朝飯→ナシ
昼飯→おにぎり2つ
夜飯→ハッシュドビーフ、マッシュポテト、夏野菜ソテーサルサソースがけ、トマトとモッツァレラのサラダ、細モヤシとイカ炒め
飲物→飲むヨーグルト、野菜ジュース、水、金麦糖質オフ500ml
仕事→某アイドル雑誌の校了、某漫画研究本の校了、某アイドル雑誌の編集
ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
そんな「アナ雪」効果の流れに乗って、「自分たちのサッカー」をゴリ押ししていた我らが日本代表は、ありのままを晒け出しすぎたのか、晒せなかったのかはわからぬが、とにかく最後まで「自分たちのサッカー」が出来なかったことを言い訳にし続けてブラジルの地を去っていった。
って、今さらW杯ネタを蒸し返すのかよ! と、思われるかもしれないが、私的な総括として一言物申しておきたい。
というのも、オランダとの死闘を繰り広げPKで散っていったコスタリカや、アルゼンチンとのガチバトルの末に敗れてしまったベルギーなどの去り際が、美しく且つ誇らしかっただけに、いくらか時間が経過したとはいえ、日本代表のW杯はサポーターにとっては本当に世知辛いものになったと思う。
ネット上では「アナ雪」の歌詞を使った「日本代表」への中傷的な言動が目立つようだが、確かに「自分で自分を肯定する」という、この手の言葉は、一歩間違えば言い訳がましく聞こえてしまうし、雪の女王とはまったく状況が異なることから、完全なる皮肉と言えるだろう。
いずれにせよ、彼らが闘えていなかったことだけは確実で、冷静に見直すならば、日本の試合が最もつまらなかったとまで言い切れる内容だったと言えるだろう。
つまり、「自分たちのサッカー」と大言を吐きながらも、「ありのままの自分」すら晒すことができずに終わってしまった、と解釈することができるのだ。
とことんまで自分を貫きすぎて国中を凍りつかせた、エルサの「ありのまま」を見習っていれば、もう少しは善戦できたのじゃないかな、と、思うと結構寂しいものがある。
少しも、どころか正直寒すぎた。
レット、イット、ゴー!
ハッシュドビーフにマッシュポテト、ピクルス。
アナ雪効果なのか知らぬが、やけに豪勢な今夜の食卓。
ハッシュドビーフが美味すぎる。
夏野菜ソテーにモッツァレラサラダ、イカモヤシ炒め。
爽やか野菜尽くしにビールがすすむ。
いえす。
というわけで、要するに、「アナと雪の女王」を観た。
映画の上映期間中は、子どもたちとママちゃんにハブられたため、鑑賞することができなかったのだが、このたびDVDが発売されたということで、ママちゃんがさりげなく購入していたのだ。
そして、本日、私が早めに帰宅するやいなや、子どもらがまくしたてるように「アナ雪」鑑賞をゴリ押ししてきたので、お酒を飲みながら、我が家のエルサとアナと共にじっくり観させて頂いたわけなのだ。
結論から述べさせて頂くならば……。
白馬の王子様はもはや必要ない時代ということか‼︎⁈
いや、むしろ、ソレが幻想であるということを、そんな男性はこの世にはいないんだということを、女性たちが感じはじめているということなのだろうか。
ディズニー映画史上、これほどまでに男が男らしくなく、ピエロ的な立ち位置を演じている映画は観たことがない。
振り返ってみれば、アナと婚約したハンスは典型的なピエロだし、貿易していた隣国のジイさんも相当なピエロであり、最終的にくっついたクリストフに関しても、終始アナペースで踊らされ、彼女を救うようなシーンはひとつもなかった。
しかも、「愛する人とのキス」が魔法を解く鍵だという伏線を張りまくっておきながら、アナにかかった魔法を解いたのは、ハンスでもクリストフでもなく、アナ自身によるものという展開もいまだかつてない。
さらに、本来ならば、「アナとクリストフは結婚して幸せに暮らしましたとさ」というオチがオーソドックスだけれども、2人は結婚したわけではなく、ただ単に結ばれたというラストシーン。
これは、この映画のコンセプトを考える限り、敢えてそうしているのだという解釈もできる。
つまり、「先のことはわからない」ということだ。
離婚率が急激にあがってきている昨今。
男が男であった時代は過ぎ去り、むしろ男の女々しさが露呈しまくりつつあり、男への幻想を打ち崩され、女性が再びひとりで生きることを決心する事例が多くなってきているともいわれる。
「ありのままの自分になるの」
あの歌に共感する女性があとをたたないのも、つまりはそういうことを物語っているのだと思う。
それが果たして良いことなのか、それともマズイ展開なのかはここで私があれこれ言っても仕方がないので、賛否についてはとやかくは言うつもりはない。
けれども、ディズニーがこのタイミングでこの映画が世に贈りだし、そして空前絶後の大ヒットを記録し続けていることには、何かしらの意味があり、とてつもなく考えさせられることではある。
とあるラジオ番組で、タモリさんがこう言っていた。
「『ありのままの自分』って、何なんですかね? 『自分らしさ』っていうのも腹がたつんですよね」
「自分で『自分らしさ』って言ってどうすんですかね? 自分でも自分はわからないし、持て余してるわけですから」
エルサの場合、「持て余している自分をすべて出し切ることで、ありのままの自分の姿を晒し、そして強がって生きることを選択した」わけであり、我々は歌の内容をはき違えてはいけないとは思う。
むしろ、アナこそが、自分からは何も言わずに、ひたすらに自分を貫き続け、愛の力で物語に終止符を打った。
私としては、「少しも寒くない」という歌詞は、エルサの強がりではじまったけれども、最終的にはアナによって再び暖かさを取り戻した世界、つまり「愛」があるからこそ「寒くない」という結論にたどり着いたのだと感じられた。
いずれにせよ、正直に申し上げるならば、私としては、「塔の上のラプンツェル」の方が好きではある。
男的な立場としては、クリストフが今求められる男性像なのだとしたら、少しばかり寂しすぎる気もするし、ユージーンのような女性を尊重しつつもそれに引っ張られ続けるのではなく自分が自分であることは譲らないタイプでいたいと思うからだ。
けれども、だからといって嫌な感じのする映画ではなく、色々なことを考えさせられたという意味でも、イイ映画だったと思う。
娘2人と鑑賞中、ガンガンにかかっていた冷房に少しの寒さを感じていた。
けれども、鑑賞後の私の心は、確かに……。
少しも寒くはなかったから。
コテコテか!