外山恒一の「学生運動入門」第6回(全15回) | 我々少数派

外山恒一の「学生運動入門」第6回(全15回)

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 ノンセクト優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」を実現したかに見えた日本版「六八年」の全共闘運動も、後退ムードの中で党派政治の復活を許し、元の木阿弥となりそうな気配が濃厚でした。そこに勃発したのが「全共闘運動のターニング・ポイント」として私や絓秀実氏が強調する「華青闘告発」事件です。七〇年七月七日の出来事で、「七・七告発」とも呼ばれます。
 「華青闘」というのは正式名称を「華僑青年闘争委員会」という在日中国人のグループです。七月七日は中国に対する「日本の侵略戦争」の発端とされる盧溝橋事件(一九三七年に起き日中戦争に発展)の記念日で、この日に合わせて「全国全共闘」や「華青闘」などいくつかの団体の共催で反戦集会が予定されていました。ちなみに「全国全共闘」とは、そもそも各大学で個別に勝手に展開されていたはずの全共闘運動を一つの統一された勢力にまとめ上げるために六九年夏に結成されたもので、要するに闘争スタイルとしての全共闘の画期性を無化し、のちに「全共闘運動の事実上の終焉」とさえ評されることになる、もちろん党派主導の組織(というか諸党派の政争の場)です。
 ところが開催当日までの議論の過程で複雑な経緯があり、結果として華青闘は共催の立場を降りてしまいます。そして開催当日、華青闘のメンバーやその支援(日本人)学生たちは開会前に壇上を占拠し、日本の新左翼運動総体、とりわけ新左翼諸党派を激烈に糾弾する演説を始めるのです。それは、日本の新左翼運動がうわべでは「侵略戦争反対」などと云いながら、実態としてはいかに在日中国人や在日朝鮮人などの反差別運動を軽視し、時には結果として敵対するような言動を繰り返してきたかを徹底批判する内容でした。諸党派による全共闘運動の引き回しに嫌悪感を募らせていたノンセクト・ラジカルの学生たちもこれに同調し、党派主導の予定調和の反戦集会になるはずだった「七・七集会」は新左翼諸党派に対する糾弾集会と化してしまったわけです。各党派の指導者たちは壇上に引き出され吊るし上げられて、最終的には「坊主懺悔」的な自己批判を余儀なくされました。
 諸外国のそれと同様、ここにようやく、「六八年」におけるノンセクト・ラジカルの優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」が、日本の運動の文脈でも決定的となったのです。
 分かりにくいでしょうから、もう少し突っ込んで説明します。
 華青闘告発とは要するに、「マイノリティの運動」が革命運動、反体制運動の中心に躍り出るきっかけとなった事件です。華青闘が直接に問題にしたのは在日中国人や在日朝鮮人への差別の問題ですが、日本には他にも反差別運動を展開する「マイノリティ」が多数存在します。部落、障害者、琉球・アイヌ民族、などなどです。数的にはマイノリティではありませんが、差別問題ということでは女性解放運動もこれに連なります。同性愛者の運動もそうです。
 従来の革命運動では、それらさまざまの「問題」は、マルクス・レーニン主義の「前衛党」が取り組むべき諸課題の一部を構成するものにすぎませんでした。前衛党はあらゆる社会問題の解決を一手に引き受ける万能の存在であり、マイノリティの問題を含むさまざまの「個別課題」は、前衛党の掲げる体系的な革命理論の中に有機的に統合されているはずだったのです。
 華青闘が突きつけたのは、そうした「前衛党幻想」の虚構性でした。さまざまの「個別課題」にはそれぞれ固有のベクトルがあり、単一の「革命理論」の体系に組み入れられうるようなものではない、というまさに「自称前衛党」への全否定を意味するものだったのです。
 となれば、さまざまの反差別運動のみならず、あらゆる「個別課題」の運動に同様の問題意識が拡大していきます。成田空港建設反対の三里塚の農民の運動も、公害企業を告発する水俣病患者の運動も、山谷や釜ヶ崎などの最底辺労働者の運動も、諸党派が掲げる「革命理論の体系」に一方的に包摂されてたまるか、という話になるわけです。当然、各大学で取り組まれている学生たちのさまざまな「個別要求」についても同様です。
