集英社新書WEBコラム「3.11後の叛乱」第4回(野間易通氏・執筆)への長い感想 | 我々少数派

集英社新書WEBコラム「3.11後の叛乱」第4回(野間易通氏・執筆)への長い感想

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 集英社新書のサイトで不定期(?)連載されている、作家・思想家の笠井潔氏と活動家・野間易通氏との往復書簡、野間氏執筆の第4回が公開され、私に関しても言及がある。私の言動に対する野間氏の立場は、かなり誤読・誤解があるという点も含めておおよそ理解しているつもりであり、今回の言及の内容もその理解から外れるものではなく、相変わらず誤読・誤解は続いているようではあるものの、誤読・誤解を糾すための野間氏への批判もすでに公開しているし、一読後、今回はスルーしておくか、と思った。
 が、この記事の公開後に野間氏が自身のtwitterアカウントで、今回の言及が上記の私の野間氏批判への応答であるかのように書いていたので、「うーん……応答にはなってないんだけどなあ……」と思いつつ、以下感想を述べる。

 今さら云うまでもないと思うが、私は野間氏について、良く云えば私とかなり近い問題意識を持っている、悪く云えば私の劣化コピーであると見ており、今回の記事でますますその思いを強くした。
 野間氏はスガ秀実氏の『反原発の思想史』(筑摩書房・2012年)を引きながら、80年代末に始まる“ドブネズミ”たちの諸運動の系譜、つまり当時“反原発ニューウェーブ”と呼ばれた反原発運動の高揚などに象徴される“88年”の諸運動(私も参画した反管理教育運動なども含む)が、「90年代のだめ連を経て2000年代の素人の乱につなが」っていく、という認識を追認する。これはまさに“知られざる運動史”とも云うべきもので、私が00年代初頭から「そういう系譜があるんだ」と繰り返し主張し、妄想扱いされてきた歴史観だが、スガ氏による承認(?)を経由し、こうしてようやく少しは陽の目を見るようになったことは喜ばしいかぎりである。もちろん野間氏は、それら“ドブネズミ”系諸運動を例によって「サブカル!」と一刀両断し、自らをその系譜から切断しようと必死なのではあるが……。
 私には野間氏のそのモチベーションもよく理解できるのである。“ドブネズミ”系諸運動が、社会を具体的に変革することではなく、「祝祭」を自己目的化してしまっており、社会変革を求めているかのような素振りは表面的なポーズにすぎず、要はその時々のイシューをダシに一過性の祝祭空間を顕現させることが彼らの真の目的であると野間氏は見ており、そのことをもってそれらはしょせん「サブカル(=非政治)」にすぎないと野間氏は云う、
 実は私も半ば以上は野間氏のこの見解に賛同している。もちろん野間氏の分析は粗雑であり、その粗雑さ自体が私が「野間こそサブカル!」と決めつける根拠、すなわち野間氏が歴史的文脈から切り離されてしまっている(かつその自覚がない)ことに起因しているのだが、改めて教え諭さなければなるまい。
 スガ氏が書き、野間氏も引用しているように、“88年”の諸運動は「新左翼とは異なる新たな運動」として登場した。当時20歳前後の先鋭的な若者たち(要はブルーハーツに熱狂したような層のうち、ひと握り政治化した一部だ)もその主要な担い手の1つだった。この運動は、まさに歴史から切断されたところから出発した。『青いムーブメント』で詳細に述べたとおり、その源流は80年代前半に萌芽し、85年頃にピークを迎えた青生舎(現世田谷区長の保坂展人氏が主宰した反管理教育運動)やピースボート(現民主党議員の辻元清美氏が創始した平和運動)などの“軽薄短小”ないくつかの若い社会運動にある。それらは本来、70年代後半に始まり80年頃にピークを迎え80年代半ばには形骸化していた“軽薄短小”な文化(芸術)運動や思想(学問)運動、すなわち(「サブカル」ではない)サブカルチャー運動やポストモダン思想に並走すべきものだったが、登場から高揚、終息へと向かうサイクルに5年ほどの時差があったために、欧米先進国では80年前後に生じたような政治・芸術・学問の“三位一体”の運動展開が日本には起きず、むしろ“芸術・学問”派と“政治”派とが反目し合う日本特殊な状況が成立、その結果として以後その両派とも歴史的文脈から切断されてしまったことも、これまた『青いムーブメント』その他で繰り返し述べているとおり。
