で、どこから記憶がないの?」鯛のカルパッチョを口に運びながら、楽しそうにカイが聞
いた。
「えっと、ピアノが終わって、カイがカウンターに来て、3人で乾杯して、なんだかやたら
とハイになって、いっぱいしゃべって、・・・で、その次は、服のままベッドで寝てた。」
「じゃあ、僕を口説いたこととか、トウコちゃんを部屋のベッドまで運んだら、急にガバっ
と抱きついてきたことなんかも全然覚えてないの?」
「・・・うん。」
 ドキっとした。一切記憶にない。眼の前にいるカイは確かにステキだけれど、そんな事
をしてしまったなんて・・・。しかも、そこまで露骨に迫ったのに何もなかったなんて、
よっぽどたちの悪い酔っ払い方をしていたに違いない。
「嘘だよ。そんなこと全然してないよ。トウコちゃんは、ピアノの話とか、お父さんの話な
んかをして、最後はカウンターに突っ伏して寝ちゃってただけだよ。」
 私の逡巡をさえぎるように言うと、カイは楽しそうに声をたてて笑った。

 お父さん。小さな法律事務所を経営していた私の父は、半年前に突然の心臓発作で倒れ
て、そのままあっけなく逝ってしまった。私のことを誰よりも愛してくれた父がいなくな
ってしまったショックと、父が残したいくばくかの遺産を目当てに色んなことを言ってく
る親戚の人達や、会ったこともない仕事関係の人達の対応で何がなんだかわからなくなっ
ているところへきて、一年前から付き合っていた恋人までが、しばらく連絡もしないでい
る間に、スラッと手足の長い、アイドル歌手に似た後輩に寝返っていた。そんなこんなで、
何もかもが嫌になり、ひとりで旅にでたというわけだ。あれ以来大学にも行っていない。
 
 私の両親は、私が五歳の時に離婚をしていて、その後、母には会っていない。
 きれいにお化粧をして、よそ行きの服を着た母に思いっきり抱き締められ「透子、私の
可愛い透子、大好きよ。」そう言われたのが私の記憶に残る母の最後の姿だ。母は目にう
っすらと涙を浮かべていて、明らかに普段とは違っていたのだけれど、五歳の私は何の疑
問も持たずに、今日のお母さんはきれいだなぁ、なんて的外れなことを思っていた。
 母が父と別れたのは他に好きな人が出来たせいだと、祖母や父の妹である叔母達には聞
かされていたけれど、本当の理由は別にあったらしい。
 実の兄である父が亡くなって一週間も経たないうちに、絶対嘘に決まっている父に貸し
たお金の話だとか、形だけの社員で何もせずにお給料まで貰っていた父の会社の退職手当
の話だとかを平然と私にしてきた叔母達だから、母にも相当つらく当たっていたに違いな
い。厳しいけれど、私だけにはとても優しかった祖母は、今は認知症で入院していて、最
愛の息子が死んでしまったことさえも知らずにいて、もう何も聞くことは出来ない。


(つづく)



 気が付くと、服のまま自分の部屋のベッドで寝ていた。窓から陽のひかりが差し込んで、
ベッドサイドの時計は9時半を指していた。身支度をして一階に降り、エレベーター脇の
小さなフロントで新聞をもらうと、その先にある小さな朝食ルームのテーブルについた。
私の他には、出張中らしいサラリーマンが二人と老夫婦が一組いるだけだった。
「おはようございます。よろしかったら濃い目のコーヒーをお持ちしましょうか?」
 宿の主人は、今朝はウェイターをしている。ホテル経営には、お酒も強く、早朝から深
夜まで働ける強靭な肉体が必要なものらしい。
 まだ少し頭の奥がズキズキしていたけれど、それでもトーストとサラダにポーチドエッ
グという朝食をたいらげ、新聞を読みながら、二日酔いには絶妙な濃さのコーヒーをゆっ
くり味わっていると、宿の主人がやってきた。
「カイがね、今晩8時に迎えに来ると言っていましたよ。」
「へっ?」
「ほっほぉ、さては覚えていないんですね。」
 愉快そうに笑うと、私が今晩カイに夕食に連れて行ってもらう約束をしたことや、酔い
つぶれた私を部屋まで運んでくれたのもカイだったことを嬉しそうに教えてくれた。
「もし気がすすまないようだったら、私のほうから断っておきましょうか?」
 宿の主人の親切な申し出を断って、その晩はカイと出掛けることにした。本当は彼の名
前がカイだっていうことすら私は覚えていなかったのだけれど、飲んだくれて酔いつぶれ
た印象だけが残るのはちょっと心外だった。
 その午後は、美術館に行ったり、近くの公園で昼寝をしたりして過ごした。けれど本当
は夜の約束のことがずっと気になっていた。いったいカイはどんな人なんだろう?
 
