以前走ることができた16年前に気になっていた熱田集落。

 

当時はまたすぐに来られる、という気持ちでパスしたが、すぐに通行止めになって15年間も通れなかった。

 

482号のここが集落の入り口。

 

 

その間この集落についてテレビでの特集を見たり記事を読んだりして想像を膨らませてきた。

 

何せふもとの集落から国道482になる前の林道を7kmほど上がって更に集落に入る細くて急な道を3km。

 

そうやってようやくたどり着くことができる。

 

この細い道のカーブがまたきつい。

 

180度に折れているのだが、それが狭くて急なので2度ほど切り返さないと曲がれない。

 

 

そんなカーブが5か所。

 

 

集落の入り口は坂がきつく、帰りスタートしたとたん思わずブレーキを踏んだらずるずると滑って止まらずひやりとしたこともあった。

 

路面は傷んでいるが一応舗装がされており、傾斜がきついところはコンクリート舗装だ。

 

このコンクリートのところが湧き水で湿っており滑る。

 

こういうところに来ると常に先に進めるのかと、もし進めなくなった場合戻れるのかという不安がある。

 

進めなくなってターンできなければとんでもない道をバックしないといけないがそうなるととてつもなく時間と精神を使う。

 

今回は幸いなことにぎりぎりターンできたが、幅はともかく長さが短い車でよかった。

 

ターンしようとしたらぎりぎりで後輪が浮いている。

 

 

集落は石垣と後から建てたようなそれでも錆びている小屋が2軒あって、太くなった木々の間に暗くひっそりとあった。

 

 

少し横には小学校跡地があるそうだ。

 

今では杉や竹が成長として暗くじめじめしたところだが、50数年前は人々の生活があり子供たちの声が聞こえていたのだろう。

 

この集落が放棄されたいきさつは後程記事を転載する。

 

現在の黒毛和牛の99,9%のルーツになる田尻号を産んだ集落として記録に残っているが、この隔離された場所ならさもありなんと思われた。

 

 

■日本の黒毛和種の歴史は一頭の但馬牛から始まった

全国の黒毛和種は、一頭の「但馬牛」から始まっているということをご存知でしたか?
平成24年「全国和牛登録協会」の調査で、日本の黒毛和種の99.9%が香美町小代(おじろ)区で産まれた「田尻号(たじりごう)」という一頭の牛から受け継がれていったものであると証明されました。
そもそも、但馬牛(たじまぎゅう)って知ってますか?
但馬牛と聞くと、「松坂牛、神戸牛、近江牛、佐賀牛、飛騨牛とかの素牛だよね?」とか「詳しく知らないけど、日本の和牛の原点だよね?」と答えられる方が多いと思います。
これらの回答も正解なのですが、「但馬牛をもっと詳しく知ってもらいたい!」と思い筆を走らせてみることにします。

◇但馬牛とは

但馬牛は、兵庫県産の黒毛和種のことで、兵庫県が指定する雄牛(県内に12頭)のみを歴代に亘り交配し誕生した牛で、県内で肥育された食用牛が「但馬牛」と呼ばれるものとなります。
その中から、一定以上の条件をクリア(霜降り度合いや歩留まりなど)した但馬牛のことを「神戸牛」とか「神戸ビーフ」と呼んでいます。つまり、神戸牛は但馬牛の中の一つのブランド(最高級)ということになります。
神戸牛となるには、霜降りという脂分の数値等が基準となっているので、赤身肉の美味しさにも着目されてきた昨今、神戸牛が但馬牛の中の最高牛肉という単純なものではなくなっているのも事実ですが、神戸牛のおかげもあって但馬牛の知名度も上がっています。

◇和牛の歴史、そして品種改良

ここからは、和牛の歴史を紐解きながら説明していきます。
江戸時代までの日本では、牛は食用としてではなく、農耕用として飼育されていました。それはここ香美町でも同じで、一軒に数頭の牛を飼い、一つの労働力として家族同様に育てられ、共に暮らしてきました。
時が経ち、明治初期、日本は文明開化とともに牛肉を食べる食文化が広まりました。それと同時に小柄な日本の牛を外国の牛のように体格の良い牛にしようと、品種改良(外国種の雄との交配)が盛んに行われていったのです。
ところが、これが大失敗。気性が荒く、働かず、病気も多い、そしてなにより肉質がよくないという残念な結果となってしまい、但馬牛も含む和牛の純粋種が絶滅の危機に直面してしまいました。

◇田尻号が「和牛の偉大なる父」と言われる所以

終戦後、元の和牛を取り戻そうと全国で本格的な取組みが始まりました。が、時すでに遅し。国内には純血の黒毛和種が残っていなかったのです。
和牛復活を諦めかけていた時、奇跡的に香美町小代区の山深い里(熱田地区)に外国種や他の血統との交配を逃れた純血の但馬牛が4頭残っていることが分かったのです。そこは、標高が700mもある高地で、他の村とも遠く離れていたこともあり、雑種化を逃れることが出来たのです。これが、一度は消えてしまったかに思われた黒毛和種を復活させる大きな要因となりました。まさに「小代の地理的要因が生んだ奇跡」と言えるでしょう。
そして、残った4頭の内の1頭の子孫として生まれたのが「和牛の偉大なる父」と言われる「田尻号(雄牛)」です。田尻号は、肉質のよい強い遺伝子をもった種牛で、当時はまだ凍結精液などなかった自然交配の時代、なんと生涯で約1500頭もの子孫を残しました。この田尻号のDNAが、今の黒毛和種の99.9%のルーツとなっているのです。
「奇跡の4頭」と呼ばれるこの牛たち。そして「田尻号」。この牛たちがいなかったら、現在世界中に広がる「和牛」は存在していなかったでしょう。

