Agnus Dei -2ページ目

Agnus Dei

気取らず、前向きに、美しく。

仕事の関係で「好きな言葉」を対外的に載せなければならないことになって、さてどうしようかと悩むわけです。僕はカトリックの信者ですから、当然、信仰で得た素晴らしい言葉というのはたくさんあるわけで、好きな言葉ももちろんそこから選びたいわけです。でも、あまり見た瞬間に「うわっ、クリスチャンだ」と思われるような言葉だと、仕事に支障が出るかもしれない。いちおう、そのへんはわきまえているわけです。信仰は僕にとってなによりもたいせつなものだけど、社会において円滑な人間関係を阻害してしまう可能性もありうる。だから、時と場合に応じて「クリスチャンっぽさ」というのを隠すことも大切なのです。


僕が最初に聖書に興味を持つに至った言葉は「罪なき者まづ石を擲て」でした。姦通の罪を犯して石打ちの刑に処されそうになった女性を救うため、イエス様が律法学者たちに告げた言葉です。この言葉は、いわばコペルニクス的転回ともいえる衝撃を高校時代の僕に与えたのです。

善悪とはなにか。人を裁くとはなにか。そういったことを考えさせられる。勧善懲悪とはいうけど、そもそも善悪ってなんなのかっていう。

でもこの言葉は、僕の職業柄、「好きな言葉」として掲げるととある誤解を招く可能性があるので、やめました。


「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエス様の御言葉も、大好きです。これもかなりの衝撃でした。世間の一般的な考え方とはだいぶ違いますよね。でも今ではこの考え方が自分にとってのスタンダードです。ゴルゴタで十字架につけられたとき、イエス様は最期まで、自分を迫害する者たちのために祈っておられました。これを実践できるような人間になりたい。

でも、これはあまりにもキリスト教色が強いので到底好きな言葉として掲げることはできません。


最終的に僕が選んだのは、「自分を捨てて初めて自分を見いだす」という言葉です。アッシジの聖フランチェスコによる(とされてきた)平和の祈りの一節です。カトリックの訳にのみこのフレーズは出てきます。他の訳だと「自分を捨てる」ことと「死」を結びつけているので、これは社会的にはなかなか出しづらいだろうと。というわけで、ぱっと見キリスト教色がないと思われる、でも気になった人が検索したらすぐカトリックのものだとわかる、とてもバランスのいい立ち位置の言葉だなと思い、これにしました。

中身としても、自分にピッタリ。僕は自分のエゴなんて全部捨ててしまいたいといつも思っています。エゴに振り回されたときの自分が嫌い。人のためとか、神様のために何かをした時の自分ってすごく好きだし、結局そういう時こそ自分らしくやれてるんですよね。

自分を捨てて一生懸命仕事をして、神様とマリア様が喜んでくれるような生き方ができますように。

明日から仕事が始まるわけですが、幸いな事に僕は職場の雰囲気がとても好きなので(もちろん大変なことはたくさんありますが、自分にとってこれ以上ないほど相性のいい環境だと思えているので、嫌なことも我慢できるし、頑張れるのです)、だるいなあとかはあまり思っていません。むしろ年末年始の休みでちょっと体がだれてしまったので、また明日からシャキッと働きたいな、といった感じです。


さて、職場の人たちと会うのは去年の忘年会以来になるわけですが、忘年会二次会で、こんな一こまがありました。二次会の会場のお店は色んな種類の美味しいビールを出すこじゃれたバーだったのですが、そこにアコギが飾ってありました。当然、盛り上がってくると、誰か弾けという流れになります。で、僕もご多分に漏れずギターを渡されたのですが、チューニングが狂っていて、これは直さなきゃいけないなと思ったのです。チューナーもないので耳を頼りにチューニングをしていたのですが、そうすると、「そんな細かいことはいいから、狂っててもいいから弾いて歌えー!」という楽しそうな野次が飛んでくるわけです。


