仏教の学びでは
釈迦と共に学びを広めた
十大弟子の存在と活躍は
多くの方の知るところです。

私自身は今から
8年前の2012年に
佛縁をいただくに至り
それ以来ずっと東洋哲理を
学ばせていただいていますが…

どんなに学んでも
学びの深さを感じるばかり。

悟りの境地など
到底、辿り着けないと
感じることばかりですが
東洋哲理の中でも仏教は
“自覚”を大切にする学びです。

釈迦の十大弟子の
足元にも及びませんが…

学びと真摯に向き合った
十大弟子の姿からも
学ぶことは深い。

そこで
釈迦の十大弟子の学びを
しばらくシリーズで
お届けしたいと思います。

初めは、
弟子の中の上首で智慧第一の
舎利弗尊者の物語から
ご紹介したいと思います。

舎利弗尊者は
十大弟子の筆頭であり
釈迦より「智慧第一」と、
賞賛された弟子です。

祇園精舎の建立を始め
教えを広げることにも
大変大きな貢献を果たしています。

なぜ多くのことを
成し遂げられたのか
舎利弗尊者の人となりから
共に学んでいきたいと思います。

インドには古くから
カースト制という階級制度が
ありました。

カースト制には
四姓(しせい)があり
最上層は、バラモン(司祭)
第二は、クシャトリヤ(王族・士族)
第三は、ヴァイシャ(庶民)
最下層は、シュードラ(奴隷)
です。

これらの身分はいかなる場合でも
絶対に変えることはできず
親の身分は代々子孫に引き継がれ
異なる身分間の婚姻は
決して許されませんでした。

後に、
釈迦はこうした身分は
一切関係ない教えを説き
シュードラ(奴隷)から
優波離尊者を弟子としています。

そんな優波離尊者も
後にご紹介してまいります。

舎利弗尊者は
マガダ国の都、王舎城近郊の
ナーラカ村のバラモン(司祭階級)の
一族としてティッシャとシャーリーの
8人の子の長男として生まれました。

舎利弗(シャーリプトラ)とは
「シャーリーの子」という尊称で
幼名は「ウパティッサ」です。

マガダ国有数の知識人の祖父、
それを知識で論破した秀才の父
母シャーリーは名高い才嬢。

その頭脳の結晶が
佛弟子の中で「智慧第一」と
称された舎利弗尊者なのです。

舎利弗尊者は
博識な父母の薫陶(くんとう)を受け
幼くしてバラモンに伝わる
膨大な聖典を易々とそらんじるほど
神童ぶりを発揮しました。

8歳のときには
正式に師につき
16歳になった頃には学問を究め
四方にその名が響いていたと
いわれています。

しかも頭脳だけではなく
舎利弗尊者は全てにおいて
徳を具えていました。

人格は高潔で思いやりあり
容貌は凛々しく見事な体を
していました。

ここまで完全無欠であると
本人が意図しなくとも
周囲は勝手に近寄り難く感じ
どうしても孤高になりがちですが
舎利弗尊者には無二の親友が
存在していました。

近くの村に住むコーリタ、
後の神通力第一の目連尊者です。

年齢が近くバラモンとして
高い教育を受けている
目連尊者は、舎利弗尊者には
会話をしていて手応えを
感じられる相手でした。

価値観もよく似ていて
名誉や物質的な成功に関心なく
自分の学問と人格を高めることを
第一に考えているところも
気の合う理由でした。

舎利弗尊者が目連尊者を
なによりも好ましく思うのは
その素直でまっすぐな性質でした。

多くの学友は腹に「妬み」という
毒を隠し持って舎利弗尊者に
接していましたが目連尊者は
違いました。

「君は本当に聡明だなぁ」

目連尊者は自分が凄いと思えば
手放しで相手を賞賛し
反対に間違っていると思えば

「いくら君でもそれは違う」

と指摘する度胸も持っていました。

心の内に少しの濁りもなく
いつも白い歯を見せて
快活に笑う目連尊者に対し
舎利弗尊者は、

“こんなに心の清らかな人はいない”

と感じていました。
2人はお互いを認め合い
尊敬し合う真の“善き友”でした。

ある時、2人は王舎城郊外の
山頂祭へ出かけました。

日頃勉学に忙しい2人も
若者らしく深夜まで遊びに
興じていましたが、次第に
舎利弗尊者から笑顔が消えました。

「疲れたのかい?もう帰ろうか?」

目連尊者が気遣うと
舎利弗尊者は首を振って

『大丈夫だよ。
ただ私たちも含めて、
ここで大口を開けて笑っている者は皆
100年後には誰も生きていないと考えると
遊んでいる場合じゃない、
解決しないといけない問題があるって
気がついたんだ。』

