外山恒一の「学生運動入門」第9回(全15回) | 我々少数派

外山恒一の「学生運動入門」第9回(全15回)

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 二〇〇一年の「アメリカ同時多発テロ」は、「対テロ戦争」という「まったく新しい戦争」を誘発しました。
 この「戦争」は今も続いています。タリバン政権を崩壊させても、フセインを処刑しても、ビンラディンを暗殺しても、「テロ」が根絶されたわけではないので「対テロ戦争」も終わりません。そもそもアメリカは「対テロ戦争」を開始するにあたって、それが永久に終わることのない性質を原理的に有していると明確に宣言していました。
 アメリカが攻撃している「イスラム過激派」勢力は、女性に伝統衣装を強要し、その社会進出を妨げる「差別的」な連中です。「六八年」の問題提起を受け入れてPC的な正義の国家に生まれ変わったアメリカは、力づくでもそれを世界中に押しつけようとしていますが、PC的な正義をアメリカ政府と共有している「マルチチュード」の反戦運動が本当にそれに対抗しうるのでしょうか。私が「日本版マルチチュード」による二〇〇〇年代初頭のアフガン反戦やイラク反戦の運動に懐疑的な理由もこのあたりにあります。
 一部の知識人は、「9・11」に始まるアメリカ主導の「対テロ戦争」を、新たな世界大戦、正確には二〇世紀的な「世界大戦」に代わる二一世紀的な「世界内戦」と呼び始めています。一つの主権国家の内部での武力抗争を「内戦」と呼びますが、「9・11」に端を発した「対テロ戦争」は、「世界規模に拡大した内戦」ではないかと云うのです。
 そもそも対戦の相手が主権国家ではなく国際的な「テロリスト」のネットワークなのです。その構成員は世界中どこにでもいるし、アメリカの国内にさえ潜んでいます。「戦場」も、「9・11」ですでに明らかなように、アメリカ国内であることも常にありうるし、「サイバー攻撃」などの現代的戦術を考慮に入れればネット上でさえ「戦場」です。
 また「内戦」で前面に出るのは軍隊であるよりも普通はまず警察ですが、アメリカの感覚では米軍は「テロリスト」という「犯罪者」を検挙する「国際警察」として世界中に派遣されているのです。逆にアメリカ国内の「テロリストかもしれない」不審者を摘発する通常の警察活動も「対テロ戦争」の一環としての軍事活動の性格を帯びます。このように、警察活動と軍事活動の境界が曖昧な「まったく新しい戦争」がアメリカの内外を問わず展開されているのが現在の世界状況なのです。
 ひるがえって日本国内のことを考えれば、実は日本版の「対テロ戦争」は世界が(アメリカが)それに突入する二〇〇一年にはるか先駆けて、すでに九五年にとっくに開始されていたことに思い当たります。オウム真理教が引き起こした「地下鉄サリン事件」です。
 オウム事件に端を発する「不審者狩り」は、その対象を当初のオウム信者に限定することなく、急速に拡大していきました。もともと同調圧力の強い日本ですから、「世間」と軋轢を起こす「変わり者」はすべて要警戒の犯罪者予備軍のように見なされます。ストーカー規制法も、喫煙者迫害も、飲酒運転の厳罰化も、少年法の改「正」も、犯罪全体の厳罰化や時効の撤廃も、刑事裁判過程の迅速化(お手軽化)も、ヤクザへの締め付けも、ゴミ出しのルールの瑣末化も、個人情報保護云々も、コンプライアンス云々も、「感動をありがとう」の大合唱も、「がんばろう東日本」の大合唱も、すべてが「オウム以後」の不審者狩りと同調圧力強化の連鎖反応現象です。
 九五年以前の日本と九五年以後の日本とでは、まったく違う国であるかにはっきりと一変していることを、もはや「戦前」の日本を知らないだろう今の学生が実感的に把握しうるのか、私は懸念しています。オウム事件を境に日本はいち早く「対テロ戦争」を開始しており、九五年以後は文字どおり「戦時下」なのです。不審者狩りと同調圧力強化のための一連の施策総体それ自体が「戦争行為」としておこなわれており、第二次大戦の戦争イメージにとらわれている限りは、冷戦を「第三次大戦」そのものであると認識できなかったように、今回の「対テロ戦争=第四次大戦」も戦争と認識できないのです。したがって、冷戦終結後の九〇年代に生まれただろう現在の学生諸君も、決して「戦争を知らない世代」ではありえません。九五年以来、現在も戦争はまさにおこなわれている真っ最中であり、現在の学生諸君はむしろ「戦争しか知らない世代」なのです。
 「対テロ戦争」は、アメリカが主導する世界大のそれにおいても日本国内のそれにおいても、「六八年」に由来するPC的な正義に抵触しないばかりか、むしろそれを自らの戦争行為を正当化する根拠として展開されます。冷戦期の真にラジカルな革命運動が冷戦構造という第三次大戦の戦時体制の破壊を目指したように、少なくとも「対テロ戦争」という第四次大戦が継続する限りは、真にラジカルな現代の革命運動はその戦時体制の破壊を目指さなくてはなりません。「六八年」の正義を体制側と共有する「マルチチュード」的な左派の運動に、それを担いうるとは私には到底思えません。それを担いうるのは、「六八年」の延長線上にもう一つあり得たファシズム革命運動か、私には提示できませんが「マルチチュード」的なそれではない何らかのまったく異質な左翼運動の、いずれかのみでしょう。