 歴史的文脈から切断されるということは、経験が継承されないということである。政治運動シーンでも、“88年”以後、さまざまなムーブメントが興亡したが、人脈的にはともかくそれぞれの運動経験は“次”の運動に継承されず、例えば56年から80年にかけて、共産党を批判する新左翼諸党派が登場し、やがて“党派”そのものを批判するノンセクトが登場し、ついには何らかの大義を掲げて“運動”すること自体を批判するサブカルチャーやポストモダン思想のメタ運動が登場する、といったような、“前”の運動の問題意識をより深める形での継承的展開が起きなくなった。“88年”の諸運動はただ一時的に高揚して(旧メディアの頽廃以後、ネット登場以前であるため記録に残らず)ただ忘れ去られ、それとは無関係に90年代後半には「だめ連」などの“まったり系”脱力ムーブメントが高揚し、やがて忘れ去られ、00年代後半には松本哉や雨宮処凛に象徴される“プレカリアート”諸運動が高揚して、それも今や忘れ去られつつある。もちろん「だめ連」以後はネット時代となり、また“88年”においては“政治”系と分断されていた“芸術・学問”系が(歴史的文脈をどこかに放置したまま)再び“政治”系と接近するので、記録はかろうじて残るけれども、問題意識の継承・深化という側面は極めて怪しく、要は同じような問題意識を持った運動が、ただ表面的な意匠やキーパーソンたちの顔ぶれを変えて、約10年周期で登場・退場を繰り返すだけとなる。
 野間氏がスガ氏を援用して云うところの、これら“ドブネズミ”系諸運動は、3つの共通点を持つ。第1にすべて“社民・最左派”であること、第2に“面白主義”的傾向、第3にキーパーソンたちが属する世代、である。
 第1の点について云えば、つまり問題意識がいっこうに深化していかないということである。“88年”の諸運動も「だめ連」も「素人の乱」も「フリーター労組」も、掲げている政治的主張の中身は現在の社民党のそれとほとんど大差ない(共産党ではなく社民党である。現在では共産党すら社民化しているため、本家の社民党には出番がないとも云える)。ただし議会政治には不信感を持ち、あるいは無関心で、あくまで議会外での直接行動を志向する点で“(社民勢力の中の)最左派”なのである。
 第2の点は、第3の点とも密接に関わるので、まずそちらを先に述べるが、一連の“ドブネズミ”系諸運動の中心にいるのは常に私の世代、すなわち70年前後生まれ、65年から75年にかけて生まれた世代である。野間氏の今回の文章にも挙げられている“88年”の諸運動の担い手たち、例えば私(70年生まれ)、鹿島拾市(=加藤直樹。67年生まれ)、山本夜羽音(66年生まれ)、さらに野間氏のリストには含まれていないが、“88年”の若者たちの諸運動の最左派中の最左派だった「反天皇制全国個人共闘〈秋の嵐〉」の中心人物である故・見津毅(67年生まれ)も、私の反管理教育運動時代の同志の1人であり現在は最大の宿敵である矢部史郎(71年生まれ)も、皆この世代である。もっとも、“88年”において当時10代後半から20代前半であるこの世代が、“若者たちの運動”の中心となるのは何の不思議もないごく当たり前のことである。ところが90年代後半に脚光を浴びる「だめ連」の中心人物、神長恒一(67年生まれ)とペペ長谷川(66年生まれ)もこの世代であり、「だめ連」と共に当時やはり“脱力系”の新しい社会運動として注目されていた「メンズリブ東京」の代表・豊田正義(66年生まれ)もまたそうであった。