インテリでもパンクでもない自称「インテリパンク」なる恥ずかしい自称アナキスト | 我々少数派

インテリでもパンクでもない自称「インテリパンク」なる恥ずかしい自称アナキスト

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 「素人の乱」の周辺に“インテリパンク”を称するどう考えてもインテリでもパンクでもない恥ずかしい男が昔からウロチョロしており、誰が見たって水準以上にはインテリかつパンクであろう私としては、こんな男が身の程知らずにも私に時折突っかかってきたところで、昔も今も苦笑をもって遇する以外にないのであるが、そうして黙殺し続けているとそれはそれでこういう男は増長するので、たまにはガツンと云っておかねばなるまい。
 先日、森元斎の新著『アナキズム入門』(ちくま新書)をテキストに福岡で小規模な読書会を開催し、まあたぶん批判せざるをえない内容なのだろうと予想はしていたものの、必ずしも最初から批判する気満々で読書会に臨んだわけでもなく、むしろかなり虚心に、「評価すべきところは評価した上で……」と思いつつ、いざ読んでみると事前の悪い予感を遥かに下回ってヒドい代物だったので、結果としてはほとんど全否定に近い徹底批判の読書会となってしまった。その模様は録音し、テープ起こしして、月刊で発行している『人民の敵』第29号に掲載、販促のための簡単な内容紹介を(ツイッターはいわゆる複アカ問題のあおりで凍結中であるため)フェイスブックに書いた。
 すると、くだんの「インテリパンク」君がまたしてもツイッターでさっそく突っかかってきたのである。

 

 千坂恭二〜外山恒一のアナキズム理解はファッショ過ぎてダメダメだし、これはポジショントークの対抗言論でしかないな。向井孝〜矢部史郎〜森元斎の流れからすると、あまりにアナキズムに無理解だ。(3月23日10:14
 この人(引用者註.千坂恭二)のアナキズムがインチキで、向井孝さんのアナキズムがマジだよ。若い人はだまされてファッショに取り込まれてはいけない。(同10:16
 阪大まわりの若い人たちが千坂恭二のアナキズムの餌をまかれて外山恒一やファッショに通じてゆくのは、見過ごせない。矢部史郎さんが来阪する折りに、定期的に勉強会やるしかないな。ハキムベイと向井孝の読書会でもやりたいわ。(同10:22

 

 だそうである。まとめて「苦笑」で充分だが、今回は心を鬼にしてガツンと云うことにしたんだから頑張ろう。
 「ポジショントーク」をやっているのはこの男のほうにすぎないことは誰でも分かるはずだ。この男が私と千坂氏に突っかかってくるのは、単に私と千坂氏が「ファシズム」に肯定的なスタンスを公言しているからにすぎない(一応断っておくと、私は「ファシスト」を自称しているが、千坂氏はそういうわけではない)。そうでさえなければ、この男は、アナキズムの基本テーゼの1つである〝反選挙〟を誰よりもポップに展開している私や、70年代にアナキズムの最過激イデオローグとして名を馳せた千坂氏に、子犬(ただし少しも可愛くなくバカ犬)のように鬱陶しくすり寄ってきたに違いないことは容易に想像がつく(思想的には軟弱社民だが体質的にはアナキストの美質を備えているので私も引き続き一目置いている松本哉君には同情する。松本君もそろそろ思いきってファシズム転向して、こういう鬱陶しい連中を遠ざけてはどうか。べつに本気でファシストにならずとも、「ファシスト」を自称するだけでこのテの連中は寄りつかなくなってくれる。ファシズムというのはその旗の下で何を主張しようが〝自由〟な思想なので、ファシストになるには、それを自称する決意の他にとくに何も必要ない)。しかし私も千坂氏も、俗流アナキズムでは「敵だ」ということになっている「ファシズム」を称揚している。「けしからん!」とこの男は条件反射でワンワンと吠えかかってくるわけである。私や千坂氏がファシズムを「どう」評価しているのか、その中身など見ようともしない(ま、読んで理解できるアタマがそもそもないんだが……「インテリ」を自称してるくせに)。そういうのを常識的には「ポジショントーク」と呼ぶのである。
