ハンセン病補償 | 東洋大学文学部日本文化学科通信課程

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東洋大学に入学して6年目です

石碑の彫り方、技術について研究をしたい。
石碑の字は書家と彫師の2人の手が重なっているのに、その拓本をなぜ手本とするのか?

母親から妹のところに手紙が届いた

内容は以下の通り

母親の父がハンセン病で、その補償制度が始まり、親配偶者子供には180万円。甥、姪、孫には130万円の補償額が提示され、早ければ今月中に支払われるそうだ。

必要書類は戸籍謄本、住民票、通帳コピーなど。

が、ここで条件がある。同居しているということ。

住民票でわかるところだ。

同居したことないのでもらえないし、そんなお金いらない。

両親は中学の頃方夫婦げんかがひどくなり、父親のDVが毎日あった。父親は毎日酒を飲み、仕事はしていたが、ちょっとでも気に食わないことがあれば、暴力を母親にふるった。子供たちには暴力を振るわなかったが、家から閉め出しをしたりした。

警察を呼んでも、民事不介入として当時は話を聞くだけ。父親の言い訳は「ちょっと、おしただけ」ちょっと押しただけで顔が腫れ上がるか?窓が割れるか?なたを振り回すか?

母親は一家心中を図って、ガス栓を開けること3回

私は中学時精神的にまいって、熱性痙攣などを起こすこと毎日で、朝礼でも立っていられない子供だった。そんな私を育ててくれたのが柔道の先生、書道の先生、中学の先生。

私が高校の時、両親の離婚は成立した。父親は離婚後即再婚して、3人目の子供を作った。

母親側に私と妹がつき、足立区の母子家庭の都営住宅に住んだ。母親の仕事は東邦生命の外交員。私は高校に通ったが、小遣いなどなし。東京育英会の奨学金月9000円が小遣いと電車賃だ。高校の学費は、母親が出した。また妹は都立紅葉側高校、当時茅場町にあった。

二人とも何とか高卒を果たした。私は1浪をし、慶応大学に進んだが、就労と勉学は無理で、途中休学をしながらも中退。この時、母親と暮らしていた妹は、男問題で母親に熱湯をかけられるセッカンを受けて、太ももなどケロイド状態になった。

家族全員がバラバラの時期。母親は刑事事件として裁判を受け有罪。

その後お見合いをして再婚。

妹は、アルバイト先で知り合った男性と結婚し、埼玉県で過ごしている。旦那が私が心筋梗塞で入院しているとき、同じように心筋梗塞で入院した。

その後、旦那は退職し、生活は妹が見ることになった。まずは道路工事。そして現在フィリッピンパブのオーナー。うまくいっているようだ。

母親は、再婚した相手と中華屋を開いたが資金繰りでサラ金に手を出し、逃げた。

その取り立てが、私の住んでいたアパートにきて、取り立ての張り紙をしていく。

「いるのはわかっている!にげられないぞ!」という内容の張り紙が毎日。

法律事務所に当時勤めていたので書類を書き、サラ金へ送った。以後来なくなった。

何とか返済したらしく、母親は東陽町で老人のための弁当つくりをし、NHKなどの取材が入り、江東区からは表彰された。取材時、私たち子どもは死んでしまったような話をしている。現在はNPO法人。

私の父親は、再婚後バブル景気に乗って取りなどを購入、結果はバブルはじけた。

そして自宅近くの公園開発により、自宅付近の土地が絡んで現在は新しい家に建て変わった。仕事は、ビニールの加工。車検証入れ、ビーチボールなど、ビニール加工全般

両親の実家は栃木、父親は壬生。母親は下今市。母親は食い扶持を減らすため、狐塚家へ養女。母親の父は木村。母親は石川。父親も田中家から岡部家に。

もう何が何だかわからん。

そんな、波乱万丈な人生が終わったかと思いきや今回の手紙。

さて、どうなることやら・・・