好きな言葉 | Agnus Dei

Agnus Dei

気取らず、前向きに、美しく。

仕事の関係で「好きな言葉」を対外的に載せなければならないことになって、さてどうしようかと悩むわけです。僕はカトリックの信者ですから、当然、信仰で得た素晴らしい言葉というのはたくさんあるわけで、好きな言葉ももちろんそこから選びたいわけです。でも、あまり見た瞬間に「うわっ、クリスチャンだ」と思われるような言葉だと、仕事に支障が出るかもしれない。いちおう、そのへんはわきまえているわけです。信仰は僕にとってなによりもたいせつなものだけど、社会において円滑な人間関係を阻害してしまう可能性もありうる。だから、時と場合に応じて「クリスチャンっぽさ」というのを隠すことも大切なのです。


僕が最初に聖書に興味を持つに至った言葉は「罪なき者まづ石を擲て」でした。姦通の罪を犯して石打ちの刑に処されそうになった女性を救うため、イエス様が律法学者たちに告げた言葉です。この言葉は、いわばコペルニクス的転回ともいえる衝撃を高校時代の僕に与えたのです。

善悪とはなにか。人を裁くとはなにか。そういったことを考えさせられる。勧善懲悪とはいうけど、そもそも善悪ってなんなのかっていう。

でもこの言葉は、僕の職業柄、「好きな言葉」として掲げるととある誤解を招く可能性があるので、やめました。


「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエス様の御言葉も、大好きです。これもかなりの衝撃でした。世間の一般的な考え方とはだいぶ違いますよね。でも今ではこの考え方が自分にとってのスタンダードです。ゴルゴタで十字架につけられたとき、イエス様は最期まで、自分を迫害する者たちのために祈っておられました。これを実践できるような人間になりたい。

でも、これはあまりにもキリスト教色が強いので到底好きな言葉として掲げることはできません。


最終的に僕が選んだのは、「自分を捨てて初めて自分を見いだす」という言葉です。アッシジの聖フランチェスコによる(とされてきた)平和の祈りの一節です。カトリックの訳にのみこのフレーズは出てきます。他の訳だと「自分を捨てる」ことと「死」を結びつけているので、これは社会的にはなかなか出しづらいだろうと。というわけで、ぱっと見キリスト教色がないと思われる、でも気になった人が検索したらすぐカトリックのものだとわかる、とてもバランスのいい立ち位置の言葉だなと思い、これにしました。

中身としても、自分にピッタリ。僕は自分のエゴなんて全部捨ててしまいたいといつも思っています。エゴに振り回されたときの自分が嫌い。人のためとか、神様のために何かをした時の自分ってすごく好きだし、結局そういう時こそ自分らしくやれてるんですよね。

自分を捨てて一生懸命仕事をして、神様とマリア様が喜んでくれるような生き方ができますように。