 しかも噴飯モノなのは、この男が私や千坂氏に矢部史郎なんぞを対置して「こっちこそ本物のアナキズムだ!」などと息巻いているところである。矢部については、こんなポッと出の闘争歴ほぼ皆無な門前アナキスト小僧より、歴戦のファシスト兼アナキストである私のほうが一億倍よく知っている。なにせ私と矢部とはお互いに駆け出しであった頃から10年以上もの長きにわたる親密な同志であり、その思想的変遷に(互いに影響を与え合いさえしつつ)間近で接し、99年に袂を分かって不倶戴天の敵どうしとなって以降も、私は矢部をそこらの自称アナキストどもよりよほど思想的に近い存在だと考えているし、ファシストの私と違って正直になるわけにはいかないスターリニストの立場に身を置く矢部のほうも、そう云わないだけでどうもやはりそう考えているらしいことは矢部周辺からチラホラ漏れ伝わってもくる。
 矢部はたしかにかつてアナキストであった。初めて出会った88年末、私は素朴な戦後民主主義からマルクス主義へとようやく脱皮しかけている段階だったが、矢部はすでにアナキストを自称していた。その後、91年初頭に至るまで、私と矢部はラジカルな反管理教育運動あるいは反学校運動の高揚の一翼を時に共に時にそれぞれに担うことになる。やがて運動が停滞期に入り、何ら展望のない状況の中に放り出され、過ぎ去った高揚期における自らの経験を振り返って何らかの総括を導き出さなければならない段階に立ち至った時、今から思えば、私と矢部とはちょうど正反対の方向にそれぞれ歩き始めていたのである。高揚の末期、それぞれ遅ればせながらいわゆるポストモダン思想の洗礼を受けるのだが、不思議なことに、いずれもそれを糧とする形で、私はマルクス主義を捨ててアナキストとなり、矢部はアナキズムを捨ててマルクス主義に転じようとしていた。
 92年暮れ、名古屋でアングラ・テント劇団の役者をやっていたはずの矢部が、当時も主要な足場は福岡に置いていたが東京にも出張拠点を持っていた私のその東京のアパートに突然押しかけてきた。「かくまってくれ」と云う。劇団で不義理をして逃げてきたらしい。「追われている」そうだ(その劇団とも当時から付き合いのある「劇団どくんご」の演出氏の証言によれば、たしかに追われていたらしい)。それでそのまま1、2週間だったか1ヶ月ぐらいだったか、矢部と同じ時間を過ごすことになる。その時に強く印象に残っているのが、矢部が私にしみじみと語った、矢部なりの80年代末の〝総括〟である。矢部は私を「うらやましい」と云った。私が、福岡で私自身の主宰する反管理教育運動の「組織」を持ち、その創設から解体までの一連の経緯を自らのものとして経験したことに対してである。その実態はかなりお粗末なもので、矢部の買いかぶりだと当時も思ったが、矢部は私が「〝党〟を持ったことがある」ということをなぜかことさらにうらやんでいる様子で、もしかしたら私ではなく矢部がその「組織」の主宰者だったらもっとうまくやったのに、というのが矢部の反管理教育運動の〝総括〟だったのかもしれない。ともかく矢部はその時、「オレも〝党〟を持ちたい」と深刻に語ったのである。