さらに00年代の諸運動を象徴する「素人の乱」の松本哉(74年生まれ)も、“プレカリアートの女神”雨宮処凛(75年生まれ)もそうである。「フリーター労組」の本当の中心だった東大ノンセクト出身で“ミスター・ヘサヨ”の山口素明(66年生まれ)も早大ノンセクト出身の鈴木剛(68年生まれ)もそうである。“88年”以降、さまざまの“ドブネズミ”系諸運動が興亡したが、その担い手たちの間に世代交代はまったく起きていない。さらに云えば、非“ドブネズミ”系を含めても、湯浅誠(“派遣村”村長。69年生まれ)にしろ在特会の桜井誠(72年生まれ)にしろ、ごく最近まで(シールズ登場まで、ということである)“活動家”として注目を浴びるのは必ずこの世代だったのである。すでに全員40代であるこの世代は、当然もはや“若者”でも何でもないのだが、なぜかずっと“若者”扱いされてきた。
 この世代は、“新左翼”を知る最後の世代でもある。新左翼諸党派にまだ存在感があった時代に活動家として自己形成し、それらとの差異化を図らなければ自らの運動を形成しえなかった世代である。“面白主義”はそのような時代的制約によって半ば強いられた選択だった。ああいう“陰惨”な運動とは違うんだ、ということを強く打ち出さなければ、“同じ左翼”として周囲のフツーの若者たちからそれら新左翼諸党派と一緒くたに見られてしまう可能性が、実際に極めて高かったのである。“88年”当時の新左翼諸党派の存在感については云うまでもなかろうが、「だめ連」も「素人の乱」も元をたどれば、いずれもごくごく最近まで革マル派と中核派のそれぞれ“拠点校”であった早大と法大のノンセクト学生運動から派生したものだ。
 私は、“70年前後”生まれの世代が“若者”の諸運動の中心に居座り続けているのは極めて不健全なことであり、またキーパーソンとして前面に立つ顔ぶれが変わるだけで“社民・最左派”のスタンスは一向に脱却されないままである(どころか、社民的なものへの批判的視点も、“88年”、「だめ連」、松本哉や雨宮処凛、と時代が下るにつれてむしろ後退している)のも嘆かわしい問題であり、さらには“面白主義”についてもこの世代に特有の“やむを得ざる選択”だったのであり受け継がれるべきではなく、受け継がせることも(それを必然化した新左翼諸党派の存在がもはやかき消えつつあるのだから)そもそも不可能である、と前2点については00年代前半から、後1点についても都知事選で注目された07年頃から(私は世代的条件の中で鍛えられたから“面白い”ことが自然にやれるのであって、若い諸君は私のそういう部分を継承しなくていいし、そもそも必然性がないのに恣意的に継承できるはずがない、と)繰り返し私は表明してきたのであって、今さら野間氏に説教じみたことを云われる筋合いはないし、逆に私に云わせれば野間氏の方がむしろ我々の世代の活動家に染みついてしまっているこれらの“問題”から充分に脱却していないのである。
 野間氏もまた何周回遅れかで登場した“70年前後生まれ”の新キャラ活動家(66年生まれ)だが、その政治的スタンスは明確に“社民”であり、“面白主義”と大差ない“カッコよさ追求”路線で「しばき隊」や「クラック」の既成の運動との差異化を図ってきた。このことを野間氏自身もある程度は自覚しているようではあり、山本夜羽音や鹿島拾市や私が「しばき隊」に肯定的であったことと関連して、今回の文章中で「レイシストをしばき隊は、かつてのドブネズミと3・11以降の運動をつなぐ最後の結節点だったのかもしれないと、今になって思う」と述べている。ここには同時に、それら“ドブネズミ”系諸運動と野間氏の云う「3・11以降の運動」との間には断絶があり、前者はもはや時代的役割を終えた“古い”ものとなっており、野間氏自身もすでに後者の側に移行しているのだ、という自負も窺われる。が、しかし本当にそうだろうか?
