第九回・外山恒一賞 受賞者発表 | 我々少数派

第九回・外山恒一賞 受賞者発表

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   外山恒一賞

 主に反体制的な右翼運動、左翼運動、前衛芸術運動などの諸分野から、「いま最も注目すべき活動家(もしくはグループ)」を、外山恒一が独断で選んで一方的に授与する。辞退はできない。

 外山恒一のファシストとしての再臨(2004年5月5日・ファシズムへの獄中転向を経て福岡刑務所を満期出所)を記念して、2011年より毎年5月5日に受賞者の発表をおこなう。

 授賞は、外山恒一が受賞者の活動に「全面的に賛同している」ことを意味するものではなく、あくまで「いま最も注目している」ことを意味するものである。多くの場合、授賞は好意的評価の表明であるが、時にはイヤガラセである場合もありうる。

 外山恒一が創設した革命党「我々団」の公然党員は授与の対象とならない。

 賞状・賞金・賞品はない。「外山恒一と我々団」や「我々少数派」などの外山恒一関連サイトで授賞が発表されるだけで、受賞者への通知もないが、受賞を知った受賞者は「外山賞活動家」であることを周囲に吹聴してまわって存分に自慢することが許される。外山賞受賞は活動家として最高の栄誉であり、いくら自慢しても自慢しすぎるということはない。


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  昨年上梓した大著『全共闘以後』にも書いたように、私は革命的高揚のサイクルの「10年周期説」をこれまで保持してきたのだが、どうも「2020年前後」は不発に終わりそうである。何かあるとすれば一昨年ぐらいからそれらしいことが起こり始めていなければならないのだが、何も起きていない。世界的にはそれなりにいろいろ起きているが、日本では何も起きていない。端的に云って、若者が死んでいるのだと思う。若者の「不甲斐なさ」を嘆くのはいかにも老人っぽいが、じっさい不甲斐ないのだから仕方がない。今の若者に比べれば我々の世代の若い頃はだいぶマシだったと思うが、その我々の若い頃にしたところで、さらに上の世代の若い頃に比べれば話にならんぐらい不甲斐ない。若者はどんどんダメになっており、まあ国が没落するというのはそういうことなんだろう。
 それに振り返ってみれば、これまた『全共闘以後』に書いたとおり、1990年前後から2010年ごろまで果敢に暴れていたその時々の「若者」というのは結局すべて、「89年革命」で感化された我々「70年前後生まれ」の活動家たちであり、例えば00年代末の高揚も、その中では相対的に年少ということになる74、75年生まれの松本哉や雨宮処凛らが30代前半という「まあギリギリ若者」として担ったものにすぎず、80年前後生まれより下の世代はほぼ「何もやってない」のである。
 もちろん(このまま国が滅びなければ、あるいは滅びたとしても)「革命的な若者たち」はいずれ登場するだろう。だがしばらくは(個人としてはともかくそれなりの規模の層・集団としては)登場しないだろう。良い兆候は何もない。私はもはやすっかり厭世的な気持ちになっている。

 


  ノミネート1 批評集団「大失敗」

 昨年9月ごろ誕生したグループのようである。10月1日に京大・熊野寮でスガ秀実氏との(『全共闘以後』刊行記念の)対談トーク・イベントをやった時に、来場していた中心人物であるらしき青年・左藤青氏に喫煙所で声をかけられ、批評誌の創刊を準備中であると聞いた。かなり長いこと話したような気がするが、活動を通じての耳学問の他はほとんど新書レベルの入門書の類のみで東浩紀なんぞは無知蒙昧の輩と断言しうる地位を確立した私に向かって、「ぼくは新書なんか一切読みませんよ」と云い放つ左藤氏のハナモチならんキャラクターに好感を抱いた。
 現時点で真に知的な若者であれば当然そうなるように、「外山恒一とスガ秀実」にかなりのところ立脚した思考を展開しているようで、エゴサをしていると彼らのツイートがたびたび視野に入るようになり、左藤氏のみならず他の同人の面々もそれぞれハイ・レベルなツイートを連発していることが分かった。
 肝心の批評誌『大失敗』創刊号は実際1月に出たようだが、それ以前の、ブログにさまざまな批評を掲載している段階で、同人の1人である赤井浩太氏が『全共闘以後』の書評を書いてくれた。また左藤氏も、「外山恒一と東浩紀」を現代の“2大思想家”的に比較して詳細に論じる、おそらく批評シーンのFラン的な現状においては野蛮きわまりないであろう挑発的な批評(前編後編)を発表している。
 べつに私に注目しているから注目し返してるわけではないが、多くの論客が私の思想なり存在なりをあれこれ論じていなければおかしいのにそうではない状況なのだから、『大失敗』の若者たちが抜きん出て優秀であることはもうそれだけで疑いない。その証拠と云えるかどうか、まず赤井氏が1月に、まあ外山賞ほどの権威はないとはいえ文芸誌『すばる』の批評新人賞を受賞している。
 私もいろいろ教えられることが多く、例えば最近読んだ中では極めつきに面白かったコレなんかも、彼らがどこかで言及していて知った。
 参考までに、彼らの宣言文「哄笑批評宣言」および創刊号の「内容紹介」

