頭陀第一とされた

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)は

ただ実践あるのみと教えるかのよう。

 

本日は

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)を

ご紹介したいと思います。

 

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)は

マガダ国の都、王舎城の郊外にあった

マハーティッタ村のバラモン(司祭階級)の

子として生まれました。

 

生家の豊かさは、国王をも
しのぐほどだったといわれています。

 

尊者の出家前の名前はビッバリといいますが

これは母親がビッバラジ樹(菩提樹)の下で

休んでいたところ、美しい布が天から舞い降りて

枝に引っ掛かり、それと同時に

尊者が生まれたことに由来しています。


姿形に少しの欠点もなく、

金の像のようであったとされます。

 

ビッバリは生まれつき聡明で

様々な学問において優秀な成績を修めていたので

両親は跡継ぎとして大いに期待を寄せていました。

 

ところが当の本人は

栄誉栄達には一切興味がなく

修行者になって心理をつかみたいと考えて

長らく結婚を拒否していました。

 

それでも尊者は20歳の時に

ヴァイシャリーのバラモンの娘

バッダー・カピラーニーと

結婚することになります。

 

幸いなことにバッダーも菩提心が高く

二人は共に修行者になり家を出ましたが

 

“互いに善き師に巡り遇えたら、必ず報せる”

 

と約束してそれぞれ別の道へと歩いて行きます。

 

尊者が家を出たのは奇しくも

釈迦が成道の日であったとされます。

 

尊者は大樹の下に座っていた

神々しい釈迦の姿を拝して

 

「世尊は、私の師であられます。

私は世尊の弟子でございます。」

 

すると、釈迦も

 

『汝は真に我が弟子であり、私は汝の師である。』

 

と返しました。

 

妻のバッダーも後年、

摩訶迦葉尊者の導きにより

比丘尼となったと伝えられています。

 

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)が

釈迦に弟子入りして間もない頃、

釈迦が托鉢を終えて木陰に座ろうとしたとき

尊者は自分の衣を脱いで4つ折りにして

座を設けました。

 

その上に座った釈迦は

衣が柔らかであることを褒めました。

 

尊者は自らが師よりも

上等な衣をまとっていたことを恥じ

釈迦に願って着用していた糞掃衣(ふんぞうえ)と

交換していただきました。

 

それ以来、破れると継ぎを当てながら

終生、それを着続けたといわれています。

 

尊者は「頭陀第一」とされた弟子ですが

十二条ある頭陀行の修行のうちには

糞掃衣を着ることが挙げられています。

 

『十二頭陀行』

1.糞掃衣(ふんぞうえ)

ゴミ溜めのぼろ布を拾い、きれいに洗って衣として着る。

2.担三衣(たんさんね)

三衣(下着、上着、その上に羽織る大衣)以外を所有しない。

3.常乞食(じょうこつじき)

常に托鉢乞食(たくはつこつじき)によって生活する。

4.不作余食(ぶさよじき)

間食をしない。

5.一坐食(いちざじき)

一日一食。しかも午前中のみ。

6.一端食(いったんじき)

食の量を節し、食べ過ぎない。

7.空閑処(くうけんしょ)

人里離れた山林に住む。

8.塚間坐(ちょうけんざ)

墓場に住む。

9.樹下坐(じゅげざ)

樹の下に住む。

10.露地坐(ろじざ)

野外に住む。

11.随坐(ずいざ)

随所に根具を敷く。

12.常坐不臥(じょうざふが)

常に坐し、横になって寝ない。

 

頭陀行の基本精神は「遺教経」に

“少欲知足(しょうよくちそく)”の法として

次のように説かれています。

 

“足ることを知っている人は

地面に寝るような生活していても

幸せを感じている。

だが、足ることを知らない人は

天界の宮殿に住んでも満足できない。

足ることを知らない人は、

いくら裕福であっても心は貧しいのである”

 

出家前は富豪の家に生まれた

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)ですが

比丘になって頭陀行を極めたことで

本当の意味での富者になることができたのです。

 

しかし、頭陀行は

通常の比丘や比丘尼の修行生活より

厳しいものであり、晩年年老いた尊者を

案じた釈迦が

 

「摩訶迦葉よ。

もう厳しい頭陀行を行う必要もなかろう。

その衣も幾重も次当て布で重かろう。」

 

と伝えても尊者が頭陀行を

やめることはありませんでした。

 

