宮沢章夫『ニッポン戦後サブカルチャー史』(2014年・NHK出版) | 我々少数派

宮沢章夫『ニッポン戦後サブカルチャー史』(2014年・NHK出版)

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 またもや“偽史”である。しかもご丁寧に冒頭で“偽史”であることへの開き直りがおこなわれている。
 本書は2014年8月から10月にかけてNHKで全10回の連続企画として放映された「ニッポン戦後サブカルチャー史」の書籍化であるが、開き直りは直接には編著者である宮沢章夫自身によるものではなく、番組プロデューサーによるものだ。いわく、

 すべての歴史は作り手、書き手がいる以上、ある意味「偽史」にならざるを得ない、というか、正史などないと思うのだが、サブカルチャーの場合は、それがはなはだしいからだ。

 冗談じゃない。正史はある。いや、なければならない。少なくとも正史を語ろうという意志なき者に歴史など語ってもらっては困る。歴史の本の冒頭にこんな文章を置いてしまう志の低さこそ、まさに本書がサブカル的相対主義の価値観に従属した、つまり歴史的産物、歴史による被規定物にすぎないことを自ら暴露してしまっている。
 外山恒一の書いた正史をいつまでも無視しているからいつまでもこの調子なのである(書くタイミングがなさそうだからここに書くが、「正史などない」というのは民主主義=資本主義の根底に組み込まれている相対主義への端的な拝跪を意味する物云いにすぎない。民主主義=資本主義に反対するマルクス・レーニン主義者とファシストはそれぞれ別の仕方で正史の存在を認める。“真理を独占する党”による独裁を理想とするマルクス・レーニン主義者にとって正史の存在は自明である。私は“真理を独占しない党”による独裁を理想とするファシストなので、正史を正史と認めない者の存在自体は容認する立場だが、我々ファシスト自身は「正史は存在しない」などとは絶対に口にしない。ファシスト党が公認する歴史がすなわち正史である。マルクス・レーニン主義の社会では偽史の存在それ自体が原理的に容認されえないが、ファシズム社会では偽史は正史との比較において単に軽く扱われる)。
 仔細に読んでいけば“宮沢史観”の破綻は明らかである。
 宮沢もまずは、「歴史を語るとき、五〇年代、六〇年代というように十年ごとに分けて解説することは、いろいろなジャンルで行なわれています。(略)けれども、一九八〇年になったのと同時に、社会も八〇年代に突入して、それまでの七〇年代から時代が変わるのかというと、ことはそんなに単純ではありません」と正しく直観し、本書での「十年ごと」の区切りも「便宜的なもの」にすぎないと留保してはいる。
 続けて、「例えば、五〇年代はどこから始まったかということを考えてみましょう」と提起し、「五六年ぐらいから始まった」とひとまず仮定する(P.10)。この仮定は最後まで覆されないので、ほぼ結論と云ってもよかろうが、50年から55年までの6年間を含まず56年から59年までの4年間のみを指して「五〇年代」などと呼べるわけがない。もちろん宮沢の云う「五〇年代」は59年で終わるわけではない。宮沢は「六〇年代」を、(後の例えば渋谷とかではなく)新宿が「若者の街」であった時代だと規定しており、それは「六四年から七二年までの八年間」だと云うのだから(P.43)、宮沢の云う「五〇年代」は63年まで続いていたことになる。
 私の書く正史では、記述はこのような“混乱”をきたさない。正史というよりあくまで正史の叩き台だが(正史そのものは現在、活動報告誌『人民の敵』に不定期連載中)、『青いムーブメント』(08年5月・彩流社)でこの問題は解決済である。私は同書で、「十年ごと」に区切ること自体は良いのだが、既成の“区切り方”がおかしいとはっきり指摘している。「五〇年代」「六〇年代」「七〇年代」……と区切るのではなく、「1950年を中心とした前後約10年間」「1960年を中心とした前後約10年間」「1970年を中心とした前後約10年間」……と区切るほうが歴史把握には適している、と。