 翌93年、矢部は〝党〟を持った。明大ノンセクトの周辺から見つけてきたらしい、山の手緑と名乗るエキセントリックな女性活動家との〝2人党派〟にすぎなかったが、山の手との共闘関係を〝党的団結〟と称して、高円寺に拠点アパートを構え、停滞期の中でヒマを持て余して腐れ縁的にそこに蝟集してくる反管理教育運動時代の同志たちに些細なことで難癖をつけては〝除名〟するなどの、妙な振る舞いが目立つようになった。それら元同志たちの多くはそもそも〝挫折〟しつつあり、私と矢部は相変わらず闘争継続の意志だけははっきりしていたので、私は矢部のそうした唐突な〝スターリン主義的な〟振る舞いに辟易し時には批判的なことを云いつつ、矢部は矢部で私の展望を欠いた根無し草ぶりを冷やかしつつ、〝共闘〟と云ってもよい程度には近しい関係がしばらく続いた(当時「だめ連」界隈から〝矢部・山の手党〟に急接近し始めていた酒井隆史や丸川哲史らも含めて、私の主催で、単行本化もされているが酒井・丸川らにとってはおそらく〝黒歴史〟として封印されているようである「ヒット曲研究会」を〝矢部・山の手党〟の拠点アパートでやっていたのは96〜97年のことだ)。
 そのうち矢部とついに袂を分かつ時がきた。福岡で「だめ連」を真似た運動を展開し、それなりの成果を上げつつあったところに、私の私的な女性問題への介入を口実に矢部・山の手が乗り込んできて、「だめ連福岡」から私を排除し、その〝乗っ取り〟を図ったためである。そのせいでもともとショボい痴話喧嘩の類にすぎなかった私の女性問題は泥沼の展開をし、刑事事件に発展して、やがて02〜04年にかけて私は監獄生活を体験することになるのだが、はたして矢部がこの一件を現在はどう総括しているのか、そこは私にとっては謎のままである。私を〝女性サベツ者〟として排除したこと自体は相変わらず正当化しているだろうが、結局、矢部らの介入によって「だめ連福岡」自体が崩壊し、もちろんその〝乗っ取り〟には失敗した上に、いったんはおそらく〝反革命・外山〟の政治生命を断つことに成功したと考えていただろうに、矢部らへの徹底抗戦の結果として投獄されるに至ったと云ってもよい私は獄中で却って〝スターリニスト打倒〟の執念に燃え、ファシズム転向したことが功を奏して、矢部との決裂から8年後に(07年の都知事選で)突如として〝復活〟を果たすことになるのである。矢部の〝外山追放〟の策動は、展望を見失って「だめ連」の真似事でもせざるを得ないところまで追い込まれていた私を、結果的には救うことになったわけだ。
 私の件はまあ今回の主題ではない。99年の〝外山追放〟の策動が矢部のスターリニスト的な振る舞いの最初の大きな例だが、これを皮切りに矢部はその後も性懲りもなく似たような策動を繰り返すようになる。01年には、今は「インテリパンク」君なんぞになつかれて可哀想な松本哉君が〝法大ボアソナード・タワー闘争〟で逮捕され、矢部がその救援のリーダー役を買って出た。当初こそ松本君の法大の同志諸君にとって運動経験豊富な矢部の登場は頼もしいものと思われたかもしれないが、やがて矢部は、取り調べに完全黙秘で応じなかった松本君を声高に糾弾し始め、要は松本君が獄中にいる隙に法大をはじめ首都圏の松本派のノンセクト学生運動の諸君を松本君から離反させ、その乗っ取りを図ったのである。これはもちろん大失敗し、却って矢部は松本派の学生諸君から総スカンを食って救援から撤退することになる。
 08年の洞爺湖サミット反対闘争での矢部の〝間抜けスターリニスト〟ぶりも当時はかなり評判となったものだ。日本全国・世界各地から反サミット派が北海道に結集するというので、その現地受け入れの責任者を、なぜか東京の矢部が務めていた。サミットが近づき、矢部も北海道入りして、サミット会場近くに反対派のキャンプを設営し、その指導者の地位に就く。北海道には、80年代末の私たちの反管理教育運動とも連携していた反原発活動家の宮沢直人がおり、矢部と宮沢との協議の上、矢部とソリの合わない活動家も全国から北海道入りするだろうことを考慮して、〝矢部キャンプ〟とは別に宮沢が主催するキャンプ地も設営されていた。