目連尊者は舎利弗尊者の
心の内を理解して言いました。

「人間はなんのために生まれてきて
死んでいくのか、という問題だな。」

2人は時が経つのを忘れて
語り合いました。

「都には、諸国から
思想家が集まっているそうだ。
真理を握っている師に
出遇えるかもしれない。」

初め2人はサンジャヤに出遇い
優秀な2人は短時間で
サンジャヤの教えに通じ
250名の弟子の指導を
任されるほどになります。

それでも祭りの夜に感じた
空しさに対する答えはなく
舎利弗尊者は目連尊者に言いました。

『いつか真の師に出遇えたら
お互いに報せようではないか』

ある日、舎利弗尊者は
町の中で見慣れぬ修行者と
すれ違いました。

威儀(いぎ)第一と称された
釈迦の弟子アッサジ尊者です。

彼の立ち居振る舞いから
“ただ者ではない”と感じ
舎利弗尊者は様子をみて
声をかけました。

『尊きお方よ。
あなたは徳の高い方に違いありません。
いったい、どなたのお弟子で
あられるのでしょうか。』

アッサジ尊者は答えます。

「釈迦族の出身で
大いなる悟りを開かれた釈尊を
師と仰いでおります。」

舎利弗尊者は
身を乗り出すようにして問います。

『その釈尊と仰るお方は
どんな教えを説かれるのでしょうか』

しかしアッサジ尊者は一礼して

『私はまだ弟子になって日が浅いので
きちんと説くことができません。」

その謙虚さに、師である釈尊の
素晴らしさを感じ取った舎利弗尊者は
重ねて乞いました。

『お願いでございます。
少しでも構わないので、
教えをお聞かせ下さい。』

根負けしたアッサジ尊者は
遠慮がちに短い偈を口にしました。

“諸(もろもろ)の事柄は原因から生じる
如来はその原因を説かれ
またその消滅をも説かれる”

舎利弗尊者はこの偈が
“因果の道理”を説いている事を
即座に理解して

“これこそ真理だ”

と直感します。

そして釈迦が
郊外の竹林精舎にいることを聞き出すと
喜び勇んで目連尊者のもとへ
駆けつけました。

「もしかして真の師が見つかったのか!」

舎利弗尊者がウンウンとうなづき
出来事や偈を語って聞かせると
目連尊者も直ぐに同じ心となりました。

そこで2人は
師であるサンジャヤに
釈尊の御許(おんもと)に行く事を告げ
サンジャヤも一緒にと勧めますが
サンジャヤはプライドが邪魔をし
2人の善意を受け入れることは
できませんでした。

舎利弗尊者と目連尊者が
竹林精舎へやって来ると
釈迦はすぐに弟子になることを
許しました。

釈迦は2人が来ることを

“もうすぐ二大弟子となる者が現れる”

とすでに予言していました。

サンジャヤの元にいた
250名の修行者たちも
舎利弗尊者と目連尊者を慕い
共に釈迦の比丘(びく)と
なったためにサンジャヤは
弟子を盗られたと病に伏し
王舎城の民衆は噂を立てました。

それでも釈迦は動じず
次の偈を伝えています。

“諸(もろもろ)の悪を作(な)すことなく
諸の善を行い 自らその心を浄(きよ)くす
是が諸の佛の教えなり”

釈迦は出家後間もない
舎利弗尊者に上首の座を与え
目連尊者には2番目の座を与えました。

この時2人は、27〜28歳頃でした。

比丘たちは驚き
口々に不平を言い立てました。

“いくら優秀だといっても若過ぎます!”
“序列は五比丘が先ではありませんか!”
“釈葉三兄弟の方が格上です!”

釈迦は、こうしたことは
前世の行いで決まると説きました。

“前世において、
各々(おのおの)が積んでいる
功徳は違う。
五比丘のコンダンニャは
最初に悟りを得る徳を積んでおり
舎利弗と目連は
人の上に立つ徳を積んでいたのだ”

比丘たちは目の前のことしか
判断できなかった浅はかさを
恥じました。

舎利弗尊者が悟りを得たのは
釈迦が別の比丘にした説法を
聞いた時で、出家後わずか
14日目のことだったとされています。

目連尊者はそれよりも早く
7日目に高い境地に至っていました。

瞑想中に居眠りをして
釈迦がおいでになった事に
ビックリした尊者が教えに集中し
悟りを体得したからです。

才知において上回っていた
舎利弗尊者が目連尊者に遅れを取ったのは
頭で理解しようとしていたからですが
それでも、いったん悟りを得てからは
その頭脳は佛の智慧へと昇華しました。