 「六八年の運動」を経た七〇年代以降、「あらゆる問題を統括して一手に引き受ける前衛党」を中心に持たない、さまざまの「個別課題」を独自に追求する大小無数の団体や個人が何となくグラデーションをなして連帯しているような、していないような、「曖昧な全体」がそれ自体として革命運動の現在である、というふうな認識が世界的な「常識」となります。これを理論化する試みが、文系の学生なら必ず押さえておかなければならない(はずの)、ミシェル・フーコーやらドゥルーズ&ガタリやらジャック・デリダやら何やら、最近ではネグリ&ハートの「マルチチュード」理論などのいわゆる「ポストモダン思想」なのです。また、ある程度は勉強している学生なら、ポストモダン思想に関連してよく云われる「大きな物語の終焉」というお決まりのフレーズを知っているかもしれません。これも本来の文脈に引きつけて云えば、あらゆる課題を一手に引き受ける前衛党の革命理論体系が要するに「大きな物語」です。「六八年」以後は、個別課題の解決を散文的に追求する「小さな物語」がそれぞれに紡がれ、革命はただその総体として何となくある、あるいは「総体」などという発想をすること自体がナンセンスであると見なされるのです。
 この脈絡が分かると、七〇年代以降の学生運動史は世間一般に広く流布しているそれとはまったく違った見え方をしてきます。「世間一般に流布している図式」は、赤軍派がどうの、よど号がどうの、連合赤軍がどうの、内ゲバがどうの、といった話です。それら要するに「諸党派の消息」は、遅くとも六〇年代半ばには存在意義が疑われ始め、「六八年」の過程で事実上乗り越えられ、七〇年の華青闘告発によって最終的に破産宣告を受けた「前衛党」諸派の後日譚にすぎません。七〇年代以降の(学生運動を含む)革命運動の主流はあくまでもそれぞれの個別課題に散っていったノンセクト・ラジカルたちなのです。
 それらはあちこちに分散して存在し、全体が一同に会するような機会もそもそも動機もないために、目立ちません。しかし私がいろいろ調べてみた印象では、「六八年以後」の問題意識を継承してさまざまの個別課題に取り組む学生運動への参加者は、八〇年代半ば頃まで、全国の大学に総勢二、三万人の規模で存在していたようです。彼らは具体的には、さまざまの反差別運動や、水俣病を典型とする公害問題や原発などの環境問題、山谷や釜ヶ崎などの最底辺労働者の支援、あるいは学内の、サークル棟や寮を学生運動の温床とみなす大学当局がそれらを建て替えたり廃止したりする動きへの抵抗や、例えば学園祭などの運営やサークル活動への当局の介入に対する抵抗など、多岐にわたる活動を展開していました。それぞれの運動が個別に存在し、地道に黙々と取り組まれているために、実は総勢で万単位という規模が傍目からは見えにくかっただけなのです。
 それでも多少の「盛り上がり」の時期はあります。七〇年代末から八〇年代初頭にかけてのポストモダン思想の流行やサブカルチャーの隆盛は、その地表に現れた部分ではあったのです。ポストモダン思想がそもそも「六八年」の延長で登場したものであることは先に述べたとおりですし、欧米の同時期にはそれらの新思潮と、パンク・ロックやテクノなどのサブカルチャーと、「緑の党」などに代表される「六八年以後」の社会運動の新展開とが、渾然一体となって一大ムーブメントの趣きを呈します。思想・学問の運動、芸術・文化の運動、そして政治的な運動とが相互に密接な関連を持ちながら同時に隆盛したのですが、日本においてはこれが政治的な運動の特段の盛り上がりを欠いたまま、思想・学問と芸術・文化の領域でのみ、欧米のそれと呼応するような現象が見られたわけです。
 八〇年前後に日本で政治運動の新展開が起きなかったことには明確な理由があります。もはや積極的な存在意義は何もないのにそれなりの規模で存続してしまっていた新左翼諸党派のさまざまの蛮行がこれを阻害したのです。「さまざまの蛮行」の最たるものはいわゆる「内ゲバ」です。
 七〇年に本格的に始まった内ゲバ、つまり新左翼諸党派間の武力抗争は、とくに革マル派と中核派・解放派の間で百名近くの死者と数千名の重軽傷者を出す凄惨なものとなりますが、その最盛期は七〇年代後半の五年間です。
 とくに学生運動の現場においては、これら内ゲバ党派に所属していない他党派やノンセクト・ラジカルの活動家も、内ゲバと無縁ではいられません。学生運動がそれなりに盛んな大学のほとんどは内ゲバを敢行している三党派いずれかの「拠点校」であることが多く、文字どおり命がけで「拠点」を死守している内ゲバ党派にとって、学内で自派以外の運動が一定以上に盛り上がるのは危険です。そんな兆候があれば内ゲバ諸党派は暴力に訴えてでもこれを潰します。欧米では「六八年」の問題意識の延長線上で政治運動の再編が急速に進む七〇年代後半、あるいは日本でそれを担ったかもしれない個性的で優秀な若い活動家は、少なくとも大学の中ではおおっぴらに登場することすらままならなかったのです。