もちろん(サミットに反対するためというより宮沢を支援するため)現地入りした私も〝宮沢キャンプ〟に身を寄せた。松本哉ら「素人の乱」系の諸君をはじめ、首都圏の若い活動家の多くは〝矢部キャンプ〟に、矢部があまり興味のない北海道の労組や諸党派の老人活動家たちや、矢部を嫌うごく少数の各地の若い活動家らは〝宮沢キャンプ〟に、という陣形で反サミット闘争の本番が始まった。が、初日、2日目と日が経つにつれて〝矢部キャンプ〟からの脱走者が相次ぐという珍現象が起きたのである。連日深夜まで闘争方針を決めるための退屈な会議への参加を強要され、食事は矢部ら〝指導部〟に食事係として任命されたハードコアなベジタリアン一派が提供する超薄味の健康食、キャンプ地に入るためのゲートには〝スパイの侵入〟を防ぐための歩哨が立っていたという、まさにスターリン主義体制の強制収容所から脱走者が相次ぐのは当たり前である。初期に早々と〝宮沢キャンプ〟へ逃れてきた脱走者たちは〝矢部キャンプ〟の恐るべき実態をトツトツと語り、3日目ぐらいには、〝矢部キャンプ〟離脱組による第3のキャンプ地が緊急に設営された。
 09年に法大の中核派とノンセクトの混合部隊が逮捕・起訴された時には、矢部はまたしてもノンセクト側の救援リーダーとしてこれに介入しようとした。松本哉君の逮捕の際と似たような策動を胸に秘めていたのだろうが、しょせん矢部のごとき〝間抜けスターリニスト〟が中核派から派遣されてきた筋金入りの本格派スターリニストに太刀打ちできようはずもなく、救援活動は完全に中核派主導のものとなり、もともとノンセクトだった被逮捕者たちも結局は中核派に囲い込まれてしまった。
 2011年の〝3・11〟を機に、矢部は確信犯的な〝放射脳〟路線を掲げ、東京も深刻な放射能汚染にさらされているとして(実際どうなのか私には判断がつかないが、念のため避難するのは当然だろう、ぐらいには私も思う)、もともとの出身地である名古屋近郊の愛知県春日井市へと活動拠点を移し、現在も主に名古屋で活動しているようである。矢部はそもそも地方の活動をバカにするきらいがあったが、自分が名古屋に移るなり、地元でフリーター労働運動などを長年にわたって主導してきた数歳下の活動家E氏の経営する飲み屋に現れて、「〝名古屋学派〟を形成しなければならない。誰か名古屋の大学教員にツテはないか?」と切り出したらしく、「何だ、この権威主義者は」と早々に呆れられたと聞いている。名古屋になかなか自派の勢力を築けずにいる矢部にはこのE氏が相当に疎ましいらしく、つい最近(一昨年あたり)、私の一件でも懲りてはいないようで、E氏の女性関係にイチャモンをつけて名古屋のフリーター労働運動界隈からのE氏の追放を図ったようだが、これには失敗した模様である。
 ……とまあ、実際「インテリパンク」君などどーでもいいっちゃあどーでもいいので脱線が長くなったが、20歳頃まではたしかにアナキストであった矢部史郎は、90年代初頭にボルシェビキ転向しており(自分でもそう云っていた)、以後はここに長々と記してきたように、まさにボルシェビキにふさわしい露骨にスターリン主義的な振る舞いを、かれこれ四半世紀にわたって何度も繰り返している。
