本日の歩数:2675歩

年初来歩数:2715268歩

開始来歩数:37135295歩

 

本日のスク:150回   本日の腕立:50回    本日の腹筋:40回

開始来スク:18530回 開始来腕立:11400回 開始来腹筋:5810回

 

もしも脳が自分であるとして、その脳が自分であると、どうしてわかるのだろうか。

 

その脳が自分であると分かるためには、先に、自分が自分であると分かっていなければならないはずじゃないだろうか。

 

その脳であることが分かるこの自分とは、では何だろうか。

 

「自分とは何か」という問いに対しては、「脳である」が答えになっていると科学では思っている。

 

でも、脳であるところの自分とは何か、それこそがその問いの不思議なんだから、これは、実はちっとも答えになってはいないんだ。

 

むろん、脳という器官、あの物質の塊が、体としての自分にとっての大事な器官であることは間違いない。

 

記憶や知識を蓄えて、思考や判断を行う。

 

大小の運動をつかさどるのもこの器官だ。

 

その意味では、自分とは脳であるとする科学の主張は正しいんだ。

 

でも、自分であるところのもともとの自分は、名前の付いたこの身体のことではなかったね。

 

だからやっぱり、自分を脳だとばかり思いこんでいるのは正しくないんだ。

 

 私は自分を体というより心というふうに感じますって、いう人がいるかもしれない。

 

うーん、議論はいよいよ核心に近づいてきたぞ。

 

この問題は、考えるほどに、本当に難しいんだ。

 

大きな声じゃ言えないけど、中学生の君にとって難しいんじゃなくて、世の立派な科学者たちの誰にとってもそうなんだ。

 

この問題に正解を出した人なんか、実は今までいないんだ。

 

なぜなら、何かを自分であることを正解とするとしても、その自分とは何かという問いは、どこまでも残るからだ。

 

池田明子著  「14歳からの哲学」 42,43ページから

 

金曜日に注文した本が早速届いた。

 

 

そんなに早く来なくても良いのだが、A社のシステム上そうなっているのだろう。

 

配達してくれる人や様々な人たちの懸命な努力によってこんな田舎にも素早く届けられることには感謝しかないが、それほど無理をしなくてもよくはないかとも思える。

 

それはさておきとりあえず読んでみた。

 

自分が何者でどこからきてどこに行くのか、さらに自己の存在はなぜこのように決定されているのかという問いに対する答えらしき部分を抜粋させてもらったのだが、いまいちピンとこない。

 

自分を自分として存在を決定するのは自分しかなく、さらにその自分を自分として決定する自分は自分しかないという論理が永遠に続くので結局答えは出ないということが書いてある。

 

それはそうだし既にそのようなことは考えたことがある。

 

何か別の考えがあるのかと思ったが残念。

 

他のページには自己意識というのものは、他人がいなくてもいつの間にか自分で持っていたとも書いてある。

 

それは本当かどうかはわからない。

 

他人がいるので自己が認識できるのではないかとも考えられる。

 

第一他人の居ない状態の人っていうのは存在しないのだから、もし万一存在してもその人が他人と接触しなければ実際のところはどうなのかわからないし、仮に接触してもその人に自己意識というものがあるとかないとか分かるかどうか。

 

私は科学者のように脳に自己が存在していると考えたい。

 

最近のAIの進化によって将来的に機械が自己意識を持つようになるかもしれない。

 

そうすれば自分という存在の謎が、あるいは少しわかるのかもしれない。

 

更に「死」は存在しないとも。

 

まだまだ書くべきことはあるがそれはまたの機会に。