困りました。僕は、チューニングが狂ったまま弾くなんて、歌うなんて絶対にできないのです。


店内貸し切りで店がうるさかったのもあって音がよく聞こえず、結局ちょっと時間がかかってチューニングをばっちりしてから歌ったのですが、その時点ではギャラリーが半分以下に減っていました。聞いてくれた人はお世辞でも「すごい!さすがガチでやってただけあるね」と褒めてくださったのですが、この場にふさわしい対応ではなかったなあと思うんですよね。

その一方で、フォークソングなんかを嗜んでいた先輩は、チューニングが狂ったままのギターで、とにかく思い切り良く歌う。ずれてても、歌う。それで場は盛り上がっていました。

ここで、チューニングの狂いに気づけない音感の無さを指摘するのは非常に意味のないことで、愚かですらあると思うのです。

だってここでは明らかに先輩の「音楽」が正解だったわけです。僕の「音楽」は、人の心をつかめなかった。


音楽ってなんなんだろう、そう考えた時に、答えはTPOに応じて変わってくるんだろうなと思うのです。ヴィジュアル系バンドなんかをやっていたときは、とにかくパフォーマンス命だった。お客さんの女の子たちを盛り上げる、ホストみたいな存在です。僕はそういうのが苦手だった。曲で勝負、音楽で勝負、そんなことを考えていたら、ライブで思ったよりお客さんがつかなかった。結局、求められている「音楽」をやれなかったんですよね。元アイドル歌手のきれいで歌のうまい女の子とユニットをやっていたときは、曲と歌はいいねと褒められたけど、僕が前に出過ぎだとたしなめられた。美男美女で付き合ってるみたいで印象悪いからダミーでもいいから他のメンバーつけるか、もしくはボーカルの子だけソロで前に出てきたほうがいいとまで言われました。ここでも、僕は求められている「音楽」を演じることができませんでした。


結局いろいろ迷走して、今は仕事の合間に、趣味としてクラシックギターを弾くのがとても楽しくて、ようやく自分にぴったりのものに出会えたなあという気持ちでいます。音楽には色んな種類があって、どれがいいとか悪いとかまったくないけれど、やっぱり自分にあった音楽のかたちがあると思うんです。


クラシックギターは、飲んだくれが聴く音楽でもタバコまみれのライブハウスで聴く音楽でもありません。チューニングが狂ったまま弾くなんてありえません。そのぶん、高い技量と並大抵ではない練習量が要求されます。バンドの時は適当にちょろっと手癖でピロピロやってただけで、得意のカッティングをツインリバーブでかましただけで、もてはやされましたが、クラシックギターではミスしまくりで、自分の腕の無さに嫌気がさすことばかりです。でもやっぱり弾いているときは幸せな気持ちになれるし、うまく弾けたときの喜びはとても大きいのです。

クラシックギターにも悪いところはもちろんあって、けっこう難しいことやってるのにあまり盛り上がらない(笑)つまり、聴き手のニーズに応えているとは必ずしも言いにくいのです。忘年会の二次会ではチューニングが狂っていたとしても置いてあったギターをすぐ手にとってジャーンと弾いてすぐ歌うのが正解なのです。


いろいろあるけれど、みんなで音楽をやることに疲れた僕にとっては、ひとりで静かな部屋で、おいしく淹れた紅茶でも飲みながらクラシックギターの練習をしている時間が幸せですね。

いつか僕の先生がやっているように、語りとギターが半々くらいの、楽しくこじんまりとしたあたたかいミニコンサートを開けたら嬉しいなと思います。


なんかだらだらと書いてしまいましたが、人それぞれ、いろんな音楽のかたちがあるっていうのは、これからも肝に銘じておこうと思います。どのかたちも尊重できたらいいな。

お待たせいたしました。旅行から一ヶ月が経ってしまいましたが、五島列島旅行記、完成しました。

旅行から帰ってきた直後は、あまりにも興奮していて、早くこの感動をブログに残したい!と思っていたのですが、思い入れが強すぎてなかなか一気に文章におこすだけの時間がとれず……今日、正月の慌ただしさも収まって、まだ仕事が始まるわけでもない、とてもゆったりとした時間が訪れたので、以下、一気に書き上げました。