 


  ノミネート2 グリーンピースによる原発アタック
 

 昨年7月3日、環境保護団体のグリーンピースがフランスの原発にドローンを激突させたという。
 「仏原発にスーパーマンを模したドローンぶつける、グリーンピース」(AFP・2018年7月4日)
 もちろんそんな程度で原発は壊れないし、グリーンピースも(たぶん)本気で壊すつもりではなかったろう。要するに、「たまたま」悪戯レベルのものだったから大惨事にならなかっただけで、仮に強力な爆発物でも積んでたらどうするつもりだ、そういうことも可能だったんだぞ、という「警告」である。
 私も、まあ世間体があるからちょっと実行に移すのは気が引けるが、「日本の原発はてめえらのオンボロ・ミサイルじゃビクともしねえ。やれるもんならやってみろ」と北朝鮮や中国を徹底的に挑発する運動を盛り上げれば、さすがのアベちゃんもビビって原発を諦めるんじゃないかと前々から提起しているが、現実を変革する(しうる)のは「選挙」とかではなく、そうした「悪意ある頓智」である。



  ノミネート3 園良太氏のRADWINMPS抗議行動


  バンド「RADWINMPS」が昨年6月に発表したシングル「カタルシスト」のカップリング曲「HINOMARU」を左派の一部が問題にした。
 たしかに「ネトウヨ」くさい歌詞ではある。ココとかで読めるが、まあ実際しょーもない歌詞である。私はファシストだし「右翼っぽい歌詞」がイカンとは思わんが、「右翼っぽい歌詞」としても低レベルで、要は聞いたふうな、それっぽいフレーズを連発してるだけの、何も考えてないことがモロバレの歌詞である。私は基本的にはRADWINMPSは好きで(聴いているとスタッフS嬢に「人民か!」とよく叱られる)、とくに初期の「オーダーメイド」とか「おしゃかしゃま」とかにはかなり感動してもいたので、それなりに残念な気持ちにもなったが、「マニフェスト」なんかはすでにつくづくくだらなかったし、そもそもあのブルーハーツの「いかにもミュージシャン」な振る舞い丸出しの醜悪な転向を見せつけられて以来、ミュージシャンなる人種をまったく信用していないので、とくに怒る気にもなれないし、「ミュージシャンなんぞ、その程度の連中」としか思わない。「ミュージシャンは政治に口を出すな(どうせつまらんことしか云えないんだから)」と思っている。
 が、そりゃ「HINOMARU」に怒る人もいるだろう。それはそれでかまわん。
 「若いヘサヨ」の代表的活動家として知られる(『全共闘以後』でも言及している)園良太氏も、まあヘサヨだし、怒ったようだ。園氏の呼びかけで、6月26日に神戸でおこなわれたRADWINMPSのライブ会場前で、数名による抗議行動が展開され、うち1名が逮捕された(翌日釈放)。
 ネット上では案の定、「ざまあwww」的な嘲笑が園氏らに対して向けられた。抗議行動の現場でのRADWINMPSファンたちの反応も、これまた案の定、「アブない人たちは無視、無視!」的なものでしかなかったようだ。
 私はもちろん、園氏の思想や今回の行動をまったく評価しないが、園氏を嘲笑する連中なんぞは二束三文のゴミクズ人民であって、それに比べれば園氏のほうがちょっとはマシである。思想は(ヘサヨだし)間違ってるし抗議行動の手法もまったくナットランが、「とりあえず何かやってみる」のは少しは偉い。どいつもこいつも何もやらずに(「選挙」とか「国会前に集まる」とかは「何か」やってるうちに入らん)他人のやることをあれこれ無責任に論評する奴ばかりの中、権威ある外山賞にノミネートぐらいはする程度には偉いのである。
 事件直後にツイッターにも書いたが、しかし園氏は活動家としてのスキルが低すぎる。今回のような場合は、園氏がやったような、ファンの行列に向かって遠くから拡声器でワーワーやるなんてのは愚の骨頂、何の意味もない。自分たちの主張を、RADWINMPSファンのせめて10人か20人に1人ぐらいには理解してもらえる水準の語彙やレトリックで文章にまとめてビラにして、「とにかく読んでください」とやる以外に、やりようはなかったと思う。そして残念ながら、園氏にはそういうビラを書けるだけのスキルもないんだろうなあとも思う。
 そもそも園氏には、RADWINMPSに対してどの程度の「理解」があったのだろうか? 例えば長渕剛が「HINOMARU」みたいな曲を発表したとして(実際そんなような曲は長渕にはたくさんある)、たぶん園氏はわざわざ抗議行動なんかやらないだろう。おそらく多少は「RADWINMPSだからこそ」で、単にネット上で話題になってたから脊髄反射しただけで、もともとRADWINMPSには何の興味もなかった、なんてことは、いくらなんでもないとは思う。だったらせめて、
 増田聡「『愛国ソング』30年史を振り返る〜長渕剛からRADWIMPSまで」
 増田聡「ゆずと椎名林檎に学ぶべき『愛国ソング』の作法」
 に書かれてある程度のことは前提として認識しておかなければならないし、そうでなければ抗議行動的な「介入」を試みる資格がない。「資格」というのはつまり、RADWINMPSファンのせめて数パーセントが、少しはモノを考えるきっかけになるようなビラが書ける、ということである。