◇最後に

現在に至るまで、全国に広まった「田尻号」の遺伝子は各地で改良を重ねられ、ブランド牛となっています。現在も、あの有名な「松阪牛」のほとんどは、但馬牛の子牛を購入し育てられたものです。本家である香美町でも、独自の改良を重ね、他の和牛よりも融点が低くサラサラであっさりとした旨味の牛肉を生み出すなど、現在の神戸牛の発展を支えています。
そんな歴史と伝統のある但馬牛を使ったローストビーフ(神戸牛の基準をクリアしたもの)が、ワールドワンの展開する山陰隠岐の島ワールド2店舗で提供されています。
是非、ご賞味ください。

(文:香美町役場神戸営業所 今井和希)

 

時計2019/12/22 09:40神戸新聞NEXT

 

「和牛の聖地」記憶伝える 雪害機に50年前廃村 香美「熱田」

 

 

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移住のため但馬牛を引き、荷物を背負って約10キロの山道を越冬住宅へと向かう住民=1969年12月25日(吉田真佐子さん提供)

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移住のため但馬牛を引き、荷物を背負って約10キロの山道を越冬住宅へと向かう住民=1969年12月25日(吉田真佐子さん提供)

熱田の家屋の前に立つ吉田真佐子さん。「移住したくてしたわけではなかった」と当時の住民の思いを代弁する=香美町小代区新屋

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熱田の家屋の前に立つ吉田真佐子さん。「移住したくてしたわけではなかった」と当時の住民の思いを代弁する=香美町小代区新屋

吉田さん一家がかつて暮らした家屋=香美町小代区新屋

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吉田さん一家がかつて暮らした家屋=香美町小代区新屋

熱田の生き証人として慕われた田淵徳左衛門さん。自然体験教室の若者と(吉田真佐子さん提供)

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熱田の生き証人として慕われた田淵徳左衛門さん。自然体験教室の若者と(吉田真佐子さん提供)

 鳥取県境に近く、冬は雪で閉ざされる兵庫県香美町小代区(旧美方町)の高地に「熱田(あつた)」という廃村がある。但馬牛(うし)が外国種との交配による育種改良に失敗した明治期以降、新たな血統を作る基礎になった純血種が存在した“和牛の聖地”として語り継がれてきた。主婦1人が犠牲となった雪害を機に、全住民が集団移住を余儀なくされてから半世紀。熱田の「生き証人」と呼ばれた父親を今年亡くした出身者の女性は「集落が朽ち果てても、熱田の記憶を伝え続けたい」と話す。(金海隆至)

 

 香美町小代区と鳥取県若桜町を結ぶ国道482号から山道に入り数キロ。こけむした熱田橋を渡り、車がやっと通れるほどの狭い道を上った先が熱田だ。除雪が困難な12~3月は国道が閉鎖されるため、誰も足を踏み入れることはできない。

 標高約700メートルの集落では、住民が但馬牛と寝起きしながら稲作や蚕の飼育に従事し、冬は酒造りなどの出稼ぎで生計を立てた。水道やガスはなく、電気は自前の水力発電で確保。電話は公衆電話1台のみだった。住民の手で開校した小南小学校(現小代小学校)熱田分校に通った吉田(旧姓田淵)真佐子さん(67)=同町小代区秋岡=は「電気を通してくださいと県知事にお願いする手紙を児童全員で書いた」と振り返る。

 雪害に見舞われたのは1968年2月14日。大雪が降り積もった山道を、真佐子さんの母親ら主婦6人が買い物から帰宅する途中、雪崩で生き埋めになった。5人は助け合ってはい出したが、1人が翌日遺体で発見された。当時中学生だった真佐子さんは、悲しみに打ちひしがれた母親の姿が忘れられないという。

 雪深い現場へ救助に駆け付けた消防団長は「なぜこんなところに住まなければならないのか」と嘆いた。「その言葉が耳から離れない」と、真佐子さんの父徳左衛門さんは美方町の郷土資料に記している。

 へき地の不便さに雪害が追い打ちとなり、全住民9世帯約50人は翌69年12月25日、美方町が同町中心部に建設した越冬住宅へ集団移住した。「わしらが死んでからにしてくれ」と抵抗した古老らの反対を押し切っての決断だった。

 徳左衛門さんは移住後も但馬牛の放牧や農作業のため熱田に通った。大阪市の市民団体「大阪自然教室」が2010年ごろまで30年以上開催した自然体験教室を熱田の家屋で受け入れ、まきを割って自炊する小中学生を温かく見守った。自然への知恵と実直な人柄で尊敬を集め、交流した若者は延べ約900人。「人生観が変わった」思い出を胸に熱田を再訪する卒業生が今も後を絶たないという。

 妻に先立たれた徳左衛門さんは今年3月、「遺骨は熱田に」との遺言をして逝った。墓石は家屋裏の山林に立つ。真佐子さんは「父親も眠る熱田を何らかの形で残したい。訪れる人がいる限り、終わらせたくはない」と話す。

 

【越冬住宅】豪雪地帯の住民が積雪期を市街地で過ごすため兵庫県美方郡などで建設された住宅。香美町小代区(旧美方町)では1969年の熱田に次いで、71年には小長辿(こながたわ)集落の移住に向けて完成した。熱田では木造2階建て9棟のほか、共同使用の牛舎や倉庫を無償で譲渡。住民は借地料を支払った。移住後再び集落に戻った人はいない。現在暮らすのは1世帯1人のみ。