釈迦の御心を最もよく知る者であり
同じ眼で物事を見ることができた
舎利弗尊者は釈迦より

“舎利弗の言うことなら間違いはない。
彼は真理の内に入っているからである”

と言われていたといいます。

“智慧第一”と称された
舎利弗尊者の智慧とは
そこまで深奥に至っていたのです。

舎利弗尊者は終生、
縁のお手引きとなったアッサジ尊者へ
感謝の心を忘れることは
ありませんでした。

寝る前には
アッサジ尊者のいる方角に
手を合わせて決して足を向けて
寝なかったといいます。

舎利弗尊者の純朴なまでの
一途さは他人に対してだけでなく
自分に対しても向けられて
それは時に厳し過ぎるまでの
一徹さに変じました。

ある時、舎利弗尊者は
食事に招かれた沙弥(しゃみ)である
少年僧に

『皆、満足に食べることができたか』

と尋ねました。
すると彼は

「上座・中座の比丘は
よいものを出されましたが
私たちには粗末な食事が出されました。
ですから、力が出ません」

彼は

“このような不公平な食事をさせるのは
上座の罪である”

と叱り、食事についての規定も
新たに設けられることになりました。

責任を感じた舎利弗尊者は
それ以来、托鉢のみで食を受け
食事の招待には応じなくなります。

舎利弗尊者を食事に
招きたいと信徒が申し出ても
釈迦はこう話したと言います。

“それには及ばぬ。
過去世より舎利弗は受けるべきを受け
棄てるべきを棄てる性分を具えているのだ”

一度決めたら終生貫き
何事にも中途半端なことは行わない、
それ故に釈迦から篤い信頼を受け
人々からも尊敬されました。

釈迦が成道した45年目、
舎利弗尊者は重い病を得て
死が近いことを悟ります。

故郷の母であるシャーリーは
子供達が皆、出家してしまったので
仏教を憎む気持ちが増していました。

母としての執着が
彼女の聡明さを曇らせていました。

舎利弗尊者はそんな母を
救うために故郷へ戻ります。

母の元へたどり着くと
舎利弗尊者は直ぐに
大量の血を吐いて倒れます。

彼の喀血(かっけつ)の報せを聴き
比丘たちや王族、長者たちは
次々と見舞いに訪れました。

皆、知識人であり
尊い身分の者ばかりでした。

彼らが舎利弗尊者を
“舎利弗長老”と呼び
涙を流して威徳を褒め称えるのを
目の当たりにして、母のシャーリーは

“息子が出家したのは
間違いではなかったのだ。
送り出して良かったのだ。”

と思えるようになります。

舎利弗尊者は母の変化を見て
母に真理を説きました。

感涙にむせぶ母をみて
安堵の笑みを浮かべて

「母上、私をこの世に
出して下さって有り難うございました。
育てて下さって有り難うございました。
私はやっと母上に恩返しができました。」

そう伝えます。

そして比丘たちを呼んで

「私がこれまで
汝らに罪を為していたなら
どうか許してほしい」

と懺悔しました。

比丘たちはすすり泣きました。

「これまで私たちは、
朝夕、影の形に従うが如く
長老と共にありました。
その間に不快な気持ちを持ったことは
ありません。
至らぬ私たちこそが懺悔せねばなりません。」

満月の夜、舎利弗尊者は
自身が生まれた部屋に寝て
しばらく痛みに苦しんでいましたが
少し落ち着くと右脇を下にして
静かに涅槃に入っていきました。

その後、ほどなくして
異教徒に襲われて重傷を負った
目連尊者も故郷で涅槃に入ったと
言われています。

王舎城へ向かった青年の時から
舎利弗尊者は夢を持ち、その夢を
夢として終わらせない行動力を
示し続けてきました。

失敗とは諦めたときに生じるもの。

夢、理想を貫き、
諦めずに行動し続けた姿こそが
“智慧第一”と称された舎利弗尊者の
“真の智慧”の現れだったのかもしれません。

大切なことはいつだってシンプル。

どうぞ今をたいせつに。


 
 

 

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陰陽五行論の理論的学問を用いた東洋哲理を主体とし、主に人間分析学を基軸とする干支暦の学理を学ぶ他、帝王学、選択意識の心理学、腸内からの健康管理法、初めてのビジネス構築の基礎を学びます。
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