……

12月のはじめ、福岡を訪れる用事があったので、この機会にと前から行きたかった五島列島、長崎を旅行してきました。五島列島とはいっても結局行けたのは時間の関係から一番有名な福江島のみ。しかも想像以上に島が大きかったので、半分しか回れませんでした。それでもとても有意義な旅になりました。長崎でも本河内の聖母の騎士を訪れたり、浦上天主堂で御ミサにあずかったりと、カトリック信者として夢のような時間を過ごせたのですが、これについては措いて、この記事では福江島での教会めぐりについてのみ、書きたいと思います。


前日は福岡の中洲で現地の知人と深夜2時過ぎまで飲んでラーメン食べてとかなりはっちゃけていたのですが(笑)、翌朝は7時に起きて、気持ちを切り替えて早速福岡空港へ。福岡は中心地と空港がほど近いのが本当に助かりますね。

福岡空港から、「五島福江」という空港に行く便が出ているので、それに乗ります。とても小さな飛行機で、休日なのに乗る人もそんなに多くない。



眼下に広がるきれいな海と島々。ちなみにこれは五島列島ではありません(近くなってきたらカメラ使えなくなっちゃいますからね……)。



1時間ほどで、無事、到着!ほんときれいな海!

現地の方いわく、前日はPM2.5がひどくて景色が悪かったそうで、今日来れてよかったねとのこと。実は僕ってかなりの晴れ男なんですよね。この日も最初は曇のち雨の予報でしたし。ほんと、聖霊の導きを感じます。



お世話になった池田レンタカー。ここで原付バイクを借ります。とっても優しくて気さくなご夫婦がやってらっしゃるレンタカーショップで、値段もとても良心的。細かい値段は忘れちゃいましたけど、安くてびっくりしたのを覚えています。


グローブは自分で持ってきたものをつけて、ヘルメットは借ります。寒いだろうからカシミヤのカーディガンに北海道の冬を乗り切ったダウンも着て、耳あてもする完全装備でいざ出発!



これはあとで撮った写真なのですが、こんなかっこで走り回ってました(島民の方に全然会わなかったので、これはセルフタイマーで撮りました、笑)


しかしなんでこの寒い12月にバイクで回ることを考えたかというと、レンタカーがあんなに安いとは思わなかったのでどうせひとりだしとケチったのと、福江島はもっと小さくて半日くらいで回れる島だと勘違いしていたことが理由として挙げられます。まぁ結果として天気が素晴らしく良かったからそんなに寒いとは思わなかったし、なによりも五島の風を感じながら走ることができたから、結果オーライです(^^)


最初は福江島一の観光名所、堂崎教会へ!一番の観光名所っていうくらいだから市街地からほど近い場所にあるのかと思いきや、普通にバイクで20分は走らなければつかない場所にありました。しかも、道中全然人がいない(笑)


こんな感じで美しい海を見ながらひたすら走ります。気持ちいい!いちおう聖地巡礼に来ているので気持ちを高めるために口ずさむのは全部天使ミサです(傍目から見たら異様な光景でしょうね……グロォリアインエクセルシスデェエ~オ~♪とか歌いながらバイク乗ってる青年、笑)。



無事到着しました、堂崎教会!うーん、やっぱりめちゃめちゃ趣がある!手前の像は堂崎教会で活躍された神父様の像です。聖堂の中は資料館になっているそうなので、拝観料を払って中へ。うん、やっぱり誰もいない(笑)