『このような生き方が、私には楽しいのです。

それに、私の頭陀行が後世の人々の

参考になるのではないかと思うことも楽しいのです。』

 

と尊者が答えると

釈迦は“楽しい”という一言に

尊者の生き方を是認して

 

「摩訶迦葉の頭陀行があれば

我が教えも長く世にあるであろう。

比丘たちも大いに彼を見習うべし」

 

と話したといいます。

 

釈迦は、

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)の姿を

“月の如くである”と表現しています。

 

托鉢における比丘の心得を説いた際に

摩訶迦葉尊者を例に取り伝えています。

 

「月は透き通った美しい光をもってして、静かに家々を照らす。

摩訶迦葉は月の如く、よく心身を整え、在家を訪ねる。

常に新米比丘のように謙虚である。」

 

尊者は特に貧者の家を選んで托鉢に行きました。

 

王舎城の貧者の中でも最も貧しい

ある老婆のもとにも例外なく訪れました。

 

『国中に私ほど惨めな者はおりません。』

 

老婆は身寄りもなく、ごみ捨て場に住み

長者の英の使用人が捨てる残飯を拾い

飢えをしのいでおり、病のせいで身体から

悪臭を発し、近寄る者は誰もいない老婆は

涙ながらに伝えました。

 

それでも尊者が自分のところへ

来てくれたことがうれしくて

自分が持っているものは全て布施して

感謝の気持ちを表したいと願いました。

 

「布施の志を持つ者は貧者ではない。

慚愧(ざんぎ)の念を持つ者は

法衣(ほうえ)を着ている者である。

立派な衣服や財物を持っていても

慚愧(ざんぎ)の念を持っていない者こそ

貧者である。

布施の志と慚愧の念を持っている汝は

もはや貧者ではない。」

 

この言葉によって

老婆の悲しみや苦しみは洗い流され

幼子のように無垢な心となった老婆は

喜びのままに、酸っぱくて異臭を放つ

米のとぎ汁を尊者に差し出しました。

 

尊者は全くいとわずに飲み干して
すっと風のように去っていき

その後数日で老婆は亡くなりましたが

布施の功徳によって天界に生じたとされます。

 

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)は

舎利弗尊者目連尊者の亡き後に

首座となって釈迦から法灯を継いだ弟子と

されています。

 

釈迦がいかに

摩訶迦葉尊者を信頼していたか、

いろいろな話が伝わっています。

 

祇園精舎にいた釈迦を尊者が訪ねた際には

みすぼらしい格好をしている尊者に対して

誰も敬意を示そうとはしませんでしたが

それを察した釈迦は尊者に親しく声をかけて

 

「よく来ました。摩訶迦葉よ。

半座を空けているので、ここに座られよ。」

 

とご自身の座を少し空けて

傍らに座るように示されたこともありました。

 

また“拈華微笑(ねんげみしょう)”と呼ばれる

有名な逸話があります。

 

釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で

説法をしていると、一輪の金色の蓮の花を

献じた人がいました。

 

釈迦は、その花の首を少し拈って微笑み

皆の前に示しています。

 

誰もその意味を理解することが

できませんでしたが、一瞬の後、

摩訶迦葉尊者だけが釈迦の真意を悟り

にっこりと微笑みました。

 

釈迦と摩訶迦葉尊者の内には

以心伝心、言葉にせずとも

通じ合うものがあったのです。

 

釈迦の涅槃の知らせを

旅先で知った摩訶迦葉尊者は

弟子たちの中から思いもよらぬ声を

聞いてしまいます。

 

『何も悲しむ必要はないではないか。

我々は、これをせよ、あれをするなと

口うるさい釈尊から解放されたのだ。

これからは好きなようにできるではないか』

 

それは年老いてから出家した比丘の声でした。

 

傍若無人な放言を聴いた尊者は

自分の耳を疑いました。

 

「このままではすぐにバラバラになる。

弟子たちを導くためには、拠処が必要だ。

何としても師の教えを護っていかねば・・!」

 

釈迦の教えには、大きな特色がありました。

 

“対機説法(たいきせっぽう)”

 

それは、聞く人の性質や能力

抱える問題の度合いや種類に応じて

臨機応変に説くものです。

 

相手の病気に応じて
処方する薬を変えるような説き方であり

“応病与薬(おうびょうよやく)”とも

言われます。

 

仏教は対機説法であるがゆえに

まるで山頂を目指すのには

四方八方の登山道があるがごとく

多様であり“八万四千の法門”があると

言われるほど、その教えは膨大です。

 