 一方、私や千坂氏が肯定的に云う「ファシズム」は、これまでさんざん指摘してきたように(しかし、単にインテリでないばかりか、自らの無知無学を克服する努力もしようとしないこの男はそれらを読んでやしないだろうから親切に教えてやるが)、もともとアナキズムの一派である。イタリア社会党の極左マルクス主義者であったムソリーニが最初に「ファシズム」を掲げて同志を募り始めた時、ムソリーニ自身まだ極左を自任していたわけだし、集まってきたうちの半分はアナキストだった(残り半分も右翼などではなく前衛芸術家である)。最近の海外の(アカデミズムもド三流な日本のそれと違って)マトモなファシズム研究では、ファシズムの起源は左翼にあるとする一派がそれなりの勢力を成しており、彼らによれば、「ファシズム」を最初に名乗ったのはイタリアのムソリーニであるとしても、思想的にはそれとほぼ同質のものがもっと以前にフランスで「プルードン会」と称するグループによって掲げられ、この系譜に属する人々がやがてイタリアにならって「ファシズム」の名称を採用していくという。プルードンは云うまでもなく〝アナキズムの始祖〟とされる人物である。今回の森元斎の本でも(なるべく触れないようにしつつ)少し触れていた、アナキストの代表格であるバクーニンのアナキストらしからぬ独裁者志向をちゃんと分析して、「バクーニンこそ最初のファシストである」と結論している研究者もあるらしい(これらはすべて偉大な先達・千坂氏の教示による)。
 そもそも私自身、アナキストが(矢部のような)スターリニストに対抗し勝利するにはこちらも〝党〟や〝権力〟を志向するしかないと結論し、不勉強だったのでそういうアナキズムもあるということを千坂氏に教えられるまで知らず、いさぎよくファシストを名乗り始めたまでである。それにアナキストを名乗ってしまうと、スターリニストに(もちろんブルジョア国家権力にも)勝利するためには〝党〟や〝権力〟を志向してもいいんじゃないか、などという発想を理解する人たちはそもそもアナキストの自覚がないだろうから寄ってこないだろうし、「お、アナキスト党か」とホイホイ寄ってくるような連中とはそういう発想を共有できないだろうし、私の〝新アナキズム〟運動を形成する上でアナキストを自称するのは端的に無意味だと思ったからでもある。少なくとも私は明確に〝アナキズム運動の一形態としてのファシズム運動〟を最初から志向しており、実際、ファシズム転向時点の不勉強な私の目から見ても、ムソリーニのファシスト党が(少なくともその初期においては)実質的にアナキスト党であることは明白だった。
 で、10代の頃から学校当局など既存国家権力の出先機関のみならず(矢部と決裂する以前からとうに繰り返し)共産党や市民主義者など既成左翼とも徹底的に闘ってきた筋金入りの(当初は自分はマルクス主義者のつもりでいたんだが)アナキストである私の足元にも及ばない、どうせボルシェビキと1度も闘ったことなどない(まあ「素人の乱」主導の反原発運動に「右翼を排除しろ」と介入してきたヘサヨ諸君と少し揉めた件は承知しちゃいるが、要するにそういう貴重な経験を思想化するだけの知性がそもそもないのだろう)自称「インテリ」で自称「パンク」で自称「アナキスト」にすぎない「インテリパンク」君は、クロンシュタット、マフノ運動、スペイン内戦……とアナキストがボルシェビキに負け続けてきた歴史を我がものとして深刻に反省した末に「(アナキズムとしての)ファシズム」という可能性を提起している私や千坂氏には「えせアナキストめ!」とワンワン吠えかかり、とっくにアナキズムからボルシェビキ転向して久しい矢部なんぞを「ホンモノのアナキストだ!」と勘違いして尻尾を振ってすり寄ってるわけで、しかも実際こういう手合いが森元斎なども含めて今の自称アナキストの大半なのだから、もういっそ矢部が革命を成就して、矢部スターリニズム体制下で全員虐殺されればいいんじゃないかと思う。

 

 追記.どうでもいいがこの男が矢部と別にもう1人持ち上げている向井孝は、この男と違ってそれなりにちゃんとしたアナキストだったから(私も生前に1、2回お会いしてもいる)、生きていればたぶん私の一連の反選挙運動を絶賛し、この男のことは……たぶん視野にも入らないだろうな。