隣のアパートのとある部屋に、明らかにおかしな男性が住んでいた。普段から、奇声や不気味な笑い声が聞こえてくるだけでなく、周囲の物音にも過敏に反応し、子どもの話し声などが聞こえると、部屋の中から壁を思い切り叩いて威嚇してくることもたびたびあった。そして、それは日に日にエスカレートしていき、ある日、長女が帰宅してきた瞬間を狙ってか、偶然か、その男性は部屋の中から飛び出してくると、長女の背後から膨らませた風船をいきなり割って驚かせるという暴挙をブチかましてきたのである。
「知らない人に付いて行ってはいけません」
「不審者には注意しましょう」
その安全神話が崩壊した。
物騒な世の中だからこそ、学校や家庭で、上記のような呼びかけは、常日頃から繰り返し子どもたちの耳にも入ってきているであろう。
むしろ、場合によっては、我々以上にそのあたりの警戒心が強い子もいるかもしれない。
けれども事件は起こってしまった。
犯人は、被害者と同じ学校に通う子どもを持つ父親……。
それだけで十分恐ろしい事実が、やれ保護者会の会長だとか、やれ強化パトロールに参加していたなど、あまりに衝撃的な事実が次々に加算されていき、気が付けば、脳内での処理ができないというよりも、心で受け止めることができずに、仕事中にもかかわらず、私は心身ともに全体的にフリーズしてしまったのである。
我が家の隣の住民は、確かに何かがおかしかったし、子どもの目から見ても、怖い、不気味、としか写らなかったようなので、私だけでなく、子どもたちも、必要以上に警戒していた。
けれども、もしも、それが学校の友達の父親だったとしたら?
毎日通学路の途中に立って、交通誘導などをしながら、子どもたちを見守っているようなオジさんだったとしたら?
「今日、キミのパパに頼まれて、パパが帰るまでうちで預かることになったんだよ」
なんて言われようものなら、我が家の状況からすると、娘は間違いなく着いて行ってしまうことだろう。
では、今後、彼女たちに、どのような意識付けをしておけば、事件を未然に防ぐことができるのか?
「知っている人でもついていかない?」
まぁ、今の世ならば、家族以外は信頼してはいけない、という考え方が出てもおかしくはないだろうし、実際にそういう教育をしている家庭もあるかもしれない。
とはいえ、常に疑心暗鬼を抱かねばならないという状況は、果たして、子どもたちの将来にとって、どのような影響を及ぼすのか?
いやいや、日本が一見平和なだけであって、ひとたび海外に出れば、そういった防犯教育は最低限必要なことではないか?
そんな感じで、グダグダとひとり、自問自答を繰り返しながら帰宅すると、小2になったばかりの長女が出迎えてくれた。
思わず抱きしめたのは言うまでもないが、その後、風呂に入りながら、今回の事件の概要について語って聞かせることにした。
そして、「変な人にはついていかない、というのは理解できても、さすがに知ってる人とかだと無理じゃない?」と、彼女に尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきたのである。
「んー、まぁ、でも大丈夫かな。コナン観てても思うけど、そういう事件の犯人って、怪しいような人は実は犯人でもなんでもなくて、前から知ってる人とか仲良しな人、すごく優しかった人とかが犯人なことがほとんどだから。だから、そういう良い人が実は怪しいとかいうのは、見ればちゃんとわかると思うし」
アガサ・クリスティか!
と、いう、ツッコミはさておき、むしろ、この言葉を聞いて、限りなく恐怖に近い不安を抱いてしまったのは言うまでもない。
絶対、ほいほい、ついてくでしょ、あーた。。。
いずれにせよ、被害にあった少女の家族はもちろんのこと、犯人の子どもたちの今後を考えると、悲しみを通り越して、絶望に近い感情が煮え滾るように沸いてくる。
わかりきった事実だが、子どもたちには何の罪もない。
それは、被害にあった少女も、犯人の子どもたちも、分け隔てなく、一律平等に罪はない。
今後、多くのメディアがこぞって、犯人の子どもだけでなく、この事件の周囲にいる子どもたちに対して、過度な取材をするようなことがあるかもしれない。
トランプ、シリア、北朝鮮、森友……etc.と、なぜだか話題に事欠かない世情とはいえ、悲劇大好物なマスコミからすれば、過剰な取材が起こり得る可能性は絶大だ。
今、子どもたちは、間違いなく、恐怖心でいっぱいのはずである。
見知らぬ人から、突然声をかけられることにも、凄まじい恐怖を感じるはずである。
それがテレビや雑誌の記者だろうが、同じこと。
この記事に書かれていることがいい例だろう。
だからこそ、今やるべきことは、周囲の情報を週刊誌的なスタンスで晒して、恐怖を煽ることではなく、少女の冥福を祈りつつ、第2、第3の事件が起きないように、日頃から何をすべきなのか、どんな準備をしておくかを考えるべきなのではないだろうか。
そのための情報はもちろん必要だとは思うけれども、事件関係者のプライベートにまで深入りするのは危険な行為であると思う。
余談ではあるが、冒頭に登場した、隣のアパートの住人は、いつの間にか、忽然とその存在感が消えてしまい、ある日、いきなり業者のような人たちがやってくると、彼の部屋から大量のゴミやら荷物を運び出し、キレイさっぱりどこかへ移送してしまった。
引っ越しにしては、本人の姿がなかったし、明らかに引っ越しという雰囲気ではなかったことから、突然失踪してしまったのか、あるいは孤独死……? なんてことも脳裏をよぎったりもしたのだが、いずれにせよ、我々家族の不安は一応取り除かれたと言える。
とはいえ、である。
仮に、彼がそこに居続けたとして、何らかの犯行に及ぶかどうかなどはわからないし、それこそ、我々の偏見の目が、彼をそういう存在として捉えてしまっていただけかもしれない。
今回の犯人は、事件後にも、平然とパトロールをしていたのだという。
被害者家族への寄付金を募っていたりもしたようだ。
「殺人犯はそこにいる」
清水潔氏の渾身作のタイトルではないけれども、「そこにいる」の「そこ」は、我々が考え得る「そこ」ではない可能性が大いにあるだろう。
「そこ」を突き止め、未然に「それ」を防ぐこと。
長女が大好きな江戸川コナンならば、まずはそう考えるのかもしれない。
迷宮なしの名探偵だって、事件なんぞは起こらずに済むことを願ってやまないはずだ。
とはいえ、コナンは願わないかもしれないが、イチ父親としては、どんなにその制度に対しての反対意見があろうとも、このボヤきの最後をこう締めくくらずにはいられないほど、犯人に対してのどうしようもない憎悪の感情が巻き起こっていることは事実である。
地獄の「底」に堕ちてくれ。
そりゃ、もう、切実に!