名古屋祭り 秀吉編 | プクッチ劇場

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 昨日の信長編に続いて今日は秀吉編。

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 秀吉の評価は明治から昭和の戦前にかけては非常に高かった。

 これは富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に秀吉を評価した。

 また秀吉を肯定することによって江戸幕府の評価を下げ明治政府の正当性を高めるという意図もあった。

 秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に誕生の地である名古屋市中村区や政権を執った大阪市では人気が高い。


 しかしっ!

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 その一方で、朝鮮半島では侵略者として否定的な印象を持たれているし、キリスト教を弾圧したことからローマカトリック教会では「ヘデロ王」「中国共産党」と並んで信仰の弾圧者として取り上げられることもある。

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 秀吉の出自は諸説あって、明確なことは分かっていないけども、身分の低い下層階級出身であったことは間違いない。

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 足軽の子であったとか、幼名は日吉丸だったとか、針売りをしてただのというのは全て憶測か、秀吉自らが作ったもので真相は定かではない。

 秀吉は出自の卑しさを隠すために、自分の母がかつて上洛した際、時の天皇が手をつけたことがあり、その結果生まれたのが自分だ、と吹聴した時期もあったが、当の大政所に怒られたため、取りやめたという話もある。

 関白になってからも母親から怒られるって、秀吉の面白い一面でもあるけど、秀吉はその生涯において子供っぽいところが往々にしてある。

 それが秀吉の魅力にもなってる。

 ルイス・フロイトによれば秀吉は「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」「抜け目なき策略家であった」「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」「ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした」などと評している。

 信長評に対して秀吉には辛辣な言葉で評しているが、秀吉は後年キリスト教を弾圧したのでルイス・フロイトは秀吉に対して悪感情を持っていた可能性もある。

 その分は割り引いて考えないといけない。





 秀吉は織田家に仕える前は今川家の直臣飯尾氏の配下である松下之綱に仕えていた。

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 ここで秀吉は之綱に目をかけられるが、他の家臣からの嫉妬や今川家での将来を考えて出奔する。

 記録によれば1554年から織田信長の小者として仕える。

 やがて秀吉は信長の歓心を買うことに成功し、次第に頭角をあらわしていく。

 秀吉の名が最初に現れた資料は1565年の「信長記」で「木下藤吉郎秀吉」と副署されてるもの。

 秀吉は美濃の斉藤家との戦いの中で、墨俣一夜城建設の功績を挙げた。

 名だたる信長の武将らが失敗した仕事に秀吉は成功する。

 この功績には蜂須賀小六等の協力を得ている。

 蜂須賀小六もその出自が明確ではないが無頼な連中で盗賊であったという説もある。

 秀吉は信長に仕える前にこうした連中との付き合いがあったと見えて、墨俣城も正攻法で建設するのではなくゲリラ的方法で築城に成功した。

 秀吉が信長に目をかけられたのは、そうした連中の諜報活動に期待して、という面もある。

 信長は非常に情報を大事にした。

 桶狭間の戦いでも一番の功績は、今川義元本隊が桶狭間で休息中であることを伝えた簗田政綱に与えられた。

 義元の首を挙げた毛利新助、最初の一太刀を浴びせた服部一忠を差し置いての評価。

 信長は斉藤家や武田家、その他の情報を常に収集していた。

 秀吉はそうした諜報活動にかなり使われていたのではないか?と推測される。

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 信長が死ぬまで秀吉は何度か危ない目に合ってる。

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 金ヶ崎の戦いでの殿軍を務めたこと、柴田勝家との確執で信長の許可を得ず勝手に上杉家との戦いの現場から帰還してしまったこと。

 しかし、それは秀吉がまだ天下取りを意識していない時の行動であって、天下取りを意識してから秀吉には三度の転機があった。

 一つは信長が光秀の謀反により死去した時の中国大返し。

 一説によれば光秀の謀反は秀吉との共謀だと言われている。

 いくら何でも70kmの距離を僅か一日でたどり着けるわけがない、事前の準備があったからこそ出来たという説。

 また信長の死を伝えに来た毛利の密偵が間違えて秀吉の陣に入ってきたのは不自然。

 光秀が近衛前久と内通しており、秀吉も大納言の勧修寺晴豊と内通しおり、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行った。

 本来、秀吉は毛利との戦闘において数で圧倒しており、信長の救援が必要でもないのに救援要請を行ったのは光秀に軍勢を集めるためだった。

 こんなような理由から光秀・秀吉共謀説を唱える人がいるが、諸事情から考えて秀吉が信長を殺す必要がない。

 70kmの行程を一日で取って返せたのも、信長の救援軍が来るための準備が功を奏しただけで、秀吉は光秀を討ったことで一躍天下取りの有力候補となる。


 そして二つ目は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで勝利したこと。

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 この戦いの勝利によって秀吉は織田家中で筆頭の地位を獲得。