でもおかげで静かな時間を過ごすことができました。隠れキリシタンの方々の素朴で力強い信仰心をうかがい知ることができる貴重な展示物がたくさん。思わず圧倒されて、涙がこぼれてしまいます。

19歳で殉教された聖ヨハネ五島の遺骨も展示されていて、思わず目の前で跪いて十字を切ります。今僕がカトリックの信者として、たまに悪口を言われたり馬鹿にされることもありながらも自由に、自分の信じるべき神様をきちんと信じることが許されているのは、こういった方々の犠牲があったうえでのことなのだと思うと、感謝の気持ち、畏敬の念が自然と湧き上がってきます。


あ、ちなみに、教会の聖堂内部の写真は、撮っていないので載せません。許可無く撮影することはマナー違反ですし、神様のいる場所です。どの教会の聖堂も本当に素敵なものだったので、興味のある方はぜひ実際に訪れて生で見て欲しいですし、それでなくても、Googleの画像検索などで教会の名前を入力すれば必ず聖堂内部の写真も出てくるので、それを見て適宜雰囲気を想像してみてくださいね。


教会を出ると、外に聖ヨハネ五島の磔刑像があります。ものすごく痛々しく、リアルです。圧巻です。涙が出てきます。そして、美しいマリア様像もあります。



無原罪のマリア様かな?と思って近づくと……



「ろざりおのさんたまりや」との記載が。「さんたまりや」って表現、好きです。キリシタンの方々の素朴で力強く美しい信仰心を感じることができるから。

余談ですが、「隠れキリシタンの発見」として有名なプティジャン神父による信徒発見のとき、マリア様像を見た隠れキリシタンの方々は、「わぁ、ほんとうにさんたまりやさまだ!」と感激されたとか。この話を聞いたとき、涙が出てきてしまいました。涙腺弱くなったんですかね。「さんたまりやさま」って、なんて美しい響きなんだろうなって。ひらがななのが、いいですよね。


そういえば、この堂崎教会の資料館に、「三次わん様」と書かれた碑の写真があります。これはなにかというと、おそらく「サンジョアン」、すなわち「聖ヨハネ」をさしていて、隠れキリシタンの方が弾圧を免れるために隠語的に使っていた呼称なのではないかと言われているのです。武士の形をした聖像とかもありました。とにかく、本当に、必死だったのです。

復元された踏み絵も展示されていました。無原罪のマリア様やイエス様の磔刑像、山上の垂訓の絵などがあります。信仰のない方にとってはなんてこともないかもしれないですけど、クリスチャンにとっては踏めるわけがないのです。僕も、踏めと言われたら断固拒否します。でも拷問に負けて踏んでしまうかもしれません。そしたらあとで徹底してお祈りをしてマリア様に謝ります。そういう感覚なのです。


誤解のないように言っておきたいのですが、僕はキリシタンを弾圧した側を糾弾しようとしているわけではありません。キリシタン大名が神社仏閣を破壊したという話もありますが、おそらく、真実なのでしょう。正直、お互い様なところもあるのです。キリシタン大名に取り入るために改宗した人もたくさんいたと聞きます。どっちがいいとか悪いとか、そういう話ではないのです。でも、拷問されても気持ちを変えずにただひたすら素朴で力強い信仰を守り抜いて、それゆえに弾圧された人々、僕たちカトリック信者の先輩ともいえる人たちですが、彼らには、罪はありません。そんな人々に対し畏敬の念を示すことは、誰かを悪者に仕立てあげる意図を含んでいないことに、注意していただきたいと思います。


