第四回ノ第十八 冊封勅使趙文楷自筆ノ観音経ヲ尚温王ヘ呈スル事
尚温王ハ天性睿明ノ上学問ヲ好ミ玉フコト特ニ甚タシ 其国学及ヒ三平等学校ヲ創立シ人材ヲ養フニ汲々孜々セラレ 且嵩島氏ヲ特進シテ政官ニ任セ玉シ(第一回第五章参照)等ノ事誠ニ聖賢ノ事業モ之レニ過クヘカラサルヘシ 不幸ニ享年僅カ十九歳ニ薨御 若シ長寿ヲ得玉ヒナハ必ス聖賢ノ地位ニ至リ玉フモ知ルヘカラズ 其支那皇帝ノ冊封ヲ受ケ玉ヒシハ十八歳ナリ 冊封勅使趙文楷ハ王ノ御容貌御短命ナルヲ憂ヒ 特ニ自ラ観音経ヲ写シ之ヲ呈上シ 朝暮信心ニ誦読怠リ玉ハズハ 或ハ延年ヲ得玉ハントソ言ハレケル 王莞爾トシテ笑テ人ノ夭寿ハ天ナリ 豈誦経ノ能ク遷ス所ナランヤ 趙文楷ハ状元ナリト聞キシニ 猶誦経ノ惑ヒナキ能ハサルカナトゾノ玉ヒテ之ヲ読ミ玉ハス 其観音経ハ今猶書庫ニアリ 掌大ノ摺折本ニテ高サ一尺位ノ黒面紙ニ金泥ヲ以テ書シ 小細ナル数百字ナリ 筆勢勇壮真ニ得カタキ珍本ナリ 且ツ王ノ御病気ハ鬢疽ナリトソ伝ヘラル 当時医術未開ケス故ニ〇治効ヲ奏スル能ハス 方今ノ時ナラハ何ンゾ御命ヲ誤ルニ至ラン 惜シムヘキノ至リナリ (〇は不鮮明)
第4回の第18 冊封(さっぽう)勅使(ちょくし)・超文楷(ちょうぶんかい)が自筆の観音経を尚温(しょうおん)王へ贈呈したこと
尚温王は、生まれながらにして聡明な上に学問がとても好きでした。最高学府の「国学(こくがく)」と首里の三地域に高等学校を建てました。人材を養うのに一生懸命でした。そして平の士族を政務官に抜擢しました(第1回の第5章を参照)。まことに聖賢の事業もこれを超えることはできません。不幸にして享年わずか十九歳で早世しました。もし長寿であったならば、必ず「聖賢なる国王」と呼ばれていたことでしょう。中国の皇帝から国王に任命されたのは十八歳の時でした。国王任命の使者・趙文楷は王の容貌に短命の相があることを心配していました。特に自ら観音経を写経して尚温王に贈呈しました。観音経を信じて読経していれば、寿命が延びると言われました。国王は静かに笑って、人の寿命は天が決めるものであり、読経とは関係がないと言いました。趙文楷は科挙を首席で合格したそうです。それなのに読経などをするのかと言って、国王は読経はしませんでした。その観音経は今も書庫に保管されています。手のひらくらいの大きさで、蛇腹に折り込んだ本です。高さは30センチくらいで、黒い紙に金泥(きんでい)で書かれています。小さな細い字で数百字です。筆勢は勇壮でほんとうに立派な珍本です。国王の病気は鬢疽(びんそ)だそうです。当時は医術が発達していなくて治療することができませんでした。現在ならば命が助かったかもしれません。本当に惜しむべきことです。
※「首里三平等(しゅりみふぃら)」はこれまで何度も登場しました。要するに首里の三つの行政地域です。平等(ふぃら)は当て字です。平等(びょうどう)という意味ではありません。平等学校は現在のレベルでは「高等学校」に相当します。沖縄では伝統的に仏教はそれほど重んじられてはいませんでした。「鬢疽(びんそ)は現代医学で言うと「頭部乳頭状皮膚炎」だそうです。
@いつの時代でも「現在ならば治っただろう」という病気はあるものですね。ガンもまたそのように言われる時代がいつか来るのでしょうか。