 私はそれを「五〇年代」とは呼ばず「1960年を中心とした前後約10年間」と呼ぶが、50年代半ばから60年代半ばまでが1つの区切りになると見ている点は宮沢と同じだし、「六〇年代」(正しくは「1970年を中心とした前後約10年間」)が、「七二年」までかもう少し後までかはともかく、70年代のどこかの時点までは貫入していると見る点も同じだ。したがって実質的には、私の正史と宮沢の偽史とで大きな齟齬があるわけではない。ここまでは、である。
 “宮沢史観”が破綻するのはここからだ。そもそも“宮沢史観”では「七〇年代」と「八〇年代」とが曖昧に連続している。宮沢によれば「八〇年代」は91年に終わるのだが、「若者の街」が新宿であった「六〇年代」と、渋谷となった「九〇年代」との間に、それが原宿であった「八〇年代」が存在するという。そのようなものが提示されない「七〇年代」の扱いは軽いし、「七〇年代に引き続いて、八〇年代もはっぴいえんど、だと思うのです」(P.89)とまで云っている。「細野晴臣ということになるのかもしれません」と云い換えてもいるように、細野が「七〇年代」にやっていたバンドが「はっぴいえんど」、「八〇年代」にやっていたバンドが「YMO」だということである。
 宮沢的な「十年ごと」の区切り方からしても、73年に始まった「七〇年代」は80年代のどこかまで貫入しているはずだし、80年代のどこかから始まった「八〇年代」も、91年までということだからほんの少しではあるが90年代にまで貫入している。「七〇年代」と「八〇年代」の区切りはおそらく、原宿に「ピテカントロプス」というクラブが開店した82年に設けられている。が、宮沢の云う「八〇年代」を象徴する存在である「YMO」は、宮沢自身も書いているとおり78年に結成されており、しかも91年どころか83年には解散してしまうのである。そもそも「ピテカントロプス」が存在したのも84年までのたった2年間だというのである。
 まったくこれだから偽史は信用ならない。
 宮沢は要は(宮沢は『宝島』の前身である『ワンダーランド』が創刊した73年からとし、私は『ビックリハウス』が創刊した75年からとする違いはあるが)70年代のどこかから始まった宮沢の云う「七〇年代」(正しくは「1980年を中心とした前後約10年間」)という1つの“「十年ごと」の区切り”を事実上、宮沢の云う「八〇年代」(正しくは……すぐ述べるように宮沢の云うような意味での「八〇年代」など存在しない)を象徴するYMOもピテカントロプスもとっくに退場していた91年にまで、ムリヤリ延長してしまっているのである。宮沢は要するに70年代後半を「七〇年代」と呼び80年代前半を「八〇年代」と恣意的に呼び分けているだけであって、必然的に、“宮沢史観”からは「1990年を中心とした前後約10年間」が、これに対応する概念がないのだから、すっぽりと抜け落ちてしまう。
 云うまでもなく宮沢の語る現代サブカルチャー史には、マンガ『ボーダー』や『ジパング少年』はもちろんのこと、「1990年を中心とした前後約10年間」を彩る諸現象は、『ぼくらの七日間戦争』も“村上龍の『69』”も、“広瀬隆”も、“ブルーハーツ”や“タイマーズ”や“たま”すら登場しない。あえて謙遜せずともこんなものは偽史以外の何物でもないだろう。
 宮沢自身も動揺している。70年代前半までの泥臭いヒューマニズム、宮沢の言葉では「有機性」から、「どうやって逃れるか」がテーマだったという宮沢の「八〇年代」把握では、「でも、そうやって論を展開していくと、八〇年代以降の有機栽培・食品の流行や、オーガニックレストラン増加について説明できなくなってしまう」といったんは認める。当然である。それらは「1990年を中心とした前後約10年間」を象徴するブルーハーツ的な青臭い“ほんとう”志向や、反原発運動などと親和的な現象である。しかしせっかく露出した裂け目を、宮沢はすぐに「それも大きな視点で考えたとき、清潔感や健康志向という意味での『テクノの思想』につながっていくでしょう」などと牽強付会に塗り込めてしまう(P.93)。