話を戻して、旅の続きです。

次は、堂崎教会から一番近い場所にある、浦頭(うらがしら)教会に向かいます。工事現場のおじさんに道を聞いて、ひたすらのんびりした田舎道を走ります。



遠くからでもわかる大きな十字架が目印。この地域の中心的な役割を果たしている比較的大きな教会です。



聖堂に入ると、黒い木彫りの、大きなイエス様の磔刑像が目に飛び込んできます。本当に、大きいです。ものすごい、圧倒的な存在感で、心臓を撃ち抜かれたような心地がしました。迫力がありすぎて、跪いて祈りを捧げている間も心臓がバクバク……。他はまったくもってシンプルな聖堂なのです。ただとんでもなく迫力のある磔刑像だけがある。五島の教会を評して「趣がありすぎて、ちょっと恐くなる」と僕の代父の先生がおっしゃっていたのはこのことかと。畏敬の念を抱かずにはいられません。こじゃれたおしゃれな素敵な教会☆という概念は、この島にはないのです。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9章23節)

イエス様の言葉が染みます。 



大きな橋を渡って、次に目指すは今回一番見るのを楽しみにしている白亜の水ノ浦教会!と思っていたのですが、どうやら道を間違えてしまったらしく(地図があまり詳細でないし、iPhoneも圏外だし、看板もないのでわかりづらいのです……)、水ノ浦教会とは程遠い場所についてしまったのですが、これが結果オーライで、ガイドを見ただけでは別に行こうと思わなかったであろう、素晴らしい教会にたどり着くことができました。



それが、この宮原(みやばら)教会。古い小さな民家、といった感じの建物で、畑の中にぽつんとあります。言われなければ絶対通り過ぎてしまうような素朴な建物ですが、



ちゃんと十字架があります。

おそるおそる中に入ると、実に質素な、本当に質素な聖堂。でも、必要なものはすべてあるのです。壁掛けの磔刑像、イエス様の像、マリア様の像、これらはすべて家庭用のサイズ。僕の部屋に飾ってあるものと全然変わりません。でも、本当に本当に美しいのです。聖水もおいてあります。それと跪き台。これだけあれば、十分なのです。迫害から逃れてきたキリシタンの方々の集う場所として作られた完全なる手作り教会であることを強く実感させてくれる、素晴らしい教会でした。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節) 

イエス様の言葉が思い起こされます。これが教会なのです。



せっかく宮原教会まで来たので、地図で見た感じだと近くにあると思われた半泊(はんとまり)教会を目指すことにしました。しかしこれが予想外に大変で、写真のように山道をひたすら走ります。しかもすべての道が車一台分しか通れない細い道で、イッツーでもないので、これ車で行ってたら途中で対向車が来たらどうすんだろうかと心配になりながらも、まあ原付だからその心配もないだろうと、誰もいない細い山道を20分ほどひたすら走りました。正直、不安で怖かったです(笑)



山を越えると突然視界が開け、こんなきれいな海が見渡せます。なんでこんな山道越えたところに教会なんて作ったんだろうと思っていたのですが、違うんですね。海経由で、こっちの浜に漂着したキリシタンの方々が作った教会なんですよね。半泊という地名の由来も実はこれに関係しているのですが、書いていると長くなってしまうので、興味のある方は調べてみてくださいね(^^)



半泊教会の聖堂は青を基調にした非常に美しい聖堂だというのでかなり期待していたのですが(ここに来るまで超大変だったしね)、なんと門が閉まっていました……。「通常は開いています」とガイドにも書いてあったのに……。残念。きっとこれは将来の奥さんでも連れて夏の気持ちいい時にでもまた来てねという神様からのメッセージなのでしょう。



せっかく来たので記念にパシャリ。(誰もいなかったのでセルフタイマーです、笑)


この時点でちょうど12時を回ったあたり。長崎に行くためのジェットフォイルが16時過ぎの出発なので、急がなければなりません。市街地に戻ることにします。思いのほか福江島が大きく、時間がかかってしまったので、島の反対側にある井持浦(いもちうら)教会のルルド参拝なんて夢のまた夢、これも将来の奥さんと泊まりで来てレンタカー借りて行ってねということなのでしょう。とりあえず午後の照準を水ノ浦教会とその近くにある楠原教会、それから市街地にある福江教会に絞ることにします。


