第一 紋門の事
或人東汀翁ニ謂フテ曰ク首里城門前ノ大街を「アヤジヤウト言フ」 ジヤウハ乃チ道ノ字ナラン 荻堂(ヲギダウ)ヲ「ヲンジヤウ」ト言ヒ 和仁屋間馬塲ヲ和仁屋間ジヤウ 胡屋馬塲ヲ胡屋ジヤウト唱フカ如シ 翁曰 否然ラズ「アヤジヤウ」ハ乃チ紋門ナリ 平生用フル所ノ方言 門ヲジヤウト言フハ児童走卒モ知ル所ナリ 守礼門ヲ上ノ鳥居(トリヰ)中山門ヲ下ノ鳥居ト言フ 両門トモニ丹タル故ニ之ヲ紋門ト唱フ 古歌ニ 上下ノ紋門関ノ戸モサゝヌオサマトル御世ノ徴シサラメ トアリ ヱガケルノヲ「アヤ」ト唱フハ此ノ地ノ方言ナリ 古記ニ據レバ琉球官舩ヲ「アヤブネ」ト称ス 今ハ楷船ト言フ 官船ハ支那風ヲ習テ船躰皆ヱガキテアル故ニ紋船ト唱フ 古歌ニ 三重城ニノボテ手サヂモチヤゲレバ紋船ノナライヤ一目ト見ユル トアリ 今世人悉ク「ハヤフネノナライヤ」ト唱ヘテ居ル 是レニアラズ 紋船ト言ヒタルコト古記ニ多シ 昔沖縄鹿児島ト紋船往來スト言ヒ鹿児島在番親方ヲ紋船使ト言フガ如シ
ある人が東汀に向かって言いました。「首里城の門の前の大通りを「あやじょう」といいます。」「じょう」は「道」のことなのでしょうか。荻堂を「おんじょう」と言います。「和仁屋間馬場」を「和仁屋間じょう」と「胡屋馬場」を「胡屋じょう」と言うのと同じです。東汀が言いました。「そうではありません。」「あやじょう」は「紋(あや)門(じょう)」のことです。ふつう使う方言で「門」を「じょう}というのは、子供や使い走りでも知っています。守礼門を「上の鳥居」、中山門を「下の鳥居」と言い、両門とも赤いので「紋門(あやじょう)」と言います。古い歌に「上(うぃい)下(しむ)ぬ紋門(あやじょ)関(しき)ぬ戸(とぅ)ん鎖(さ)さん治(うさま)とぅる御世(みゆ)ぬ徴(しるし)然(さ)らみ」・「上と下の紋門の扉はいつも開いている、治まっている時世のしるしなのである」とあります。描いたものを「あや」と言うのはこの土地の方言です。古い書物によると琉球官船を「あやぶに」と言います。今は「楷船」と言います。官船は中国にならって船体全部が描かれてあるので「紋船(あやぶに)」と言います。古い歌に「三重城(みぐしく)に登(ぬぶ)てぃ手拭(てぃさじ)持上(むちゃ)ぎりば紋船(あやぶに)ぬ慣(なれ)や一目那覇(ちゅみ)どぅ見(み)ゆる」・「三重城に登って手拭を振ると、紋船のことだからいつも一目だけしか見えない」とあります。今の人はみんな「早(はや)船(ふに)ぬ慣(なれ)や」と言っています。そうではありません。紋船(あやふね)と言っているのは古い書物に多いのです。昔、沖縄と鹿児島を紋船(あやふね)が往来すると言っています。鹿児島在番の役人を「紋船(あやふね)使い」と言っていました。
※現在では「紋門」ではなく「綾門」と表記するようです。「あや」はおもろさうしに何度も登場します。意味はここに書いてある通りです。原文「字」は「宇」のようにも見えますが「字」とします。「関の戸」は大和言葉の借用と思われます。「関所の門や扉」のことです。三重城からは那覇港を見下ろすことができました。琉球王国は薩摩藩の侵攻以来、実質的に薩摩藩に支配されていました。薩摩藩が沖縄においた出張所が「在番所」です。戦後、アメリカが沖縄支配のためにおいた「高等弁務官」を思い出します。
@ラッキーなことに私は琉歌にかなりくわしいと思います。たぶん原文を読んだだけでは、ほとんどの人がこの二つが琉歌であることさえ判別できないのではないでしょうか。