  ノミネート4 京都大学の一連の闘争

 

 京大のタテカン問題や吉田寮問題は一応、気にはしている。
 タテカン問題というのは、それまで京大にはたくさんあった(90年代ぐらいまではマトモな大学なら全国どこでもあった)、道路に面して構外に向けて設置された学生たちの(政治的であったりなかったりする)立て看板を、京大当局が昨年5月から、市の景観条例を口実に問答無用で撤去し始めた問題である。吉田寮問題というのは、築100年以上になる木造の京大学生寮を、むろん「老朽化」を口実に、要は長らく「学生運動の拠点」として名を轟かせている(近年はそこまで云うほどの内実はなかったようだが)同寮の存在が当局としては疎ましくて仕方がないというだけの話で、これまでもたびたび廃寮は目論まれてきたのだが、いよいよ本気で廃寮にしてしまおうと、昨年9月いっぱいで当局側が一方的に「在寮期限」を切ってきて、しかし現在も引き続き一部の寮生たちが抵抗して住み続けている、というものである。
 「タテカン文化」にせよ吉田寮的な「自治寮」文化にせよ、消えてしまえば京大も晴れて東大レベルのFラン大に堕ちてしまうわけで、それらを残すべく果敢に闘っている少数学生たちにはそれなりにシンパシーがないわけではむろんないが、もともと私は(ここらへんはたぶん誤解されていると思うが)「学生運動」に対して強い反感を持ち(そもそも私は「大学」になんぞ通ったことがない)、全共闘の問題意識を正しく受け継ぐ「大学解体」「学校解体」派でもあるので、吉田寮なんかも含めて京大は(もちろん他の大学もすべて)廃止したほうがいいと考えていて、まあ立場的には非常に微妙である。
 もちろん今回の問題はいずれも敗北必至である。
 京大でこういった闘争がそれなりに成立するのは、党派・ノンセクトの別を問わず伝統的な新左翼の勢力が、全国的にも珍しく京都にはいくぶん持続しているからなのだが、だからこそ敗北が必至でもあるのが悩ましいところである。この際まあ党派はどうでもいい。伝統的な新左翼ノンセクトが京大周辺にはまだ一定いるからこそ闘争がどうにか成立し、かつ、伝統的な新左翼ノンセクトがそうした闘争に一定の影響力を持っているからこそ絶対に勝てない、という状況なのである。
 このジレンマに気づいた部分が闘争の主導権を握るようになれば、わずかなりとも「勝つ」可能性は出てくるはずなんだが……まあ要は「ファシズム学生運動」以外に学生運動が今後再生する可能性はないことはもはや分かりきっているし、「アンチファ」みたいな寝ぼけたことを云ってる連中とは縁を切らなきゃ何も始まらないという話なんだけれども(笑)。
 なお、京大ばかり目立っている感はあるが、タテカン問題は早大でも闘争化している

 

 




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   第九回外山恒一賞

   秘密


  理由

 

 「排除アート」と呼ばれるものがある。
 駅構内(要は「屋根のあるところ」)にホームレスがダンボール・ハウスなど建てたりし始めないように「オブジェ」と称して「余計な」スペースを埋めたり、これもまあホームレス対策ではあるが、公園のベンチに寝そべることができないように手すりを設けて仕切ったりする類のことである。
 こんなものは民主的手続きでやめさせることはできないのであって(どうせ多数派に支持された差別政策なのだ)、やるとすれば「実力行使」以外にない。「排除アート」に手を貸した「アーチスト」どもが次々と凄惨なテロに遭うようにでもなれば申し分ないのだが、残念ながら現下の情勢はそこまで革命的ではないから、そのだいぶ手前のところで攻防戦を開始するのがせいぜいである。
 先日(というかこの1年間のある時に)、私も知らないわけではない何人かの若者たちが、某所で、私とは別の席で雑談に興じていた。私もずっと聞き耳を立てていたわけではないので、詳細は不明だが、どうもその中の1人が、その種の「実力行使」に時々及んでいるらしい。公園のベンチの「寝そべり防止」の手すりを、たまに故意にぶっ壊して回っているらしいのだ。
 とっても偉い!
 選挙なんぞで何も変えることはできないが、その若者は、正しい実力行使によって、わずかながらであれ確実に社会を正しい方向に変革しているのだ。しかも直ちに。
 さすがに名前を出して顕彰することは控えるが、今後もますます精進してもらいたい。多くの若者たちにも、ぜひ見習っていただきたい。