お昼は島民の方に聞いた某お寿司屋さん(ガイドでも高評価)でランチを食べたのですが、うーん、やっぱり函館で生活していたゆえに寿司に関しては舌が肥えてしまったのでしょうか、あまりピンとはきませんでした。でもお店の方はとても素敵な方でした。


そして市街地の福江教会へ。当然、島内で一番信者の数が多い教会です。



この福江教会がですね、ほんっとーーーーに良かった!!こんな教会、都心にあったらいいのになあ。聖堂がとっても素敵なので、ぜひ画像検索とかで写真を見てみてくださいね。磔刑像の上にイエス様のみ心の大きな御絵があって……こんな配置の教会初めて見たなあ。

聖堂に入ろうとすると、シスターの女性と偶然会って、とても爽やかで素敵な挨拶をしていただきました。気持ちがいいなあと思って聖堂内に入ると、きれいな聖堂の雰囲気とは正反対の、とても痛そうな表情をされたイエス様の磔刑像が。こんな表情の磔刑像、見たことない。とにかく、ものすごく痛々しいです。これが真実なんでしょうね。パッションを見たときの気持ちが蘇ります。

それでもとてもきれいで上品で素敵な聖堂なので、しばらく歩いて回っていたら、オルガンのところで先ほどのシスターの方が子どもたちと一緒にオルガンを弾いたり歌を歌ったりしていました。途中から信者の方と思われる男性のかたも現れて、みんなで一緒にクリスマスソングを歌ったり、子どもたちのリクエストでAKBの曲まで歌ったり。土曜の昼下がり、田舎町の静かできれいな教会で、とってもすてきな時間が流れていました(^^)



福江教会のルルドです☆


かなり長くなってしまいましたが、この記事もあと少しなのでもうちょっとだけお付き合いください(笑)


最後に向かうのは、水ノ浦教会と楠原教会。とくに水ノ浦教会は島を訪れる前に下調べしたときに一番気に入って、ぜひ行きたいとずっと思っていた教会。白亜の本当に美しい教会なんです。



国道384号をひたすら走ります(写真は帰り道に撮ったものです)。それはもう、不安になるくらい山道をひたすらひたすら走りまくります。途中で数少ない車とすれ違うわけですが、皆さん僕のことジロジロ見てましたね。そりゃそうですよね、こんな島でなんでひとり水曜どうでしょうやってるんだっていう(笑)



ひたすら走ります。もう疲れました。寒くて鼻水垂れてくるし車にすればよかったー!

と、思い始めた頃に、



ようやく「水ノ浦教会」の看板が!!テンション上がります!



とりあえず鼻をかみたいのでローカルのコンビニに立ち寄りポケットティッシュを購入。ついでにホットカルピスも。てかRICなんてコンビニ聞いたことないぞ。市街地にあるのもこのコンビニなんですよねえ。ローカルコンビニを見るとテンションが上がる、元コンビニ店員のわたくし。

※今調べたら、九州及び山口は下関のローカルコンビニなんですね……でも福岡では見なかったなあ。今度熊本出身の先輩に聞いてみよう。


鼻をかんでカルピス飲んで元気を取り戻して、しばらく走っていくと、ありました!



小高い丘の上にある白亜の美しい教会!!憧れの水ノ浦教会です!本当にため息が出るほど美しいです。聖堂の中はそれ以上に素晴らしかった。ここに写真を載せられないのが残念ですが、皆さんぜひ実際に訪れてご覧になってみてください☆



教会の横を見ると、丘を利用して十字架の道行の木彫が置かれています。カトリック信者がニヤリとしてしまう瞬間ですね。水ノ浦教会のレビューやガイドをしているブログやサイトをいくつか見ましたが、これが十字架の道行だとわかって書いている人はひとりもいませんでした。残念なことですが、仕方がないですね。



