栞 其の弐 | 仮面の裏に

仮面の裏に

徒然なるままに書き殴った文章群


退屈極まりない昼下がりの講義も半ば、光に透ける彼の髪を追う。
借りた本にも恐らくその髪の一本が挟まっていたが、
処遇に困って捨てられずにいる。
彼は先刻まで頁を捲っていたと思えば机に伏している。
かと思えば腕を組んでまともに講義を聞いていたりする。
少々呆れながらも、醒めた意識の遣りどころに困っていた。
視線を送り過ぎたことを自覚してしまったのだ。




彼とは一冊の本で繋がっているのみ。
あと半刻もすればその本も返してしまうのだから、
元通り何もかも無くなるのだろう。
そしてまた 飽きずに視線を送るだけの日々に還ってゆく。
私は一体どんな表情で本を手渡すのだろうか。
行儀が悪いと思いつつも手鏡を覗く。
何時も通り、化粧という鎧を纏っても尚醜く思えてならないこの顔。
こんな顔を彼に向けたくないと思いながらも何も変わらないもどかしさ。



もしも、仮にだ。
私の切れ長で険しいこの目が、円かに潤んでいれば。
私の切っ先の丸い鼻が、品良く尖っていれば。
私の卑しくも膨れた脣が、開くのを待つ蕾のように慎ましければ。
あの子のように、人形のように整った容貌であったならば。
私は踏み出すことができるのだろうか。

零れる程に咲く花のように笑えたならば。
精巧な硝子細工のように華奢な手足を持っていたならば。
胸の底を擽る様な甘い蜜の視線を送ることができたならば。
こんな押し潰した様な掠れ声でなく、鈴を転がした様な軽やかな声であるならば。
あの子のように、可愛いと形容される生き物であったならば。
私は近寄ることができるのだろうか。

否。
私は 私である限りそんなことは不可能なのだ。




急速に体内の熱が醒めてゆく。
相反するように目頭はつんと痛む。
何時もより丹念に整えた化粧も、爪も、髪も。
何度も書き直した栞も。
私のもの全てが腐臭に塗れてならないような、そんな心地に囚われる。
腕の古傷に爪を立ててやっと均衡を保てるような心地。
傍から見れば私の容姿など取るに足らない十人並みのものであり、
毒にも薬にもならない程度の代物であることは分かっている。
それでも二の足を踏んでしまうのはいつもこの自意識のせいなのだ。
誰も妨げなどしていない、
行く手を阻むのはいつもお前なのだ。
誇れるものなど何もないと言いつつものうのうと日々を生きている、
ついに自らを殺めることも叶わなかったお前なのだ。




これを返してしまえば終わり。
解りきっていたことだ。
それでも痛む。
繋がりを断たれることを何かが拒む痛み。
けれども私には何も望めない。


作り笑いひとつ作れそうにない惨めな心地で、
また西日に染まる彼の髪を追う。
睫毛も橙に染まっている。
頬も鼻梁も首筋も腕も、恐らくその熱も匂いも。
揺らいでは死んでゆく太陽に染まって、この眸を刺してゆく。
腸に渦巻く熱の塊は融けていない。
憧憬とも恋慕ともつかない、未だ知り得ぬ胸の疼きは鎮まらない。

ふと、ハンカチに包んだ一本の髪を見やる。
かつて彼であった、そしてもう死んだ組織の一つ。
――-これ位持っていても、罰は当たるまい。
そんな発想が滑稽に思えてならず、
先程までの鎖のような思い込みもどういう訳だか解けていった。
どうせ今まで生きてきてしまったのだ、
仮に拒絶されたとしても みっともなく生きていけるだろう。
針の莚を越えた私には痛くなど無い筈だ。






そして私は一冊の本を持って立ち上がる。
栞は無論挟んだまま、だ。


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前回の記事がなんだか気恥ずかしかったので痛々しい続編。
こっちの方がしっくりくる笑