 たしかに「シールズ」(というかその前身「サスプル」)の登場を境に、世代交代はやっと実現しつつあるようにも見える。70年前後生まれの活動家たちが主導する運動の一員(今回の野間氏の文章中に登場する「素人の乱」界隈の活動家で81年生まれの二木信や、他に例えば「フリーター労組」界隈で比較的目立っていた同じく81年生まれの園良太など)としてではなく、自身が何らかの大きな社会運動の中心人物であるような(本当に)若者の個人名としては、右翼陣営の金友隆幸(85年生まれ)を唯一の例外として、奥田愛基(92年生まれ)のそれが実にほとんど四半世紀ぶりのものだろう(某NPO団体の諸君については措いておく)。
 だが問題は“質”である。シールズには一連の“ドブネズミ”系諸運動が共有した“面白主義”も、野間氏的な“カッコよさ追求”路線も受け継がれておらず(あのラップ?がカッコいいと感じられるような人は相当にセンスがアレであろう)、そこは別にそれでよいと私も思うのだが、前掲の3点の中でも私には最も重要に思われる“社民”路線の限界だけは相変わらず克服されておらず、むしろますます後退してさえいる。“ドブネズミ”系諸運動にはそれでも最低限、反議会主義あるいは非議会主義の少なくともノリは共有されていたが、シールズを中心とする最近の運動(野間氏自身のそれも含む)は、社民化した共産党と親和的で、“意識高い系ノンポリ(何だそれ!?)”の“選挙に行こう!”運動とも重なる完全な議会主義路線であり、もはや社民“最左派”ですらなく、あるいは現在の“社民・最左派”はそこまで“右傾化”していると見ることもできる。野間氏の云うとおり、“88年”以来の“ドブネズミ”系諸運動には限界があり、もはやそのことは露呈しており(私は00年代初頭からそう云っていたのだが)、そこからの何らかの切断が図られなければならないことは確かだと私も思うが、ただ切断されていれば何でもいいってものではない!
 「3・11以降の運動」について野間氏はさまざまに解釈を試みる。新左翼運動においてはもちろん“ドブネズミ”系諸運動においてすら長らく忌避されてきた「国民」という自己規定の無邪気な復活についても、野間氏は全面的に肯定あるいは追認する。「3・11以降の運動」において「国民」が復権してきたという、「リベラル社会運動」における「大きなパラダイム・シフト」を野間氏は歓迎している様子である。もちろん私だって現在はむしろ右翼と親和的なファシストなので、「国民」という自己規定が復活すること自体に反対ではない。だがそれは“無邪気な”ものであってはならないのではないか? 「国民」が忌避されてきたことにはそれなりの必然性があり、単に恣意によって忌避されてきたのではないのだから、無邪気に、つまり恣意的に復活させてよいものではないし、また恣意的には(恣意的である限りは少なくとも良きものとしては)復活させ得ない。
 一連の“ドブネズミ”系諸運動はこの社会の「はみだし者」たちによって担われてきたが、シールズに結集している若者たちはそのような層ではない、と野間氏が云うのは正しいと思う。だからこそ“ドブネズミ”たちは、そう簡単に自らを「国民の一員」とは見なしえないのだし、自らが日常的にこの社会から疎外されているという実感を持たない云わば多数派のフツーの若者たち(の一部)であるシールズの諸君は、「国民」に違和感を持たないのだろう(おそらく在特会に結集しているような若者たちの方がむしろそうした疎外感を抱えており、だからこそシールズのように無邪気にではなく強迫神経症的に、彼らは「日本」を呼号するのだろうとさえ思える)。だが、野間氏はそのような凡庸な多数派の運動に何を期待しているのだろう? 私は、おそらく野間氏自身も本来は“こっち側”つまり“ドブネズミ”系の“はみだし者”ではないのか、と思っている。そのような層が“88年”以来これまで展開してきた一連の運動に限界があることも野間氏が云うとおりなのだが、だからといって“はみだしてない”フツーの若者たちの運動に乗り換えればよいわけではなかろう。