 そして、「九〇年代は、八〇年代的な清潔感みたいなものの裏返し、反動」が起き、「例えば、八〇年代は、DCブランドの高級な洋服とかを着ていたわけですよ。それが、グランジのように汚い服を着て、路上に座るようになったのが、九〇年代の大きな特徴でした」などと嘘を書きつらねる。たしかに、56年生まれで、76年に20歳となり、80年代に入る頃にはすでにもう“若者”ではなくなりつつあった宮沢たちは、91年頃まで「高級な洋服とか」を着て、まさか「路上に座る」なんてことはなかったのだろう。だが、70年前後に生まれ、「1990年を中心とした前後約10年間」にまさに若者だった我々の世代(の、宮沢が語る80年前後のそれもそうであるのと同様、先端的部分)は、80年代後半のうちからすでに例えば電力会社前などへと進撃し、日常的に「路上に座る」経験を積み重ねていたのである。私が現在も生業としている“ストリート・ミュージシャン”行為も、福岡では他ならぬ私自身が89年に創始した(というか70年代いっぱいで絶えていたそれをそうと知らず復活させた)ものだし、少なくとも東京や札幌でも87、88年頃には始まっているのだが、東京でそれが始まったのは今は亡き新宿コマ劇前においてだったというし、原宿にいた宮沢の視界には入らなかっただけだろう。宮沢らの世代が書き散らし世間に数多く流布させている偽史、トンデモ通史の類においては、その渦中で「劇団どくんご」も生む80年代半ばから末にかけての、まさに汗臭く暑苦しく汚ならしい“第2次テント芝居ムーブメント”の存在(例えばこんな本でその一端を知ることができる)も完全に抹消されている。「グランジ」にしたって、実はアメリカ版の「1990年を中心とした前後約10年間」の諸運動(世界的には、一番見えやすいのは東側諸国や南側諸国での民主化運動、いわゆる“89年革命”であり、それは日本にも“土井社会党ブーム”という形で波及した)の1つである可能性が高く、グランジを象徴するバンド「ニルヴァーナ」は87年に活動を開始している。
 私の書く正史では、日本近代史は45年の敗戦によって断絶させられており、50年代半ばに始まった歴史回復の試行錯誤(新左翼運動であったり、カウンターカルチャー運動であったりする)も80年代半ばに(まあ要するに“サブカル”化して)頓挫したことになっている。それ以降は、“歴史回復”の試みに取りかかること自体が、それこそ「十年ごと」に失敗を繰り返している。“宮沢史観”が語られた本書の後半に登場する「だめ連」(「2000年を中心とした前後約10年間」を象徴する諸運動の1つ)も「素人の乱」(「2010年を中心とした前後約10年間」を象徴する諸運動の1つ)も、その源流は「1990年を中心とした前後約10年間」にある。「だめ連」においても「素人の乱」においても、その首謀者的な中心人物たちの多くが、90年前後の諸運動がそうであったのと同様に“70年前後生まれ”の世代で占められていることに気がつくべきである。
 日本近代史の断絶の線が、敗戦から50年代半ばにかけての時期と、80年代半ばから90年代半ばにかけての時期に、大きく2つ引かれている。後者をもたらしたのは、宮沢らの世代(他に大澤真幸や大塚英志など、そしてさらにそれを全面的に継承する、生物学的には私と同世代の東浩紀など)が大量に書き散らしてきた山のような偽史・トンデモ通史の存在である。それらを斥けることによって、まずはそれ自体が断片化させられてしまっている、「1990年を中心とした前後約10年間」から現在までの約30年間の正史を確立し、もってそれ以前の約30年間(50年代半ばから80年代半ばまでの3期1サイクル)の歴史との接続を図り、さらにその接続された約60年間を、敗戦によって断ち切られた幕末以来の日本近代史に再接続しなければならない。
 そんなことができるのは、“近代”が「民主主義=資本主義」と「マルクス・レーニン主義=スターリニズム」と「ファシズム」の“3択”でしかあり得ないことにすでに気づいている我々ファシストだけだろうが、たぶん。