 8時きっかりにフロントに降りると、グレーのスーツに黒いシャツを着たカイが、宿の
主人とおしゃべりをしていた。
「やぁ、トウコちゃん。昨日はよく眠れた?二日酔いは大丈夫?」
「あっ。はい。なんか部屋まで運んでいただいたみたいで、ありがとうございました。」
「・・・・ん?」
 不審そうに私を見るカイに、宿の主人が、こちらのお嬢さんは昨夜の記憶が全くないら
しいんですよと愉快そうに告げた。カイはゆっくり二度うなずいて、じゃあ自己紹介をし
ないといけないのかなぁとつぶやき「とりあえず、行きましょうか。」とさっきとは打って
変わったよそ行きの口調で言うと、先に立ってドアを開けてくれた。
「トウコちゃん、昨日と同じに呼び捨てでいいからね。“カイ”で。」


(つづく)



 カイと出会ったのは、まぁるい月が白く光る冬の夜だった。行き当たりばったりの旅を
してやってきた、北の街の小さなホテル。部屋に荷物をおいてから、一階にあるシックな
バーでひとり夜食を食べていると、道路に面したドアが開いて背の高いこげ茶のスーツの
男性が入ってきた。それがカイだった。
 カイは宿の主人と短い言葉を交わすと、窓際においてあるピアノを弾き始めた。ガッシ
リとした身体と大きな手に不釣合いなほど繊細な音で、私の聞いたことのない、それでも
冬の月夜にピッタリの優しくて寂しい曲を弾いた。
「彼、なかなかでしょ?」
 夜はバーテンに変身する宿の主人が、チップスをお皿に移しながら言った。
「いい曲ですね。」
「即興なんですよ。近所に住んでる男でね、気が向くとピアノを弾きにくるんですよ。」
「ふぅん。じゃぁ、プロじゃないんだ。」
「そう。彼はまぁ、平たく言えば普通の勤め人なんですよ。本当はピアノバーのオヤジなん
かの方が板につきそうですけどね。でもそうなると、こっちの商売は、ますますあがった
りでしょうかね。」
 そろそろ空になりかけた私のグラスに、頼んでもいないビールのお代わりを注いでくれ
た宿の主人は、片目をつぶって愉快そうに笑った。バーには他にお客もいなかったし、ラ
イバルがいなくても商売っ気は全然なさそうだ。
 大皿にもられたチップスをつまみながら、静かだけれど心に染みるピアノの音にゆった
りと聞きほれていた。
 30分ほど経っただろうか。ピアノを弾き終えたカイを小さな拍手でカウンターに迎え
ると、私達は、やけに楽しく、三人でたくさんお酒を飲んだ・・・・らしい。
 私には、その夜のそこから先の記憶がない。


(つづく)




今日は新月。 でも月の姿は見えない。


見えないものを信じること。 見えないものに焦がれること。


切なくて強い気持ち。 折れそうになっても持ち続けていたい気持ち。


きっと夢を叶えるために。



 

物を書く人になりたいっていうのは、子供の頃からずっと思っていたことで、実際小さい時は、友達と遊んだりするよりも、ひとりで本を読んでいることの方がずっとずっと好きでした。