 最も天下に近い男となる。

 そして三つ目は徳川家康の調略に成功したこと。

 家康は織田家中のゴタゴタには一切関知せず、自領を黙々と増やしていたが、信雄の要請により小牧・長久手で秀吉軍と激突する。

 数で圧倒する秀吉軍だったが、羽黒の戦い、小牧の戦いで家康は秀吉軍に勝利する。

 家康さえ自分に臣従すれば天下の諸大名も自分に臣従すると考えた秀吉は妹を家康の正室として、母を人質として家康の上洛を即す。

 さすがに家康もここまでされては逆らう理由が見つからず、上洛して臣下の礼をとる。
 
 この時、秀吉は前の晩、こっそり家康の宿にやってきて、翌日はこうしてもらいたいと明け透けにモノを言い、家康も秀吉の無邪気さにそれを承諾したと言われている。


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 やがて秀吉は四国・越中、九州、小田原を攻略して天下を統一する。

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 天下を統一した後の秀吉というのは、あんまりパッとしない。

 無理な朝鮮出兵をしたり、利休や秀次に切腹を命じたりと耄碌したのか、本来の地が出たのか、意味不明の行動が多い。

 太閤検地にしても刀狩にしても、関所の廃止といったものも、これ、全て信長がやっていたものを真似しただけで目新しい政策はない。

 また秀吉は自らが関白となり朝臣体制を採ったが、これも信長が足利将軍の権威を利用したものを真似たもので、朝廷を利用したことで秀吉の権力は絶大なものとなったが、一方で天皇の権威を借りているため政権に不安要素を抱えることになってしまう。

 後に秀頼が関白になれなかったのは家康の謀略とも言われていて、豊臣家滅亡の一因となった。

 秀吉は人を殺すことを嫌う人物とされているけども、実際には湖北一向一揆を殲滅したり、備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのため子供は串刺し、女は磔にして200人以上を処刑している。

 また、秀吉は「大気者」だったとも言われているが、狭量な面もあり、聚楽第に自身を非難する落書きが書かれた時は当番の兵を処刑し、作者を探し出して自害させている。

 何となく秀吉は信長がおった頃のほうが輝いて見えるのはうちだけか?


 秀吉はその容姿から信長に「猿」と呼ばれていたという説もあるけども。

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 実際にはそうした記録はない。

 また「禿げ鼠」と呼ばれていたという説もあるが、これは信長がねねに送った手紙の中に一度だけ「あの禿げ鼠」と書かれているだけで普段もそう呼んでいたかは不明。

 しかし、秀吉が最初に奉公した松下加兵衛は「猿を見つけ、異形成る者也」と語っており、毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげに猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。

 秀吉と謁見した朝鮮使節は「秀吉は顔が小さく色黒で猿に似ている」としている。

 織田家中では秀吉を蔑視する意味で「猿」と呼んでた者は多い。

 また秀吉は6本指の多指症だったと記録されており、右手の親指が一本多く信長から「六つめ」と呼ばれていたという記録は残っている。

 現代でもそうだが、当時でも6本指の場合、幼児期までに切除して五指にするが、秀吉は生涯6指で通し天下人になるまでその事実を隠すことがなかった。

 天下人になった後はこの事実を抹消し、肖像画も右手親指を隠す姿で描かせた。

 秀吉6指説は長い間、邪説扱いされていたが、近年では真説とする考えが有力になっている。


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 豊臣家は一代(ほぼ)で滅んでしまったため。

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 次の政権を執った徳川幕府体制の中では否定的な評価をされることが多かったが、それでも太閤秀吉の人気が今現在も続いているのは、秀吉本人に相当な魅力があったからだと思うで。

 何と言うても、「戦国一の出世頭」と評される男やから。

 秀吉は62歳で死んでもうたけど、ホンマ、一体何者でどこから来たのか、ほとんどが謎の人物や。

 信長という身分に頓着しない人物に仕えたからこそ、秀吉は天下を獲ることが出来たけど、ある意味、秀吉って信長や家康に比べると隙が有り過ぎるんやな。

 そういうところも人気がある理由やと思うわ。

 しかし、名古屋人って閉鎖的って言われるやろ?

 こんな土地から秀吉のような人物が出たのは不思議に思うわ。

 昔はそんなに閉鎖的でもなかったのかもしれんな、名古屋という街は。

 秀吉は能力よりもその人の好さで人気があると言うてもええ。

 そうせんとアカンかった秀吉の境遇というのもあるわな。

 信長にしても家康にしても武家の棟梁だったのに対して秀吉はそうではなかったから、わざと隙を見せてたのかもしれん。

 そう考えると案外、秀吉も食えん人物ということになる。

 まあ、その時代に生きてたわけやないから、どんな奴だったかはわからんけど、日本を統一したのは間違いなく秀吉や。

 信長が餅をついて、秀吉がこねて、家康がそれを食べた、というけども、確かに秀吉は繋ぎ役だったと思う。

 豊臣家が一代で滅んでしまったのも、あそこが限界やったからやないかな。

 でも男やったら一度は天下に名を馳せてみたいと思うやろ?

 秀吉はそうした意味で良いお手本やったと思うで。

 あんたらもそう思わん?

 思う?

 ああ、そう。

 ほなな。





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