その教えを早くまとめて

真の師の教えを整えねばならないと

摩訶迦葉尊者は思いました。

 

釈迦の棺に火を何度点けようとしても

火が点かなかったにも関わらず

旅先から摩訶迦葉尊者が到着して

釈迦のご遺体に礼拝すると

たちまち勢いよく燃え出したといいます。

 

まるで釈迦が後継者として認めた

摩訶迦葉尊者の到着を待っていたかのように。

 

釈迦の葬儀の後、

摩訶迦葉尊者は比丘たちに提案しました。

 

「我らは一刻も早く

釈迦の説かれた教法と戒律を

正しく編纂しなければならない。

さもないと邪説がはびこって

仏法を護る者を滅ぼすであろう」

 

尊者の提案した話し合いのことは

“第一回結集”と呼ばれています。

 

結集の場所は

竹林精舎の裏山の中腹にある

「七葉窟」に決まりました。

 

悟りを開いて高い境地に達した

499人がインド各地から呼び集められましたが

当時、阿難尊者(あなんそんじゃ)は

除外されていました。

 

阿難尊者は釈迦の従者を

25年間にわたって務め

師のお世話に没頭してきたため

修行する時間も取れず

いまだ悟りを得ることが

できていなかったからです。

 

しかし“多聞第一”と称されるほど

釈迦のご説法を聴聞し

記憶していた阿難尊者は

必要不可欠な存在でした。

 

そこで阿難尊者は結集の前夜に

一心に瞑想し、悟りの境地へと至り

条件を満たしたとされています。

 

これで500人の遺弟(ゆいてい)である

“五百羅漢(ごひゃくらかん)”がすべて揃い

結集は開かれました。

 

議長は、もちろん摩訶迦葉尊者、

戒律は、“持律第一(じりつだいいち)”の優波離尊者(うばりそんじゃ)、

教えは、“多聞第一(たもんだいいち)”の阿難尊者(あなんそんじゃ)が

それぞれに担当しました。

 

阿難尊者、または優波離尊者が

 

「如是我聞(にょぜがもん)(私はこのように聴いた)」

 

と前置きして、

そのとき釈迦がどこにいて、

どのような状況だったかを説明し

どのようなことを説かれたかを述べます。

 

摩訶迦葉尊者は立ち上がり

 

「異論のある者はいないか?」

 

と一同に尋ねます。

 

そして全員の意見が一致すれば

皆が一斉に、鬨(とき)の声を上げます。

 

こうして大音声(だいおんじょう)が

七葉窟(しちようくつ)に響き渡るごとに

「経」「律」が確立していきました。

 

これに後年、

弟子たちの理論づけである「論」が加わり

“経・律・論”の三蔵が成立し、仏教が確立しました。

 

教えは後に文字に写され

シルクロードを経て七千巻、八千巻に及ぶ

「一切経(いっさいきょう)」となり

大和の国へと伝わってきました。

 

「第一回結集」を終えると

摩訶迦葉尊者は・・

 

以前と変わらぬ頭陀行に励んで

百歳を過ぎた後、阿難尊者に仏教を託して

涅槃に入ったと伝えられています。

 

裕福な家庭に生まれたにも関わらず

その一切の豊かさを手放し出家した上で

頭陀行を“楽しい”と話し貧しい人々にも

心から寄り添い続けた摩訶迦葉尊者。

 

そのお姿からは

“足るを知る”という本質について

深く深く考えさせられました。

 

また今もなお仏教がこうして

釈迦の教えから一歩もはみ出ることなく

七千巻、八千巻という一切経として

現代にまで受け継がれてきたのは・・

 

摩訶迦葉尊者が

釈迦の教えを護ろうとしたことで

五百羅漢という遺弟たちが結集できて

鬨(とき)の声を上げたからなのだと知り…

 

その壮大なスケールの教えには

ただただ感謝の念が湧くばかり。

 

これからも少しでも
素晴らしい仏教の教えについて

皆様にもお伝えできましたら幸甚であり…

 

また私自身も皆様と共に

学んでいけましたら嬉しく思います。


大切なことはいつだってシンプル。


どうぞ今をたいせつに。

 

 
 

 

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陰陽五行論の理論的学問を用いた東洋哲理を主体とし、主に人間分析学を基軸とする干支暦の学理を学ぶ他、帝王学、選択意識の心理学、腸内からの健康管理法、初めてのビジネス構築の基礎を学びます。
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