私はシールズをことさらに敵視するものではないし、若い時分にデモの1つでも経験しておくに越したことはないと思うので温かい目で見てもいるが、“はみだし者”の“ドブネズミ”の1人であることは否定しようのない私にとっては何ら心に響くものがない運動だし、本質的に“私とは無関係なもの”だと思っている。ただ、凡庸な若者たちが凡庸な運動を担うのは当然だし、好きにすればいいのだが、野間氏のような私の同類が、これまでの“ドブネズミ”系諸運動とは切断された新しい展開だからといってそれにウカウカと乗るのは、徹底的に考えた末の選択だとはとうてい思えないし、つまり思いつき的・恣意的な選択にすぎないし、野間氏がよく使う言葉で云えば既成の“ドブネズミ”系諸運動への単なる「逆張り」にすぎないではないか。
 前述のとおり、“ドブネズミ”系諸運動は、“88年”のその出発の時点から、あらかじめ歴史的脈絡から切断されていた。我々(とあえて云うが、私や野間氏のような、“ドブネズミ”の一員でありながらそれがこれまで担ってきた諸運動の限界に思い至った者たちのことだ)が追求すべき方向は、自らの“ドブネズミ”性を恣意的に否認することではなく、“ドブネズミ”たちが歴史的脈絡に再び接続されうるような運動を模索することではないのか?
 スガ氏やあるいは千坂恭二氏が再三云うように、そして間違いなく野間氏の対話の相手である笠井潔氏もそう考えているだろうように、“現在”は引き続き“68年”に規定された時代であり、歴史的脈絡を回復するということは、自らを“68年”の文脈に接続することに他ならない。そして千坂氏が近年ずっと試みているように、“68年”それ自体が、敗戦によって歴史的脈絡から切断された戦後史を、再び幕末以来の日本近代史(英米とは異なる“近代”の追求史)に接続する闘争であるという側面を、当事者の多くがそのことに自覚的でなかったとはいえ、持っていたと解釈することも可能である。千坂氏や私は「ファシズム」を正当に評価し直すことによって初めてこの壮大な“接続”が可能になると考えているが、かつては“アナルコ・ナショナリズム”を標榜し、私が主宰する「九州ファシスト党〈我々団〉」が現在使用している党旗のデザインとまったく同じ意匠すなわち“黒地の日の丸”をその象徴として使用していたという野間氏は、“しょせんサブカル”の例えば松本哉氏などより本来はよっぽど“いい線”を行ってたと思う。
 長々と書いてきたが、要するに私は野間氏に「マジメにやれ!」と云い続けているのである。叱咤激励しているのである。野間氏と違って私はマジメにやっている。さすがに“アナキズム経由のファシスム”の大先輩である千坂氏は気づいてくれたように、私が「ファシズム」を標榜するようになったのも、歴史的脈絡から切断され“社民・最左派”の迷宮を永遠にさまよい続ける以外にない既成の“ドブネズミ”系諸運動から自らを切り離す決意表明、という側面が確実にあるし、何を隠そう、“社民・最左派”の位置にとどまり続けるかぎり“ドブネズミ”系諸運動はまさに「サブカル」であることを免れ得ないと私自身、はっきりと自覚してそうしたのである。「マジメにやれ!」というのは「“アナルコ・ナショナリズム”の初心に帰れ!」、ということでもある。おそらく野間氏には転向あるいは後退の自覚がなく、「何者でもない」若者たち(アナーキーな群衆)が「国民」を自称し始めた「3・11以降の運動」を肯定的に捉えることをもって、野間氏なりの“アナルコ・ナショナリズム”の実践である、と勘違いしているのだろうと思うが、“68年”以来あるいは幕末維新以来の歴史的文脈と再接続する視点を欠いた選択は、いかなるものであっても単なる思いつき、相変わらず“社民・最左派”の圏域で“面白主義”的にサバイバルしようとしている“ドブネズミ”系主流派への単なる「逆張り」の類にすぎない。
 つくづく野間氏には、もっとマジメにやってほしい。