何が書きたいのかというと、究極的には「愛」なんだけど、恋愛っていうよりも、家族愛とか人間愛とかそういうのを書いていけたらいいなと思っています。


去年の春、父を突然の事故で亡くして、本当にバカみたいに「親の愛」を思い知りました。 いかに守られていたのか、想われていたのかを・・・・ 


そして「死」っていうのが、どれほどに痛いのかっていうのもわかった気がしています。


だから、怖い場面とか死んじゃう場面とかのない、淡々とした家族の話なんかが書けたらいいなと思っているのです。

「あぁっ!」
 ウソだ。絶対にウソだ。三回くらい目をこすってみたけど、やっぱり見える。池の中洲
みたいな小さな円形の緑の島にちょこんと赤い亀がいた。甲羅だけじゃなくて全身真っ赤
だ。だけど“池の主”っていうわりに、亀吉はビックリするくらい小さな亀だった。
「ほほぉ。かめきちいぃ!久しぶりだなぁ。」
 僕の声に振り向いたじいちゃんが、まるで知り合いにでも呼びかけるように言うと、亀
吉は真っ直ぐに池を泳いで渡り、じいちゃんの足元まで小さな足をフル回転させて歩いて
きた。僕が普通に歩くのと同じくらいのスピードだと思うけど亀吉としては猛ダッシュな
んだろう。
 それからなんだか嬉しそうに手足をバタバタさせてじいちゃんの事をじっと見た。
「ヒロアキ、これでお前にもラッキーが来るぞぉ。」
 じいちゃんは嬉しそうに亀吉を手に乗せて甲羅を3回なでると、そうっと僕の手に乗せ
た。僕の手の平で亀吉がモゾモゾと動いた。
 
 ふっと昨日自転車置き場で見たレイコの姿が浮かんだ。少なくとも今の僕の状況はラッ
キーとは程遠い。
「なぁヒロアキ、転ぶってのは悪い事ばかりじゃないぞ。痛い目にあったり、挫折したり、
そういうのがどのくらい多いかっていうのが人間の幅ってもんだよ。両足を思いっきり踏
んじ張って前向いて立ってろ。そうすりゃなんとかなるもんだ。」
 じいちゃん、あんたの言葉は沁みるよ。いつだって。
 
 いきなり目の前が真っ暗になった。ビックリして左右を見回すとソルの声が聞こえた。
「ヒロアキ君、もう時間なんだ。今いかないと軌道に乗り遅れちゃうんだ。じっとしてて。」
 そんな事言われても僕の手の平には亀吉が乗ったまんまだし、ひいおじいさんにもお別
れの挨拶くらいしたかった。じいちゃんにさよならだって言ってない。でもソルは相変わ
らず僕の思いなんかお構いなしらしくて、いきなり両側からものすごい勢いの風が吹いて
きて、それから段々にまわりが白くなっていった。

 
「ヒロアキ、いつまで寝てるのぉ?」
 母さんの声で目が覚めた。僕は、普段と変わらない自分の部屋の自分のベッドで、いつ
ものように丸めた布団を両手両足で抱き込んで眠っていた。
 そのままぼぉっととしていると、足音がして部屋のドアが乱暴に開いた。
「ヒロアキ、具合でも悪いの?いくらお休みだからって夕方まで寝てるなんて、おじいち
ゃんじゃないんだから。」母さんは僕のオデコに手を当てて熱はなさそうねと言うと、もう
すぐ夕食だからいい加減に起きて着替えなさいと言いおいて出ていった。そういえば亡く
なる前の1年くらい、じいちゃんは寝てばかりいたんだっけ。
 
 パジャマを脱ごうとして、髪の中に細かい砂みたいなのがいっぱい入っていることに気
づいた。右手を鼻に近づけてそうっと嗅ぐと、かすかに亀の匂いがする。
 
 ふいに自転車置き場でみたレイコの姿が浮かんで、胸の奥がズキズキと痛んだ。
 
 じいちゃん、僕、頑張って、両足を踏んじ張って前を向いて立ってみることにするよ。
 
 窓を開けると、群青の空にまぁるい月が浮かんでいる。今夜は満月だ。



<了>