ピエタ。



先ほども登場した、聖ヨハネ五島の立像です。



この丘の上からは最高の景色のご褒美があります。ほんと、素敵ですよねえ。風の音と、木の葉がひらひらと落ちる音と、鳶の鳴き声と、波の音しか聞こえない、とても贅沢な時間です。だれもいない贅沢な景色を独り占め。これ、夏になったらもっと混むんでしょうか。そうだとしたら、少し嫌かもしれない。それくらい、贅沢な時間でした。



書きすぎてしまったので、まいていきます。水ノ浦教会へ向かう国道を途中で県道の方に折れて行くとある、楠原教会です。堂崎教会と似ていますが、個人的にはこちらのほうが好きですね。椰子の木が印象的です。聖堂もとても素晴らしかったです。ものすごく神秘的で、天使の癒やしを感じました。これもぜひ画像検索していただきたい。



そしてなんとこの教会にはルルドではなくてファティマがあるのですよ!子どもたちの姿がとっても可愛らしい、癒しの空間です。ファティマのお祈りを捧げてきました。


そんなこんなで時間いっぱいになってしまったので、急いで市街地に戻り、池田レンタカーにバイクを返却。「またおいでね」とお父さんのやさしいお言葉をいただき、「はい、もちろんまた来たいです!」と元気よく返事をする僕。本心からの言葉だった。だって、まだ見てない教会もあるし、今回訪れた教会だって何度でも訪れたいし、そして将来の奥さんに全部見せてあげたいし。一緒に静かで素朴で力強い信仰の空間を感じたいし。



そんなこんなで、急いでジェットフォイルに乗り、長崎に向かいます。


旅行記はこれでおしまいです☆長くなってしまいましたが、まだまだ語りたいことはたくさんあったりして。とにかく、五島列島のキリシタンの方々の素朴で力強い信仰や、信者の方の高齢化が進んで信者数もどんどん少なくなっていっているなか、大切に守られている教会の姿にふれ、カトリック信者として本当に何物にも代えがたい素晴らしい経験をすることができたと思っています。

大浦天主堂を訪れれば多くの人がキリスト教に興味を持つと聞きます。実際僕が訪れた時も、明らかに信者ではない方だけど非常に熱心にご覧になっている方がたくさんいました。嬉しいなと思う。そして、それ以上踏み出せる環境が日本において整っていないことをもどかしく思う。


あるとき僕がカフェでコーヒーを飲んでいたら、隣に座っていた女性が、友達に、「ほら、私キリスト教はだいっきらいだけど、キリスト教関連の絵とか音楽とかは好きだからさあ」みたいなことを話していて、僕は悲しくなりました。どうして「だいっきらい」って断言できるんだろう。絵や音楽が好きなら、大好きになる素質あります。きっと、キリスト教関係で嫌な思いをしたり、偏見があったりするんだろうけど、真実を見たらきっとキリスト教が好きになると思います。僕はその真実を可能な限り体現して、伝えていける人間になりたい。カトリックのど真ん中を生きたい。

僕は今の家から歩いて5秒のところにある鎮守の神様の神社にも初詣に行きました。郷に入っては郷に従え、礼儀作法も正しく守り、深々と頭を下げているとき、一神教だろうが八百万の神だろうが、関係ないなと思いました。当然、立ち去るときも頭を下げます。神様を感じているからです。たんなるイベントじゃないのです。神様とふれあう静かな時間なのです。無宗教の人々は、クリスチャンより神社を尊重している気持ちでいるでしょうが、そういうことはないと思います。神様を知っているからこそ、他の信仰や他の神様に対して敬意を払うことができるのです。


だから、一部の人や教会を見ただけで、キリスト教がきらいだなんて、言わないでください。

真実はどこにあるか、それを僕自身の生き方で示すことができたら一番いいのですが、僕自身も未熟な人間です。


……真実はきっと、この五島列島にあるのだと思います。