講義室の列を隔てて座る彼に一冊の本を借りた。
何のことはない、只の同期だと思っていたのに、
いつの間にか目が離せなくなっていた。
彼は何時も一人で本を読んでいた。
形の良い鼻梁と、やや長めの睫毛が伏せるさま。
その横顔をちらりと視界に入れるだけで満たされていたのに。
歯止めの効かなくなったある日、声をかけてしまった。
みっともなく震える声にも笑わないでいてくれたのが救いでもあり、
擽ったくもある。
借りた本は意外にもくたびれていた。
軽く折れた頁も、恐らく彼の癖なのであろう無数の付箋も。
彼の所有する本に触れているという悦び。
同じ文の一説を咀嚼し、脳に刻んでゆく過程を踏んでいるという悦び。
私には少々難しい内容だが、博識な彼は難なく呑み込んでいったのだろうか。
ふと頁を捲る彼の姿が掠めて、胸の底が疼く。
体躯の割に繊細な、神経質そうな指。
本を借りる際に触れてしまった、その記憶が溢れる様に蘇る。
この本を返してしまえば、また元の何もない間柄に戻るのだろう。
一冊の本を介したごくごく淡い繋がりであったけれど、
それが心地よくて離し難かった。
浅ましい女、と思われるかもしれないが、
もっと長く、そしてより深く関わりたいと思ってしまう。
それが可能なのか不可能なのか 計算のしようが無いのが悩ましい。
生暖かい何かが胸の中をゆっくりと渦巻くような。
息苦しくなるのに不快ではない感覚。
教科書のどこにも記載されていない症状に戸惑ってしまう。
ふと、鏡を見てみると。
何時になく柔らかい表情の自分が居た。
普段は血の気の無い頬も、隈の深い目元も微かに紅を差したように染まっている。
そんな顔を見ているのが耐えられなくなってすぐさま視線を逸らしたが、
何故だか腹の据わった心地の自分が居た。
明日、この本を返そう。
美しい栞にごくあっさりとしたお礼の言葉を乗せて。
そして言葉を繋いでみよう。
答など誰にも知り得ないのだから。
----------------------------
頑張って乙女になりきってみたけど限界。
ものの貸し借りって案外その人が見えるから不思議ですね
借りた物の扱いに人となりが滲む気がします。